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  二人が眼に映るもの、
  いまだ酸ゆき梅の果、
  土竜のみち、
  昼の幽霊。

     1/四月四日

 僕の言葉に、姉は片目だけを器用に細めてみせると、煙草を咥え直してわざとらしく煙を吸い込んだ。四秒。一拍の間。そして、煙が静かに吐き出される。薄くたなびいた紫煙は霧のように僕の視界を濁らせた。胡座を掻く姉の眼前、仏壇の傍で控えめに微笑む僕の写真も、すっかり霞んでしまっている。
「一丁前に説教のつもり?」姉が、煙と共にそんな言葉を吐き出した。
 開け放たれた障子の向こう側はとても明るい。その分、此方こちらはとても濃い影に覆われていて、そのためか、姉の吐き出す煙と、先ほど姉が乱雑に突き刺した一本の線香の煙の動きがよく見えた。煙は空中で混ざり合い、僕たちの周囲で停滞している。
 晴天。少しだけ肌寒い、休日の午前。
 此処ここには、その独特の静けさだけがあった。
「違うよ。そんなつもりじゃない」その静寂を打ち破るようにして、僕は少しだけ強い口調で言った。
「これは私のからだなの。なにをしたって、お前に文句を言われる筋合いはないわ」
 姉の声は、僅かな唇の動きに反してやけにはっきりと届いた。僕が罅を入れたはずの静寂は、姉の声によって瞬く間に取り戻される。否、僕の声は、姉のように空気を揺らすことさえままならない。
 昔から、姉の声が少しだけ苦手だった。絶えず揺蕩たゆたい、空気のように実体の薄いくせをして、どうにも僕の意識を釘付けにするのだ。まるで、世界には彼女の吐息だけが満ちていて、姉と僕だけが、この世界の中で生きているかのように錯覚させられる。それがどうにも苦手だった。
 姉は煙草を軽く指先で叩くと、線香を立てた香炉の中に灰を落とした。仏具を灰皿代わりにするなんて、と僕は口を開きそうになったが、また説教か、と言われてはたまらない。彼女が不機嫌になれば、きっと会話もしてくれなくなるだろう。それは嫌だったので、僕は息を吐き出すことで己の不満を誤魔化した。
「姉さんのためを思って言っただけだよ。煙草って、肺癌になりやすいんだろ。きっとすごく苦しいよ。僕は、姉さんが苦しむのは嫌だな」
 姉は無言のまま、しかし僕の言葉に答える代わりに、煙草の火を揉み消すとすぐに新しい煙草を取り出した。蝋燭で煙草に火を点ける。姉の指は、その真新しい煙草のように白くて細い。或いは、その蝋燭のように滑らかだ。
「煙草って美味しいの?」
「特に」姉は煙草を軽く嚙んだ。「吸わなきゃ気が済まないってだけ。お前だって、私に八つ当たりされたくはないでしょう」
「それって、本当はいつも僕に八つ当たりしたいってこと?」
「そうね」姉は、仏壇めがけて煙を吐き出した。
「僕はべつに、してくれてもかまわないよ」
 姉は初めて視線を動かした。なにも見えてはいないはずだけれど、それでも、僕はその仕草が嬉しかった。姉は右を見たので、たった今、僕は姉の右側に座っている、ということになった。
「今、お前が笑ってる気がする」姉はさらに煙草を嚙み潰した。「鬱陶しい」
「だって、嬉しくてさ。笑っちゃうに決まってるよ」
「なにが?」
「姉さんにとっては、僕はちゃんとその辺りにいるんだなって」
 姉は一瞬動きを止めた。しかし、すぐに眉を寄せると、顔を歪めてわざとらしく息を吐き出す。
 姉が口を開いた、そのときだ。
「あら⋯⋯」背後から、女性の声が聞こえてきた。僕たちは咄嗟に押し黙る。「今日もお線香が⋯⋯」
 いつのまにか和室にいた女性は仏壇の傍までやってくると、一瞬だけ姉の姿を捉えた。しかし、姉が渋々腰を上げて座布団を譲った頃には既に彼女の存在さえ忘れ去っていて、それ以降、此方に目を向けることはない。
 その初老の女性は、仏壇の前に置かれた写真の、つまり僕の、母だ。もちろん、姉の母でもある。
「不思議なこともあるものねえ⋯⋯」
 母は独り言を呟きながら座布団の上で正座し、線香を立てた。いつもどおり、律儀にりんを鳴らしてから、数珠を片手に経を読み始める。
「このお経って、どういう意味なの?」
「知らない」白煙の中で、赤い唇が蠢いた。
「どうして? 僕よりもずっと長くこの家にいたのに?」
「飽きるほど聞かされて、たしかに文句は勝手に覚えたけれど、それは音で覚えているだけで、意味なんて一度も、誰も口にすることはなかったわ。大体、唱えたところでお前のことさえどうにもできなかったんだから、たいしたご利益なんてないんでしょう」再び母と目が合ったが、それも一瞬のことだった。読経が再開されると、姉は肩を竦めてから少しだけ声量を落とした。「まあ、私が男だったなら、事情は違っていたのかもしれないけど」
「どういうこと?」
「男なら、この寺を継ぐ。だから、そういうことも教えたんじゃないかってこと」
「そういう考え方、今どきじゃないね」
「お前が今どきを語るの?」
 姉は可笑しそうに唇を湾曲させた。とても珍しいことだった。つい嬉しくなってしまって、僕はさらに何かを言おうと口を開きかけたけれど、うまく言葉が見つからない。下手に言葉を探して失敗するよりはこらえておくほうがいい、と思うことにした。
 僕が黙っている間に、姉さんの口角は少しずつ下がっていった。不機嫌になったわけではない。この顔がデフォルトなのだ。
「姉さんも、出家してみたら?」
 僕の唐突な言葉に、姉は短く息を吐き出してから目を細めた。笑みのようにも見えたけれど、それはどこか歪んでいて、笑顔と言うにはいろいろなものが足りていない。自嘲のこもった、投げやりな笑い方をしていた。
「もう出家してるみたいなものだと思うけど」
「そうなんだけど、そうじゃなくてさ。自分は出家してるんだ、って姉さん自身が思わないと、出家してることにはならないだろ? なんでもそうだよ。自分がそうだって思ったら、そういうことになる。だから、姉さんもそう思うようにしてみれば? っていう⋯⋯、そう、これは、提案」
「出家したいわけでもないけど」
「髪を剃るのが嫌?」
「それはどうでもいい。あまり頓着してないから」
「そうみたいだね」僕は姉の髪を盗み見た。「今も、寝癖がついてるし」
「寝癖?」
「うん。後ろ髪が少し跳ねてる」
「いつ見たの?」煙草を吸う手を止めて、姉が訝しげな表情を浮かべた。
「え? さあ⋯⋯、でも、さっきだよ。そんなのちゃんと覚えてない」
「お前が、私の躰をどうやって見るっていうの?」
「今も見えるよ。姉さんの手なら。足だって見える。そもそも、ほら、鏡を使えばいい」
「私の後頭部は、私が合わせ鏡でも使わないと無理よ」
「あ、そうか。自分の背中は見えないもんね」こんな話をしているうちに、姉さんの寝癖を見た一瞬の映像が実は自分の妄想だったのではないかと不安になった。「どこか、鏡かなにかに映っていたのを横目で見たんじゃないかな」
「答えになってないわ」
「もしかしたら、僕が勝手に作り出したイメージかも。なんとなく見た気になっているだけで、実際はそんなところ見たことなかった、みたいなこと、たまにあるだろ」
「よくわからない」姉はようやく煙草を吸った。
 読経が終わった。また鈴を鳴らして手を合わせた母は、少し涙ぐんでいるようだった。その様子に、僕も少しだけ泣きそうになった。僕は今、姉さんの躰の中で生きているんだよ、と伝えられたら、といつも思う。だけど、それもできない。母には、もう姉の声さえ届かないのだ。
 もっとも、僕が姉の躰でそう声をかけることができたとして、姉さんがいきなり笑顔になって優しい口調で話し始めたことに母さんはひっくり返るほど驚いてしまって、肝心の僕の告白は聞き流されてしまうにちがいない。そんな様子を想像すると、少しだけ可笑しかった。