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     4/三月二十二日

 そこに、宇宙を見た気がした。
 もちろん錯覚だった。天井は薄く汚れた白。冷たい空気、高い暗闇の気配はどこにもない。
 天井を見上げていた顔を下ろし、呆けた顔のまま四方田先生に視線を戻す。彼の肩越しに、窓の外に広がる薄ぼんやりとした桜が見えた。まだ昼間だということを、今さら思い出す。四方田研の教授室の窓からこの景色を見るのは二度目だ。教授と出会ってから、二度目の春を迎えようとしている。
「あの⋯⋯、なんのお話でしたっけ?」
「僕たちひとりひとりが宇宙そのものとも言える、という話でしたね」学生に語りかけるような口調で、四方田先生は微笑んで言った。「宇宙の星々を撮影した写真を見たことがありますか? 真っ暗闇の宇宙に、とんでもなく鮮やかな銀河系や星雲が浮かんでいる写真です。あれは、実際にあんな色を発しているわけではなくて、僕たちがフィルタをとおして色を割り当てているに過ぎないんだ。それと同じことが、生命体にも言える。なにかわかるかな? うん、そう、神経細胞です。ネットワークを張り巡らせた神経細胞の写真は見たことがある? 真っ暗な背景で、神経細胞だけが冗談のように蛍光色を発している写真なんだけれども、実際、冗談なんだよ。あれもまた、僕たちがわかりやすいように、蛍光タンパクを導入して、僕たちが勝手に染色したものだ。つまり、宇宙もまた、ひとつの生命体かもしれない。僕たちはひとつの生命体を、その躰の内側から観察していることになる。僕の躰を構成している細胞が、僕という人間を観察している、という状況だね」
「ですが、色を差し置いても、よく似ていると思ったことはあります」ようやく、思考を放棄していた頭が回り始めた。「それから、宇宙の、途方もない果てに思いを馳せたときに感じる空恐ろしさと、この躰の中で、目に見えないほどの小さな物質が、自分の意識の外で私を支配し、生かし、まさに今、意識をもたらしていること⋯⋯、ええ、もちろん、スケール感はまったく異なりますが」
「美しさと恐怖の境目は、どこにあると思う?」
「え?」突然、教授の話が飛んだ。昔、ラジカセを地面に置いた衝撃で曲が飛ぶことがよくあったが、不意にその感覚を思い出した。「えっと⋯⋯、そもそも、そのふたつが、隣接しているのですか?」
「恐怖よりも、畏怖といったほうがわかりやすいかもしれない」
「畏怖と、美しさ⋯⋯」
「僕はね、同じものだと思っているんだ。宇宙の果ても生命のしくみも、僕たちの理解を簡単に超えている。なぜ宇宙は生まれた? なぜ生命は生まれた? 今、我々が此処に生まれ、意識を持つまでの、途方もない、そう、本当に途方もない確率と選択の積み重ねで、僕たちは今、此処にいる。どれかひとつでも違えていたらと、今自分が立つ不安定な足場に気づき、恐ろしくなるのも無理はない。存在とは、途方もない試行回数の果てで起こった偶然でしかないんです。だけど、生命というものは、偶然にしては、あまりにも綺麗すぎる」
「綺麗すぎる? 生命が?」いまいちピンとこない言葉の組み合わせだった。
「理論だけでは到底成立し得ない。なにか、僕たちには介入することさえできない偶然性というのか、曖昧さというのか、そういった存在を感じることがある。その揺らぎこそ、不完全性こそが、生命を生命たらしめるファクタであって、生命が生命と成るかどうかを運命づけるキーポイントではないのかと、僕は常々思うよ」
「ええ⋯⋯」
「あ、そうだ、先ほどの話だけれどね、生命を宇宙と置き換えてもいい。綺麗だと君が思うものに置き換えてもらってかまいません。その危ういバランス、その希少性、有り得ないからこそ、いつか容易く失われると予感できるもの、そういったものに対して、我々は美しいと感じる。そう、だからね、存在していること、その事実だけで美しいんだ。存在そのものが、ただ美しい。だけど人は意味を求め続けていて、それが使命だと錯覚している。どうして自分は生ているのか? なにを成すために生まれてきたのか? 僕たちが求めている意味なんてものは、存在が通り過ぎた跡にできた軌跡みたいなものだ。這いずり回った跡を観察して、そこになんらかの意味を求めようとしている。そうして意味のある軌跡を求めるあまりに、存在している、という事実が持つ美しさを忘れてしまう。違うんだ、存在すること、それだけで意味を持つ。細胞のように、銀河のように、ただ存在するだけでいい。ああ、もしかして、どうして自分は存在しているんだろうって、細胞が自分自身の存在の意義に悩むことで、アポトーシスが起こっているのか? あの現象は、いわば同時自殺テロみたいなものだね。或いは、細胞にとっての災害と言えるのかもしれない。細胞同士の殺し合いに、ひとつひとつ、動機がある? だけど、僕たちはその現象によって生まれ、生かされている。僕たちが生まれるためには、アポトーシスはなくてはならない現象だ。その仕組みも、その理由も解明されていない。けれど、脳でアポトーシスが起きなければ、形成は不充分になる。指の形成だって、アポトーシスのおかげだ。細胞が細胞を殺すことで、僕たちは生かされている。命の上に僕たちは立って、生きている。それは罪だろうか?」
「先生は、すべてそのようなものだと、割り切られているのですか?」
「そうは思っていません。そこまで割り切ることなんてできないし、僕は、君もよく知っていると思うけれど、助けたいと思うんだ。まさか、予期せぬ命の失い方をした人に、貴方が今ここで命を落とすのは世のため人のため、そう仕組まれているんだから仕方ないね⋯⋯、とは言えません。言いたくない。少なくとも、僕は」
「割り切れる、割り切れないの差は、いったいどこに?」
「さあ。なんでしょう。僕という生命の不完全さが見せる夢かもしれない」
 四方田先生は一度合図のように微笑むと、おもむろに立ち上がった。私はただ、彼の背中を視線だけで追いかける。これも、四方田先生が描く軌跡と言えるのかもしれない。私は今、それを追いかけている。
 彼は、教授室の短い突き当たり、窓の前で立ち止まった。背中に手を回して窓を覗き込んでいる。「ほら」と言って教授は一度此方を振り返った。私も椅子から立ち上がり、会議机を迂回して、四方田先生の隣に立つ。
 窓の向こう側には、大学構内を縦断しているメインストリートが見えた。学生の自転車が道沿いに並んでいるが、その数はいつもより疎らだった。そして、その自転車を覆い隠してしまうかのように、メインストリートの両サイドには桜の木が並び立っている。風に揺れるたび、小さな桜の花びらが宙を忙しなく舞った。
「綺麗ですね」
「これもまた、喪失の予感がもたらす感情でしょう」教授は窓の下を覗き込みながら言った。「同じ瞬間はない。桜は、それをわかりやすく体現しています」
「いつの間に蕾をつけていたかと思えばあっという間に咲いて、ですが、満開になるかと思ったときには、もう既に、散り始めていますから⋯⋯」
「そのとおりです」
「私たちが今見ているこの一瞬は、もう二度と、繰り返されることはないから?」
「だからこそ、美しいんだろうね」
 どこまでも薄く軟らかな青色が、空に広がっていた。
 遠くから、学生の話し声が聞こえる。
 風が強く吹いた。
 桜が散る。
「春ですね」四方田先生は、穏やかな声で言った。