(7,0)

     3

 僕が自らの躰を手放したのは、梅が咲く季節のことだった。僕の戒名にも梅の一文字が入っているが、実際に梅が咲いていたかどうかはわからない。病室の窓からは、代わり映えのない草が広がる中庭か、寒々しい曇り空しか見えなかった。
 今は桜が咲いている。今日は、僕の命日から数えて四十九日目にあたる。
 境内にちろちろと薄桃の花弁が落ちる様子を眺めているのが僕は好きだった。今も好きだ。けれど、姉の目を通して見る桜は、僕が見ていたものと少し違う気がした。僕はもっと美しいものだと感じていたけれど、どうやら姉はそうではないらしい。同じものを見ているはずなのに、同じものを見ていない。僕の場合は、病室暮らしでなかなか見ることができなかった分、桜のことを得難いもののように感じていたのかもしれない。
 姉はすぐに桜から目を離した。もう少し見ていたかったのだが、僕は黙ったまま、大人しく姉の視界を共有する。視界の高さにはあまり違和感を覚えない。生前の僕は、姉とあまり身長が変わらなかったみたいだ。
 姉の視界はとても生々しい。けれど、生々しいからといって、現実かどうかはわからない。今の僕は夢と現実の境目が完全に消滅している。つまり、僕にとってはどちらも夢で、どちらも現実。
 たとえば、たった十分ほど前、姉が鏡で寝癖を確認していたけれど、僕は昔から、そういったほんの少し前の出来事が夢のように感じられた。たった十分前に姉と会話をする自分が存在していた、という事実が理解できない。その現実が存在していたことが受け入れられない。昔の僕は、それを感じるたびに、もう戻らない時間というものに恐怖していた。でも、今は違う。僕はもう、躰から解き放たれた。時間とか、空間とか、正しいとか正しくないとか、存在や価値といったものから僕は一度解き放たれたのだ。だからもう、恐怖は感じない。夢と現実の境目がなくなるということは、生と死の境目もなくなったということになる。だって、そうだろ。眠りに落ちる瞬間は、まさに死に落ちる瞬間であるのだから。
 姉は縁側に出ると、煙草を片手にその場に座り込んだ。視界の端に桜が見えるが、姉は空を見上げていて、そちらには意識が向けられていない。
「あの日も、こんな空だった」姉が呟く。
「あの日?」
「お前を殺した日」
「ああ⋯⋯」僕も空を見る。平日の、静かな午前の空。「そうだったね」
 しかし、僕の相槌が気に入らなかったのか、姉は再び口を噤んでしまった。煙草を嚙み潰すようにして唇を閉ざしている。
「ちゃんと覚えてるよ。僕はそのとき、ベッドの上で寝転んでいて、姉さんの顔と、天井と、窓の向こうに見えた青空を見ていたんだ。姉さんの顔は影に覆われていて、なのに空が明るくて、とてもよく覚えている。シーツの感触も覚えていた気がするけれど、今はもう、少しわからなくなってきた。姉さんの手の冷たさだって、絶対に忘れられないだろうなって思っていたのに、やっぱり、意識だけじゃ覚えていられることにも限界があるみたいだ」
「もういい」姉は乱暴に言った。「わざわざ言わないで」
「姉さんには、悪いことをしたと思ってる」
「そう思っているなら、もうなにも言わないで」姉は目を瞑り、厳しく眉を寄せる。「私は思い出したくもないの」
 なにを思い出したくないのか、と訊ねそうになったが、僕はすんでのところで質問を呑み込んだ。僕に「殺してくれ」と頼まれたときのことか、僕を殺しているときのことか、それとも、すべてが終わってしまったあとのことか。
 どれにせよ、姉が思い出したがらないのは少し意外だった。ますます悪いことをしたな、と思う。死を遠ざける。生きている、という意識を忘れようとする。やはり、それは人間の防衛本能なのだろう。
 でも、僕は今、生きている。
 僕の躰は失ってしまったけれど、それでも、この意識は生きているのだ。
 なぜ、忌避する必要がある?
 そもそも、意識がこうも肉体に引き摺られていることがまず可笑しな話だ。肉体がなにかのきっかけでうまく働かなくなるだけで、姉さんの意識だって消えてしまう。僕たちは二度と戻ることができない。消えたまま、それで終わり。やはり、躰と魂が別々のものであれば良かった。そうすれば悩むことも苦しむこともないのに、そうではないから、躰という器に囚われなければならない。生命はそうして、生まれて、消えて、異なる個体になにかを託していくことを選んだ。
 自分の意識のひとかけらだって、そこには残せないのに。
「楽しい話でもしようか」沈みかけた思考を振りきり、僕は提案する。
「お前と私の共通の話題で、楽しい話なんてある?」
 縁側に座っていた姉が目を逸らすと、その先に蝶が飛んでいた。頼りなく風に揺られている様を姉が目で追っていく。
「スジグロシロチョウだね」僕が言った。
「本当に?」姉は疑いを隠さない声で訊ねた。「今、此処から見ただけでわかるの?」
「モンシロチョウとよく似てるけど、少し大きいし、ほら、翅に黒い筋がある」
「私は、よく見えない」
「僕も、本物を見たことはほとんどない」
「それにしては妙に詳しいのね」姉は鼻から息を漏らして笑った。
「入院中は退屈だし、外にも遊びにいけなかったから、その分、本を読むことが多かったんだ。母さんにもいろんな図鑑を買ってもらっていたんだよ。それで知ってたんだ。蝶のページは何度も見たから、結構覚えてる」
「蝶以外は?」
「他にもいろいろある、えっと⋯⋯」姉から質問されたのが嬉しくて、僕は急いで記憶を漁った。「そうだね、昆虫図鑑だと、カブトムシとかクワガタとかも好きだったな。恐竜の図鑑は表紙がほつれるほど見たし、海の生き物図鑑もすごく面白かった。特に、深海魚が興味深くって、あれは姉さんも結構好きだと思う」
「そう」
「花の図鑑も持っていたけど、好きなのに、あまり覚えられなかったんだ。すごく有名なものとか、姉さんの名前の花くらいならわかるけど⋯⋯」
 どうやら僕たちは、同じ躰を共有しているにもかかわらず、知識が共有されていない。同じ視界を共有していても見え方が異なっているようだ。
 これは、僕が姉ではない、ということの証明にはならないだろうか。僕は僕として独立した精神、或いは確固とした意識であって、少なくとも、姉が生み出した僕のイメージ、なんて曖昧なものではないはずだ。
「そういえば⋯⋯」姉が呟いた。「お前は、毎年⋯⋯」
「なに?」
 姉が俯く。「やっぱり、なんでもない」
 蝶からも視線を外して、姉は目を閉じた。