第一章 小暑

 
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 それは、数日に渡って降り続けた土砂降りの雨から一転、茹だるような暑さに切り替わった七月一日のことだった。
 名護さきと共に屋上に出て、昼食を摂る。連日の雨もあり、その日は久しぶりに屋上で過ごす昼休みだった。立入禁止の看板と、飛び降り自殺の幽霊が出る、という噂のおかげか人気は無い。とはいえ、看板を下げる鎖は心許なく緩み切っているし、鍵も壊れたまま放置されている。侵入は簡単だった。
 弁当を食べ終えて、紙コップを手に取る。中身のアイスコーヒーは既に温くなっていた。
「どうせ、また呼び出されるんだぜ」
 真崎の唐突な言葉に、紙コップを持ち上げる手が止まる。真崎は少し下を向いて紙パックの牛乳を飲んでいた。
 突然の話題、そして不親切な転換。いつもこうだった。脈絡がないのだ。その上、呼び出しを食らう理由については思い当たることしかない。例えば、課題。この男は課題をろくに提出したことがない。したとしても、それはほどよく答えを書き写しただけのもので、頭は悪くないくせに、提出物にも試験にも真剣に取り組まない。名護真崎はそういう男だった。
 提出物。そこでようやく思い至る。
「進路調査のこと?」今朝のホームルームで回収された、進路希望調査表のことだ。
「そう」真崎はストローを噛みながら、あっさりと答えた。「第一以外、白紙で出したから」
「適当に埋めとけって、言っただろ」
「家業を継ぎます、以外に何書くんだよ」
「例えば⋯⋯、大学進学、とか」
「へえ。どこ書いた?」
「私大の仏教学部」
「お前、絶対行く気ねえじゃん」俺の答えに真崎は笑ったが、すぐに気付いたのか、悔しそうに舌打ちをした。「オレもそう書けば良かったのか」
 とはいえ自分も、第一志望は家業と書いた。第二志望は国立大学の理学部。第三志望は私大の仏教学部。どちらも、行く気がないから書けたような大学の名前だった。第四、第五に至っては記憶にない。
「どこ書こうかな」
 真崎が紙パックを片手に、携帯を触りながら呟く。呼び出される前提で、空欄を埋めるための大学を探しているらしい。
「あそこは? 京都の」
「それさ、オレの学力でもいけそうなとこか?」
「お前、頭は悪くないんだから」
「そりゃあ、入試で経典とか、仏像の名前とか聞いてくれるんなら答えられるけど」真崎が黙り込んだ。どうやら試験科目を調べているようだ。「国語と英語が必須、数学と地歴公民から選択⋯⋯、はい、絶対に無理」
「受ける気ないんじゃなかったのか」
「でも、オレが東京大学、って書いたら流石に可笑しいだろ。先生が見ても、変じゃない程度の大学の方が良いじゃん、やっぱり」
 大抵どこでも学力試験だ、と伝えるかどうか迷ったが、やめておくことにした。そもそも一般には、一介の高校生が経典を諳んじたり、仏像の名前を答えられることの方が可笑しい。
 真崎が携帯をズボンのポケットにしまった。尤もらしい大学探しへの興味は、もう失われてしまったようだ。牛乳を飲み干して、紙パックを傍に置いてから軽く背を伸ばした真崎は、不意に、判り易く片目を細めた。
「見ろよ、あれ。陽炎だぜ」
 真崎の視線を追う。確かに、アスファルトが揺らめいていた。遠くから聞こえる蝉の鳴き声も相俟って、空間そのものがどこか不安定に感じられる。
「急に暑くなったしな」適当に相槌を打った。
「オン・マリシエイ・ソワカ⋯⋯、ってか」
「何?」
「摩利支天」
 それだけ答えてから、真崎は一度、大きな欠伸を洩らす。日陰に座り込んでいるとはいえ、色の抜けた前髪を掻き上げた額には、汗が滲んでいるようだった。
「何それ」もう一度、訊ね直す。
「陽炎の女神⋯⋯、だったかな。さっきのはその真言。必勝祈願ってやつ?」
 印を結んでみせながら説明を続ける真崎を横目に、俺は手に持ったままだった紙コップを傾けて、中身を一気に飲み干した。しばらくすると、訊ねておいて返事をしない此方の様子に気付いたのか、真崎が不満気な声を零す。
「どうしたんだよ、お前」
「知識が偏ってるな、と思っただけ」
「それ、勉強できねえくせに変なことばっかり知ってんな、って遠回しに言ってんのか?」
「別に遠回しじゃない」
「にゃろ」真崎が笑う。白色が、その隙間から覗いた。「オレだって、別に覚えたくて覚えたわけじゃねえよ」
「ふぅん」
 此方の薄い反応に小さく肩を竦めてみせた真崎は、視線を外し、再び目を細めた。敢えて、その視線の先を追うことはしなかった。見ていて気持ちの良いものではないからだ。
「お、また陽炎。案外気持ち悪いもんだな、視界が揺れるってのは」
 その言葉に、空になった紙コップを片手で握り潰した。その手も、紙コップも、自分の視界の中ではアスファルトと同じように揺れている。
 アスファルト⋯⋯、
 影の向こう。
 一瞬の、錯覚。
 誰もいなかった。
 否、
 何かが、在る。
 揺れる視界の端。幻覚。
 目を瞑る。
 早鳴きの蝉の声が、妙に煩い。
「なあ。なんか、答えてくれねえの」
 真崎の問いかけに目を開く。また、視界が揺れた。
「ちょっと嫌なこと思い出した。お前の言葉で」
「何? もしかしてオレ、地雷踏んだ?」
「物の見事に」
「ごめんって、な、狭霧⋯⋯、もう一杯奢るから、許して」
 此方に躰を向けて手を合わせる真崎に笑いかけたつもりだったが、実際は短く息が吐き出されただけだった。昔から愛想は悪かったが、最近は特に、笑顔を浮かべることが出来なくなったと自覚する。
「俺の機嫌は百円より安いのかよ」
「そういうわけじゃねえけど」
「どうだか」
 会話が途切れた瞬間、生温い風が俺と真崎の頬に触れた。いまさら沈黙を気にする間柄でもない。しかし、今ばかりはどうしても、穏やかな気持ちではいられなかった。
 影の向こうに、何かがいるのだ。
 それも、人間ではない。生物では有り得ない何かが。
 鼓動が徐々に速まっていく。掌が汗ばんでいく。僅かに、呼吸が乱れた。
 影の中は揺れている。
 平衡感覚を失いかけて、咄嗟に俯いて左手で額を押さえた。息を吐き出しながら、慎重に目を開く。視界の端に捉えた影の向こう側に、今すぐにでも飛び出してしまいたかった。
 幻覚でも、
 幽霊でも、
 構わない。
 そこまで考えて、知らぬ間に詰めていた息を吐き出した。馬鹿馬鹿しい。どちらにせよ有り得ないことではないか。視界の端に佇む女生徒が、幻覚だとしても、本物の幽霊かもしれなくても。
 まして、本物の人間であったならば。
「なあ」
 真崎の声に、意識が急激に引き戻される。「⋯⋯、何」軽く頭を振ってから、返事をした。
「いや⋯⋯、ちょっと、変なこと思い出して」
「変なこと?」
「此処、変な噂があったろ。確か⋯⋯、ほら、飛び降り自殺だっけな」
「それが、どうかしたか」一瞬、影の向こうを盗み見た。
「いやまあ、オレたちはさ、その噂のおかげで悠々と屋上を使えてるわけだけど」まだ、頭が少し重たい。「いくらなんでもビビリすぎだよな、と思ってさ」徐々に動悸が速まって、喉が詰まる。息が苦しい。「こんな絶好の場所、あんなボロい看板の一つで律儀にお約束を守ってるわけじゃねえだろ、流石に」
「あのさ」耐えきれず、真崎の言葉を遮って声をかけた。ようやく吐き出した息は、少し震えていた。「お前、幽霊って信じる?」
「あ? 幽霊?」唐突な質問に、真崎は少し面食らった様子を見せる。「さあ⋯⋯、でも、あれだけ墓に囲まれて暮らしてきたわりに、見たことないし」
「じゃあ、あれは?」
「は?」
 あらぬ方向を指さした俺の指先を、真崎がゆっくりと辿っていく。
 その先には、一人の少女がいた。
「⋯⋯、⋯⋯は?」
 まさか、と声を零して、真崎は再び此方を向いた。その反応から、真崎にも見えていたことを確認する。つまり俺の幻覚ではない。生身の人間であるはずもない。
 で、あるならば。
 やはり彼女は、幽霊でしか有り得ないのだ。