第五章 寒露

     9/久遠陽桐

 三年前。
 久遠陽桐は泥濘を歩いていた。鬱蒼と生い茂る樹々に囲まれた境内には、強い雨の匂いが、湿度を孕んで充満している。傘に弾かれる雨音はますます激しさを増して、足先に雨と泥が染みた。
 雨音。
 跳ね返る泥の音。
 幽かな呼吸音。
 久遠陽桐が足を止めると、すぐ後ろを歩いていた複数の足音も止まった。男のひとりに傘を手渡すと、彼は法衣の袖口に手を入れて腕を組み、再び歩き始める。
 夜。
 無人の神社を、数人の僧侶が歩く。
「この辺っぽいねんけどなあ」久遠陽桐は呟いた。しかし、彼の声は、ほとんど雨の音に掻き消されている。
「陽桐さま」男は自分の傘を畳み、受け取った傘を彼に差し出した。この男だけがスーツを着用している。「発見後、どうされるおつもりですか?」
「自分、濡れてまうやん。傘、俺に差さんでええよ」
「問題ありません」
「若造相手に畏まるのも面倒やろ」彼は軽く笑った。「見つけたらどうするって、たとえば?」
「たとえば、殺しておくとか」男は淡々と述べた。
「坊主に殺生せえっちゅうんか?」
「貴方が手を下す必要はありません。私がいたします」
「せんでええ」彼は一度、短く目を閉じた。「俺は、殺すつもりないから」
 男は口を閉ざす。重く停滞した沈黙の中を静かに掻き分けていた足音は、数分後、再び停止した。
 目の前に、蹲る少女がいた。
 泥濘に、うつ伏せで倒れこんでいる。久遠陽桐と、そのすぐ後ろを歩いて傘を差し出していたスーツの男だけが先に進んだ。
 降り頻る雨音。
 少女が、一度だけ、大きく息を吸い込んだ。
「あかんあかん、泥吸うてもてるやん」久遠陽桐は少女の前に立ち、朗らかに言った。「それにしても、よう逃げきってきたな、お嬢ちゃん」
 少女はか細い息の音を漏らしながら激しく数度咳き込むと、うつ伏せのまま僅かに顔を持ちげた。濡れた前髪が額に張りついている。衰弱しているにもかかわらず、少女の瞳は睨みつけるような視線を放っていた。
「こんばんは」彼だけが、この場でひとり、微笑んでいた。「俺の顔、見えてる?」
「ころしに、きた?」少女の声は、ほとんど掠れていた。
「俺は、君を助けにきた」
 久遠陽桐は、自らの法衣が汚れることも構わず、その場に片膝をついた。少女は泥を握り締めて上体を起こそうとしたが、再び勢いよく咳き込んだ拍子に姿勢を崩す。
「どっかその辺に、無人の家あるやろ」青年は後ろに控えていた僧侶に声をかけた。「近衛から許可は貰ってあるから、今すぐ中に入って準備して。この子、運び込むから」
「だれ?」少女が訊ねた。
「それは、俺のこと?」青年は少女に向き直り、訊ね返す。「それとも、君のこと?」
 だが、少女が口を開くことはなかった。
 脱力するように目を閉じたきり、少女は微動だにしない。彼は少女を抱きかかえて躰を仰向けにし、汚れを厭うことなく両腕で持ち上げた。横抱きに抱えられた弾みに、少女の腕が力なくずり落ちる。薄く開いた唇は青い。
「まずいな、ちょっとマジで冷えきっとる」独り言つ。「家どっちや」
「此方に」スーツの男が素早く傘を差し出して誘導した。
 小走りで無人の家屋に向かい、先に到着していた僧侶たちの手を借りながら、玄関で彼女の躰をバスタオルで軽く拭いた。中に入り、ひとまずリビングのソファに彼女を寝かせてから、温めたタオルで首や手足の付け根を加温する。
「濡れた服、着替えさしたりたいけど⋯⋯」青年は呟いた。「真墨がおってくれたらなあ」
「心拍は?」毛布を手渡しながら、僧侶のひとりが訊ねた。
「大丈夫、心臓は動いとる」少女に毛布をかける。「とりあえずこのまま、まずは躰の末端を温めて、意識が戻ったら温かいもん飲ませるくらいか」
 数十分後、少女が目を開けた。意識が戻ってからもしばらくは動けなかったが、ようやく躰を起こして白湯を飲むことができた。
「意識が戻って良かった。けど、もうしばらく安静に⋯⋯」
「貴方は、誰ですか?」まだ少し掠れた声で、静かに少女は問いかけた。
「関西のほうで坊さんやっとる、久遠ようとうっていいます。頭は坊主ちゃうけど」彼は笑みを深めた。「君、名前は?」
「私に名前はありません」
「じゃあ、もうひとりの名前でもええよ」
 彼女は唇を引き締めると、見上げるように顎を引いて睨みつけた。警戒心の強い少女の行動に相反して、青年はあくまで穏やかな笑みを取り繕う。
「意地悪言いたいわけちゃうねん。ごめんな」
「貴方の目的は?」
「君にかけられたっちゅう呪いのこと、気になるやろ?」
「貴方は、何者ですか?」
「君を生み出して監禁しとった研究組織の⋯⋯、直継の敵、みたいなもんかな」
「そう」少女は伏し目がちに呟いた。
「俺の言うこと、随分あっさり信じるんやなあ」
「なにかを信じたことなどありません」視線を逸らしたまま、少女は目を閉じる。「でも、この呪いだけは、信じてみたいと思いました」
「だから、逃げ出した?」
「ええ」
「君に呪いをかけた子は、なんて?」
「会えるよ、必ず」少女が答えた。「誰かに、と」
「君と出会うことで、その『誰か』を直継の陰謀に巻き込むことになっても、君は会いたいんか」
 その言葉に、少女は緩慢に頭を持ち上げて青年を見た。
 彼の顔に、笑みはない。
 瞼の隙間から少女を刺す瞳は、闇のように濃い黒色をしている。
「平凡で、平穏な日常からそいつを引き摺り出してでも? 君のせいで命の危険に晒すことになっても? もう、後戻りはできひんよ。君にかけられた呪いのせいで、こっちもな、取り返しのつかんことが起きてもうたわ。何代かけて守ってきたと思ってる? 俺らがどんな思いで守ってきたと思ってる? その責任を負ってでも、会いたいって?」
「一目だけ、会わせてください」少女は声を張り上げたが、すぐにまた咳き込んだ。「お願いします。それだけが、『彼女』の、私の、初めて抱いた望みです」
「それが叶えられたら、君はどうする?」
「貴方たちのお好きなようにしていただいてかまいません」
「俺らが君のことを、殺すとしても?」
 かまいません、と答えた彼女の声を、思い出した。
 久遠陽桐は長い廊下を突き進む。足音を立てないように。けれど、内心の焦りを押しとどめることができず、足早に父の部屋に向かった。
 障子の前に立ち、一度、息を吐き出す。
ぎりです。至急お話があります」
「入りなさい」障子の向こうから、低い声が響いた。
 部屋の中には、久遠照雪と名護真蔵がいた。ふたりは向かい合って座っている。照雪は目を閉じ、真蔵は腕を組んでいた。
「一体、どういうことですか」真っ先に、陽桐は父に訊ねる。「ふたりを呼び戻すだけならともかく、彼女まで此方に呼び出すなど、聞いていません」
「お前が関与することではない」久遠照雪は薄く目を開けた。
「陽桐くん」名護真蔵が、低く唸るように彼の名を呼ぶ。「案ずるな。我々とて、彼女に判断を差し迫るつもりは毛頭ない」
「せやけど、」
「陽桐」いまだ立ったままの彼を、久遠照雪は見上げるようにして睨んだ。「父の言うことを聞きなさい」
「ここまできて、俺に引き下がれっちゅうんですか」
「狭霧のためにも、これからのためにも、それが得策だと判断したまでだ」
「せやったら、俺が彼女を此処まで案内します。それくらいはええですよね?」
 父の制止の声を無視して、陽桐は部屋をあとにした。足早に歩きながら、袂から携帯を取り出して時刻を確認する。彼らが到着するまで、あと数時間の猶予があった。
 彼は或る男を呼び出し、少女の来訪に合わせて男を門の傍に立たせた。
 彼女はすぐに、彼の存在に気がついたようだった。
 久遠陽桐はそちらに近づく。名護真崎が振り返った。見開かれた青年の目には、僅かな恐怖心が浮かんでいる。彼の服を握り締めた少女は、手を震わせて、此方を見上げた。
 強い雨の匂いが、立ち込め始めていた。
「どうして、」少女が呟く。
「斎ちゃん」
 少女の肩が小さく震えた。
 そして、青年を引き止めていた手を、少女は力なく下ろす。
 これでいい。
 疑え。
 怯えて、恐怖を抱け。
「その話は、あっちでしよか」