第四章 白露

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「つまるところ、彼女にかけられた高坂つかの呪いが、それほどまでに強力なものだったということでしょう」温度のない無機質な声で、少女が言った。
 少女は膝の上に指を揃えて、姿勢よく椅子に腰かけている。栗色の髪は、鎖骨を覆う長さ。長袖の白いワイシャツにネクタイを締めており、プリーツスカートからは白く滑らかな膝が覗いている。ワインレッドとグレィのチェック柄は制服を想起させたが、彼女はどの教育機関にも所属していない。彼女には必要がないものだ。
「君は、そこまで予測していたのか?」専務が訊ねた。
「でなければ、貴方の仰るとおり、あのような愚策を指示したりはしません」白い肌の上で、薄い唇が左右対称に蠢く。「わたしの力をもってしても、あの呪いに対抗することは難しい。彼女に遺された呪いにはそれほどの力があります。我々が彼女に精神的な揺さぶりをかけ、彼女の意思で飛び降りるように仕向けても尚、呪いが彼女を生かしている」
「それは、つまり、呪いはまだ完遂されていないと?」
「そう考えるのが妥当でしょう」
「たしかに、近衛家も、久遠家の次男について認めたわけではない」
「いえ。その点に関しては、疑う必要はありません」少女が言った。「間違いなく彼です。貴方が差し向けたという殺し屋も、そう証言しています」
「ミスタ・伊勢かね」専務は唸った。「まあいい⋯⋯、彼女の遺伝情報や細胞の流出は避けたいところだが、所詮、子も成せないただの器だ。呪いの完遂条件も不明となった今、処分は追々でかまわないだろう。それに、そう、誘き寄せる餌としての利用価値がないわけではない」
「賢明な判断かと」
「例の儀式について、会長はどのように?」
「できればふたりを揃えたい、と」
「既に『彼女』は消滅しているのではなかったか?」
「ええ⋯⋯」
「まったく、どこまでも厄介な女だ」専務は鼻を鳴らして笑った。「なんと言ったかな、あの器に芽生えた自我の名を⋯⋯」
「近衛斎」少女は即答した。
「物忌み、忌み嫌われた子か」専務が立ち上がる。少女はそれを目で追った。「素晴らしい。そのとおりじゃないか。え?」
 少女はなにも答えなかったが、男はそのまま背を向けると機嫌よく立ち去った。扉が閉まる。数秒後、少女は静かに溜息を吐いた。応接間の奥に、彼女の書斎に繋がる扉があった。少女は立ち上がり、その扉を開ける。
 書斎の本棚の前には、ひとりの男がいた。
 男は詰襟の学生服を着ている。濃い茶髪は乱れなくセットされており、分けられた前髪が形の良い眉を顕わにしている。眼鏡は幅が広く、丸みを帯びた四角形のフレームで、その奥に覗く男の目は濃い青をしていた。
 男は少女の姿を捉えると、手にしていた書物を閉じる。
「これで、君の目論見どおり、というわけだな」男の低い声が書斎に響く。「彼女に餌としての利用価値を与えることで、彼女は我々に対し、姿を晒し続けなければならなくなった。その呪いが尽きるまで、久遠を誘き寄せるための生贄として生かされる。彼女はそれを拒否できない。自ら命を断つこともできない今、彼女に残された手段は、己を盾とする他にない」
「貴方が望んだとおりです」
「ああ⋯⋯、助かるよ」男は口許を緩める。「これで、ようやく動くことができる」
「それにしても、解呪条件が気になるわ」少女は書斎の椅子に腰かけた。「あの男に出会うこと。それが呪いの内容ではなかったの?」
「そうだったと記憶しているが」男は眼鏡を指で軽く押し上げた。「しかし、それは君の術式でどうにでもできるはずだ。気にかけることでもないだろう」
「簡単に言ってくれるわね」少女は足を組む。「わたしの確定予言でも五分五分といったところです。たしかに、あの呪いはわたしの術式とよく似た性質を持っています。けれど、わたしは起こり得る未来の可能性の中からひとつを確定させることしかできない。それに対して、彼女にかけられた呪いは、存在しない選択肢を強制的に発動させるもの。たとえば、机に置いた手がすり抜ける確率に等しい。つまり、有り得ることのない未来を確定させるものです。わたしにとっては、天敵のような存在だわ」
「つまり、彼らは絶対に出会うはずがなかった、ということか?」
「そう⋯⋯」少女は栗色の髪を片手で払った。「その意味では、わたしの確定予言を唯一否定できる術式です」
「しかし、君でさえ確定予言の行使には、莫大な量の魔を必要とするはずだ。現に、その魔を得るために久遠寺の制圧を計画しているのだろう。しかし、俺は高坂先輩が魔術を展開する姿さえ、一度も見たことがない」
「高坂八束の最大の特徴はそこにあります。彼女は詠唱も手順も必要としない。ただ指し示し、彼女が目に捉えてしまえば、それだけで呪いが発動する」
「それでは、魔法と変わりないのでは?」
「もちろん代償もあるわ。貴方がよく知っているように、彼女の呪いはランダムに発動します。彼女自身が、そのタイミングや呪いの内容を制御することはできない。わたしのようにコントロールすることができない、ということね」
「君の確定予言も、高坂先輩の呪術も、この世の法⋯⋯、すなわち真理、構造、原理そのものを組み換える魔法の域と言わざるを得ない。だが、制御の点で君が勝る。なるほど、君が魔術師の頂点に君臨するわけだ。直継」
「君臨した覚えはありません」直継と呼ばれた少女は冷たく言い放つ。「こういったことは、できるかぎり過小に評価すべきです。ところで、十分後、伊勢のこるが此処を訪ねてくる予定だけれど。貴方は帰らなくていいの?」
「それをもっと早く言え」男はあからさまに眉を顰めた。「あの男となにを話すつもりかは知らんが、あれを手駒のひとつとは考えないほうがいい」
「彼のもっとも得意とする術式でさえ、わたしの下位互換です。恐れることもない」
「好きにしろ」男は鞄を手に取り、早々に扉を開けて部屋をあとにする。
 十分後、少女が応接間に出ると、部屋の中央に青年が立っていた。
「さっきまで、誰かいた?」伊勢は、目を細めて訊ねた。
「本題以外にお話することはありません」
「ふぅん。本題ねえ⋯⋯」首を傾けながら呟く。「それじゃあ、さっさとその本題ってのを教えてくれない?」
「人間の破壊に、興味はある?」
「あるよ」伊勢は首を傾けたまま微笑んだ。「でも、肉体はちょっと飽きたな。ひととおりのことはやっちゃった感じがするし、破壊手段のバリエーションなんて数が知れてるだろ。だから、もう少し新鮮味がほしいところだ」
「ちょうど良かった」少女は腕を組む。「あくまで精神的に、完膚なきまでにいたってほしい人がいるの」
「へえ⋯⋯」伊勢は少女を正面から見据えた。「個人的な恨み?」
「まさか」
「じゃあ、例の儀式とやらに必要なこと?」
「それが男の覚醒の鍵になると考えています」
「え、精神の破壊が?」
「そう」少女は片目を細める。「特に、助けたい、と願う感情が」
「助かりたい、じゃなくて?」伊勢は青い目を見開いた。「なにそれ。そいつ、精神を破壊されても、まだ他人を助けたいと思うわけ?」
「そういった性質がある、とわたしは踏んでいる。その事実を確かめるためにも、貴方にお願いしたいの」
「面白そうじゃん」伊勢は眉を寄せて目を細めると、唇を軽く嚙みながら笑みの形に歪めた。「それってさ、壊しちゃってもいいの?」
「破壊寸前が望ましい」少女はこともなげに口にする。「精神への急激な負荷によるなにかしらの変化を見ることができれば、ひとまず達成されたといえます」
「いいよ。乗った」伊勢はフードを被り、ポケットに手を入れる。「標的おもちゃの名前は?」
「久遠狭霧」
 少女が告げた名に、伊勢は鋭く短い口笛を吹いた。