第五章 寒露

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 四階には、昨年廃部になった天文部の部室がある。先日の一件により屋上がしっかりと施錠されてしまったため、近衛の退院後、俺たちは昼休みをそこで過ごすようになった。
 近衛が屋上から飛び降りたことは、徹底した情報のコントロールにより、生徒の中で知る人はいない。先生たちの間でも、近衛は自分の躰がそう長くは持たないことを悲観して飛び降りた、ということになっている。進路指導を担当していた教師からは、急がないので好きなように書きなさい、と新しい進路希望調査票を渡されたらしい。
「困るわよね、そういうの」部室に置かれていた会議用テーブルに頬杖をつきながら、近衛が言った。「なにを書けば先生は納得してくださるのかしら」
「大学の名前とか、適当に書いとけば」そう答えながら欠伸を嚙み殺すが、目に涙が溜まる。
「そうね。記入したからといって、必ずそうしなければならないものでもないのだし」
「ていうか、今までどうしとったん、進路調査」
「模擬試験の際に記入させられた大学名をそのまま書いていたわ」
「それでええやん」
「ありがとう。そうします」
 近衛は退院後、ベストとスカートが一体化したジャンパースカートの夏服から、ブレザータイプの冬服を着るようになった。ジャケットは羽織っておらず、セーターを着用している。衣替えの期間なので、自分も長袖のシャツを着るようになった。
 部室の扉が開く。
「あれ、まだ食ってねえの?」真崎が姿を見せた。この教室の中では、真崎だけが夏服を着ている。「先に食っててよかったのに」
「打ち合わせ、すぐ終わるって言うとったから」
「近衛さんも、待たせてごめんな」
 真崎の言葉に近衛が微笑む。真崎は隣のパイプ椅子に腰かけると、大きく欠伸をした。
「さっきから気になっていたのだけど、貴方たち、今日はとても眠たそうね」近衛は頬杖をついたまま首を傾げる。
「ああ、それね⋯⋯」真崎が弁当の包みを解きながら答えた。「オレ、毎朝トレーニングで走ってるんですけど、狭霧がさあ、自分も走るとか突然言い出して」
「こいつ、朝早すぎて⋯⋯」次は欠伸を嚙み殺すことができず、大口を開けてしまった。「俺、どっちかっていうと夜型やし」
「いやほんと、狭霧の寝起き、マジで最悪なんだぜ。毎朝起こしてやってんのにすぐ寝るし、無理やりベッドから引き摺り出したらすんげえ嫌そうな顔するし、休日なんて昼が過ぎても起きてこねえし」
「俺の寝起きの話はどうでもええねん」
「でも、どうして貴方も走ることにしたの?」
 近衛の質問に咄嗟に答えることができず、数秒間の沈黙が降りる。
 真崎が此方を見て、声を出さずに笑った気がした。
 まさか、これからは自分の身だけでなく彼女の身を守るためにもまずは体力をつけなければならないと思ったから、などと彼女本人を前にして正直に言うわけにもいかない。
「ほら、えっと、もうすぐ体育大会がある、から⋯⋯」
 絞り出した答えに、真崎は隣で躰を小刻みに揺らしている。
 目の前に座る近衛は怪訝そうに眉を寄せた。
「そうなの? 私、貴方はそういったことにあまり関心を示さない方だと思っていたわ」
「ま、まあ⋯⋯、学生生活も最後やし⋯⋯」
 苦しまぎれの言い訳に、真崎がついに声を出して笑い始めた。自分らしくない言葉であることは自分がいちばんよくわかっているが、ここまで笑われてしまうと不貞腐れたくもなる。
「ごめんごめん、狭霧、拗ねるなって」
「お前は笑いすぎや」
「そういや、近衛さんって体育大会に出たことあるんですか?」真崎の声は、まだ少し笑いを引き摺っている。
「いいえ、ありません。行事はどれも欠席していたから、体育大会のこともあまりよく知らないの」
「たしかに、近衛さんは参加できないか」真崎は弁当箱の上に乗せていたおにぎりをひとつ手に取り、近衛に差し出した。「ほい。これ、近衛さんの分」
 彼女は両手でそれを受け取る。ラップで包まれたおにぎりは、真崎が片手だけで握ったのではないかと思われるほど小さい。
 退院の際、俺たちは院長から、彼女に毎日必ずなにかを食べさせるようにと念を押された。改めて彼女から話を聞き出すと、毎日水と栄養剤だけで済ませていたらしい。彼女の話振りからするに、研究施設で出されていた食事が錠剤の形をしていたのだろう。しかし、市販の栄養剤だけで賄えるはずもなく、彼女はいつ倒れても可笑しくない状態だった。加えて彼女の血液は人工的に作られたもので、組成上貧血になりやすいのだという。院長曰く、彼女がよく目眩や息切れ、立ちくらみを起こしていたのはそのためだろう、とのことだ。
 それからというもの、俺たちは彼女と昼食を共にし、まずは唯一食べたことがあるおにぎりから始めることにした。
 彼女は栄養剤をペットボトルの水で飲んでから、おにぎりの包みを開け始めた。
 その様子を確認して、自分も弁当箱を開ける。
「それじゃあ、今年も欠席するんですか?」真崎が近衛に訊ねる。
「貴方たちが活躍なさるなら、見学でもしようかしら」
「真崎なら凄いで」箸を手に取りながら、自分も会話に加わった。「さっき呼び出されとったんも、体育大会の選伐リレーの件やしな。こいつ、運動神経だけは抜群やから」
「お前だって、目立ちたくないからとかいってわざと手ェ抜いてるくせに」
「全力出したところで、お前には確実に負けるやろ」
「そりゃあ、これでもあんな家系に生まれたからには、それなりにな」卵焼きを呑み込んでから、真崎が言葉を続ける。「力勝負とか、運動での勝負は、姉貴相手じゃなけりゃ負ける気はしねえよ」
「あら、お姉さまがいらっしゃるの?」
「そうなんすよ。五つ上にひとり。これがまたおっかねえ女で⋯⋯、単純な力勝負ならまだ勝てるんだけど、得物を使わせると鬼みたいに強いんだわ」
「魔術は使えんらしいけど」
「そう⋯⋯」俺が補足した情報に、近衛は少し目を見開いた。
「ま、姉貴の話なんてどうでもいいんすよ。体育大会、どうせなら出席だけでもしてみたらどうですか? 狭霧が言ってたとおり、これが学生生活最後の体育大会なんだし。近衛さんが見てるなら、狭霧も気合い入れて走るだろ」
「お前、おちょくっとるやろ」
「んなことねえって。あ、そうだ、近衛さん、今日の体育の授業出席してみ。面白いモン見れるから」
「あ、おいバカ、やめろ」
「わかりました」近衛は愉快だと言わんばかりに微笑んだ。「必ず出席するわ」
「最悪⋯⋯」
「そうと決まれば、早く飯食って昼寝しようぜ。それに、今日は病院行く日だろ?」
「ええ」近衛が頷いた。「でも、私の通院に貴方たちを付き合わせるのは気が引けるわ。院長には、通院は私ひとりで構わないとお伝えしたはずなのに」
「オレらが構うんすよ。院長も、オレらが見張っとかないと、あんたが無茶しかねないと思ったんじゃないですか?」
「失礼しちゃう」
 近衛は少し顎を持ち上げて唇を尖らせると、不満げにそう呟いたが、すぐに目を伏せて微笑んだ。
 以前よりも少し砕けた彼女の言葉や表情に気がついてからというもの、妙に落ち着かない。唇を軽く嚙んで視線を逸らすが、すぐに彼女を視界に入れてしまうため、結局その後も落ち着かない気分のまま食事を進めなければならなかった。