幽霊でしか、有り得ないのだ。
逸る気持ちを抑えて埃臭い階段を上り、屋上の扉を開けると、熱を帯びた粘着質な風が頬に触れた。快晴。一瞬、その眩さに目の奥が痛む。目の前には、抜けるように青い空と、太陽に炙られて僅かに揺らめくアスファルトのみ。
何もない。
蝉の鳴き声ばかりが、虚しく空間を満たす。誰もいない。
それを認識した途端、先ほどまで己を支配し、突き動かしていたはずの、確信とでも言うべき抗い難い予感は、既に跡形もなく蒸発していた。衝動を失った躰は、そこに立ち尽くすことしかできずにいる。
やはり、幽霊だったのだ。
そうでもなければ、有り得ない。
自嘲の笑みを浮かべかけた唇を軽く嚙みながら、屋上の扉を閉めて、アスファルトの上を歩く。湿気を含んだ熱が肌に薄く纏わりついていたが、日陰に入ると、思いのほか心地よい涼しさが躰を包んだ。
日陰の中で立ち止まり、壁に背を預けて空を見上げた。
雲はない。その為だろうか。時が止まったか、或いは、時の流れに見放されたような錯覚を覚えた。五秒が、まるで五分のように感じられる。或いは、一時間が一瞬のようにも。
その場に座り込む。
空を見て、目を瞑った。
そして、次に目を開いたとき、
目の前に、
幽霊がいた。
黒い髪、
白い肌、
赤い唇、
前髪が少しかかった目許。伏せがちの長い睫毛の下。
墨色の目に、空が反射する。
目が、離せなかった。
世界から、音が失われる。
ただ、
空と少女だけが、
この世界を支配している。
呼吸さえ、忘れていた。
「幽霊だと思った?」洗練された発声。
それが、目の前の女生徒の声であることに、数秒遅れて気が付いた。
「ご機嫌よう」
女の笑み。
突如、心臓が思い出したように鼓動を再開する。いつの間にか、躰が僅かに汗ばんでいた。暑い。けれど、気候のせいではない。内側から発せられた熱だけで、汗をかいているのだ。
全身が、強く脈打っている。
息苦しさを覚えて、ようやく呼吸を思い出した。吐き出された息は、しかし、それは声にもならないまま、無意味な沈黙を生み出すに止まる。
夢か、幻か。
そうでなければ、有り得ない。
幽霊、
もしくは幻覚?
まさか、生身の人間ではあるまい。
判別は簡単だ。手を伸ばし、触れて、確認すれば良いだけのこと。手を持ち上げる。指を伸ばした。視界の端に捉えた己の手は、みっともなく震えている。
確かめたい。けれど自分は、彼女に触れることを躊躇ってもいた。確かめることで落胆することを恐れているのか、それとも、触れることで自らこの奇跡を汚してしまう可能性を恐れているのか。どちらか、或いはどちらも。
女は一度、此方を見つめていた瞳を閉じる。すぐに開かれたその目を、今度はゆっくりと細めた。
その瞬きを見て、手を下ろす。
この手で触れてしまう前に。
目の前に屈み込む女は、笑みの滲んだ表情のまま、淑やかな仕草で首を傾げた。その拍子に、前髪が彼女の目許を疎らに覆う。長い髪は白く滑らかな頬に沿って、肩から膝へと音もなく流れ落ちた。
その整った毛先まで、
あまりにも、
明瞭。
「有り得ない」
自分の声。
「私は此処にいるわ」
少女の声。
「幽霊でもなければ、有り得ない」
「あら」女はさらに目を細めた。「私、貴方と同じ、人間よ」
「有り得ない、」
逃げるように、立ち上がる。
少女は此方の動作を追いかけるようにして見上げると、ゆっくりとその場に立ち上がった。制服のスカートから、頼りない足が覗いている。
「なんで、」
その続きを言葉にすることは、出来なかった。理解されるはずもないからだ。
なぜ、歪まない?
この問いの意味を、一体、誰が理解できるというのか?
そうだ。
そう、思っていたのに。
「どうして、私が歪まないのか?」
「な、」突如、鼓動が加速する。息が詰まって、吸い込むことも、吐き出すこともままならない。「なん、で」
「知っているわ。貴方の秘密」
「秘密?」ただ、女の言葉を繰り返すだけ。
「貴方の嘘」彼女はまっすぐに見据えて言った。「心当たりは幾つかおあり?」
唐突に、女が手を伸ばしてきた。咄嗟に動きかけた躰を制して真正面から睨みつける。しかし、女の微笑みが崩されることはない。
「怒らないで。嘘吐きさん」女の細い指が、此方の顔に伸び、眼鏡に触れた。僅かな振動。そのまま、眼鏡を抜き取られる。女は眼鏡を見た。「やっぱり。この眼鏡、度が入っていないのね?」
「お前、」
「大丈夫。ちゃんとお返しするわ」
眼鏡を折り畳むと、女は少し背伸びをして、シャツの胸ポケットに眼鏡を滑り込ませた。細い指。色白の腕。華奢な肩。
目が、合った。
その全てが、鮮明。
「貴方は、歪んだ世界しか視えない」
そう囁いて、
女は一歩、後退する。
目の前には、
抜けるように青い空。
太陽に炙られて、僅かに揺らめくアスファルト。
そして、
空を背負う、ひとりの少女。
「この広い空と、私以外。」