第二章 大暑

     9/某所

「此方の指示もなく奇襲をしかけ、逃走されたうえに見失ったくせをして、まさか、報告だけで終わらせるつもりではないだろうね」
 スーツを着た男はさらに深々と頭を下げたが、向かいに腰かける男は、つまらなさそうに手の指の爪を眺めるだけで、会議用デスクに放り投げられた報告書どころか目の前の男を見る素振りさえない。
 最上階の会議室。壁の一面だけはガラス張りの窓になっており、そこから無機質なビル群が一望できる。しかし、開放的な景色とは対照的に、会議室は重々しい空気に支配されていた。
 部屋には三人の男がいる。頭を下げる若い男。灰色の髪を撫でつけた、いかにも重役といった風貌の男、そしてもうひとり。入口近くの壁に背を預けて一部始終を見守っていた青年は、思わず欠伸を溢した。
 くすんだ白髪に近い金髪は、肩に触れるかどうかといった微妙な長さで、いくつものピアスに飾られた耳もほとんどが覆われてしまっている。生理的な涙で僅かに濡れた瞳は青いが、あまり彫りの深い顔立ちではない。
 スーツの男は、躰を折り曲げたまま、時折背後の青年を盗み見ていたが、その視線に気づいた青年が軽く手を振ってみせると、男は勢いよく顔を上げ、依然として爪を眺めたまま動かない男と対峙した。
「彼も職務怠慢ではありませんか? なぜ、まだ標的を生かしているのですか?」男が怒りを抑えた声で言った。「それに、我々は会長のご息女の指示を受けて行動しました。会長の指示であったと、我々が勘違いをしても⋯⋯」
「何度も言わせるな。娘ではない。あれはあくまで、会長による素晴らしい研究成果だ。重要な切札のひとつではあるが、それ以上でもそれ以下でもない」男はようやく爪の観察を終えたかと思えば、手を顎に添え、さらに俯いた。「しかし、あまりにも愚策だな⋯⋯、本当に、彼女が指示を出したのか?」
「誓います」男は身を乗り出して答えた。
 たしかに愚策だ、と青年は内心で同意する。相手の情報も非常に少ない今、そもそも、成功する確率は極めて低かった。その上、失敗すれば間違いなく警戒されるだけのお粗末な作戦だ。あの少女が、そのような策を考え、実行に移したとは考えにくい。
 男が保身のために嘘を吐いているのか。
 或いは、少女にはなにか別の目的があったのか。
 たとえば?
「ミスタ・伊勢」嗄れた声が静かに青年の名を呼んだ。青年の思考はそこで途切れる。「そちらはどうするつもりだ」
「焦らずとも、いずれ」青年は場違いに晴れやかな笑みを浮かべてみせた。
「しかし、たしかに、怠慢と言われても反論できないのではないかな」
「怠慢ではありません」青年は壁に預けていた躰を起こして、若い男の隣まで歩いた。「専務⋯⋯、もっとも安全な暗殺とは、なんだと思いますか?」
「安全な暗殺?」スーツの男が、怪訝そうに小さく呟いた。
「銃で撃ち殺す、刃物で斬りかかる、縄で首を締め上げる、毒殺、事故死偽造⋯⋯、とまあ、方法はいろいろありますが、どれも、誰かの手にかかって息絶えた死体が転がってしまいます。死体の処理は重労働ですからね。単に山に埋めるだけではすぐに見つかる。建築現場に忍び込むのも手ですが、やはり多大な労力を必要とします。目撃者にも、気を配らなければなりません。撒くにせよ溶かすにせよ、場所や道具の準備が必要です」
「つまり、自殺させるとでも?」専務と呼ばれた男は、器用に片方の眉を持ち上げた。
「ご明察です」青年はわざとらしく、恭しい仕草で頭を下げる。「それがもっとも、我々にとって安全ではありませんか?」
「わざわざ逃亡した彼女が、自殺するとは思えない」
「彼女は必ず自ら命を投げ打ちます」
「根拠は?」
「お話しても、理解していただけないでしょう。僕も理解していません」青年は軽く微笑んだ。「それに、いざとなれば、僕が標的の躰を制御できます」
「自殺に見せかけて殺すことができると?」
「ええ」
「わかった」男は緩慢に頷くと、椅子にゆっくりと背を預けた。「しかし、決して安くはない報酬を支払っているんだ。なるべく早急に頼む」
「承知しました」
 スーツの男は、無言のまま青年を睨んでいる。青年は再び笑みを貼りつけたのち、部屋を後にした。
 エレベータに乗り、一階のロビーを通り抜けて外に出る。青年はそこで立ち止まると、振り向いて、今しがた出てきたばかりのオフィスビルを見上げた。乱立する高層建築に、見事に紛れ込んでいる。どう見ても一介の中小企業だ。まさか、極東に潜伏しながら密かに活動を続けている魔術結社の隠れ蓑として作られた会社だとは誰も思わないだろう。もっとも、この会社に勤める社員の何割が、その魔術結社に所属する魔術師なのかは知らないが。
 青年は喧騒とスモッグの中を歩いた。先日の出来事を思い出すだけで、口許は笑みの形に歪んだ。通行人と目が合うことはない。見られていたとしても、此方が目を合わせようとする直前で避けられる。それが正しい、と青年は思った。
 あの日はちょうど、文化祭、という行事だったらしい。
 彼らが、あの冴えない男子高校生を拉致するために、奇襲を企てていると知ったのは単なる偶然だった。わざわざ足を運んだのは、彼女に運命を掻き乱され、そして彼女の運命を掻き乱すのであろう男に少しばかり興味があっただけ。見物のつもりで忍び込んだ学校で彼女を見つけたのも、今日、彼らが襲撃される予定だと告げ口をしたのも、すべて、意図したことではない。
 それにしても、慌てた彼女の顔を見ることができたのは、喜ばしい偶然だった。
 彼女は余裕のない表情で、教室から持ち出してきた謎の袋を押し付けると、今すぐ届けるようにと、あろうことか青年に命令した。彼女は、己の立場を理解しているのだろうか?
 命を狩る者と、狩られる者。
 アサシンとターゲット。
 否、彼女は正しく理解しているだろう。理解していて尚、恐れもなく、此方を正面から見据える彼女の瞳は、なによりも強く、美しく、そして脆い。
 今回の奇襲は、たしかに彼らの警戒をより強固にしてしまっただけだったかもしれない。しかし、彼女に揺さぶりをかける、という意味では非常に効果的だった。あとは、当然の物理法則に従って減衰し、混ざり、均一に散乱するのみ。
 あの少女の狙いは、彼女だったのか?
 早急に彼女を殺害するために、此方の有利になる状況を作り出したのか?
 そこまで考えて、青年は鋭く息を吐き出して笑った。どうせ彼女は、処分を待つ身でしかないのだから、少女にとってなにひとつメリットにはなり得ない。少女は青年からの報告を待てば良く、そして自分は、彼女を唆し、墜落させ、その躰を回収するだけでいい。
 ひとつだけ懸念事項があるとすれば、あの少年だ。膝をついて蹲っていたので、顔はあまり見ていない。しかし、どこにでもいそうな冴えない一生徒、という印象はあまりにも的外れだった。思わず身震いする。恐怖ではない。歓喜だ。魔術師であれば、誰でも気づくだろう。あの少年の異様さに。あの少年を取り巻く組織の不気味さに。
 そして彼は、彼女を、確実に捻じ曲げ始めている。
 影響を与えずにはいられないのだ。
 それが、あまり望ましくない方向に転ばないよう、青年は願うことしかできない。青年は、またも歪な笑みを浮かべている。彼にとって、自らの手でコントロールすることができない事象はなによりも貴重だった。かといって、天運に身を委ねて祈るなど、そんな愚行を真似するつもりは毛頭ない。自らの力が及ばない事象を尚、自らの手で歪めることこそが快楽なのだ。
 少年が何者であるのか、そして少年のバックにいる組織と彼ら魔術師たちが、何を望み、何を秘め、何を対立しているのか、青年には興味がない。
 青年はただ、己の両の手で、望んだ結果に誘い、導き、その結末を見届けることだけを切望している。