第三章 処暑

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 信条こそあれど、では座右の銘は何か、と問われると少し困る。
 父の座右の銘なら知っている。幼い頃から、般若心経と共に洗脳のごとく叩き込まれた四字熟語。名護真崎、という漢字よりも先に覚えた言葉だった。曰く、身命を惜しむな、体も命もためらわずに捧げよ、と。
 しかし、当然、己の命を投げ打つ覚悟などオレには微塵もないし、全てを犠牲にしてまで達成したいなにかがあるはずもない。
 きっと父にも、そこまでの覚悟があるわけではないのだ。ただ、言葉にする覚悟があるだけで、言葉という具体的な形で自己暗示のように己に再確認させる覚悟が、父にはあり、オレにはない。
「真崎」父の呼びかけに、目を開ける。「覚悟など必要ない。覚悟を抱くから揺らぐのだ。であれば、なにも持たなければいい。道がなければ、迷うこともない。それと同じだ」
 オレは今、寺の中心から外れた、山の頂上付近に佇む小さな建物の中で父と向き合って座っている。非常に狭く、簡素な小屋だ。護摩壇が鎮座している他にはなにもない。此処に来たのは三年ぶりだった。
「いい加減、ちゃんと説明しろよ」
「わかっている」少々苛ついた声音で父が言った。
「暑すぎて苛ついてんじゃねえの」
「たしかに暑いが⋯⋯」しかし、父は汗ひとつかいていなかった。「夏には、あまり良い記憶がない、というだけだ」
「ふぅん」
「ところで」そう話を切り出しながら、片目を細めて此方を睨む。「三年前の夏、俺がお前に、此処で教えたことは覚えているだろうな」
「ほとんど覚えてねえに決まってんだろ」
「なに?」父はますます眉間の皺を深めた。「まったく⋯⋯、よくもまあ、摩利支天など咄嗟に思いつけたものだ」
「それは⋯⋯、狭霧見てたらなんとなく思い出すから、たまたま印象に残ってたというか。だって、ほら」自分の左の二の腕を指差しながら答えた。ちょうど、狭霧が左腕にしているサポータの位置だ。「あいつの腕に彫ってあんだろ。摩利支天の梵字」
「厳密には、刺青ではないがな」父は腕を組んだ。
「それに、陽炎っつったらさ⋯⋯」
 狭霧が視ている世界を連想させるから。
 そう答えかけて、咄嗟に口を噤む。狭霧の視界のことは誰も知らないのだ。狭霧が誰にも伝えていない以上、オレが続きを口にするわけにはいかない。とはいえ、そもそも、生きているものが突然、でたらめな動きの陽炎のようにしか視えなくなった、などと正直に話したところで、狭霧の言うとおり、頭がおかしくなったと思われるだけだ。それも、生物だけ、だなんて、都合が良いのか悪いのか⋯⋯、
 生物だけ?
 待てよ。
 狭霧の目には、生物が歪み揺れて映る。それはつまり、生物でないものは歪まない、という意味だ。しかし例外として、生物が触れたところには、少しの間、歪みが移る。そこまではわかる。
 だが、それでは、あのときの説明がつかないのではないか。
 文化祭で襲われたとき、オレにはその衝撃波を見ることができなかった。摩利支天経を片っ端から唱え続けて、ようやく見ることができたのだ。
 でも、狭霧は?
 そうだ。
 なぜ、狭霧は初めから視えていた?
「どうした、真崎」
「え?」
「たしかに、摩利支天は陽炎と訳されるが⋯⋯」父は訝しげに此方を見ている。
「なんていうか⋯⋯、そう、あいつ、陽炎が地雷らしいから」
「地雷?」
「偶然、そんな話をしたから思い出せただけだ。そうでもなきゃ、んなもん覚えてられるわけねえっての」無理やり話題を切り換えた。「衰弱するまで山の中歩かされたと思ったら、此処で延々と護摩焚き続けて、餓死寸前まで追い込まれたんだぜ。記憶なんて、最終日に親父が来たところでぶっ飛んでら」
「そこまで記憶しているだけ上等だ」父は、非常に珍しい言葉を口にした。「俺は十七のときに同じ修行をした。途中から、どうやって足を前に出すのかわからなくなった。どのようにして声を出すのかもわからなくなった。しかし自分の躰は勝手に歩いているし、なにかを常に呟き続けている。あれは恐ろしい経験だった。自分の躰が、まるで自分の躰ではないようだ、と朦朧とした意識の中で感じたことだけはよく覚えている。だが、全て自分が見ていた幻覚だったのではないかと思えるほど、曖昧だ」
「わかるわかる。オレも、途中から幻覚見てたし」少し足を崩しながら相槌を打つ。「護摩焚いてるとき、炎の中から、ずっと誰かに見られててさ⋯⋯、護摩祈祷って、そもそもが炎の中に不動明王を降臨させる儀式じゃん? だからまあ、そんなもんか、ってそのときは流してたけど、今考えてみれば、そこそこやべえよな」
「危うい精神状態に陥っていたことは否定しない」父は目を瞑った。「俺もお前も、まだまだ修行が足りん、ということだ」
「修行してどうにかなるもんじゃねえと思うけど」
「しかし、あの経験が我々を生かし、守るべき者のために我々を突き動かすのだ。それはお前も同じだろう」父は目を閉じたまま、僅かに顔を背けて俯いた。「お前の言いたいことはわかる。役目などあってないようなものだと、俺もそう思っていた。だがそれも、十七の夏までだ。あの日、父が目の前で息絶えるまで、俺は自らが継ぐこの役目がどれほどの重みを持つものか、知らなかった」
 父は静かに目を開けた。視線の先を追うが、そこには薄汚れた木目の壁があるだけで、なにもない。
 祖父の話を聞くのは、これが初めてだった。
「お前の祖父は、帰宅した俺の目の前で息絶えた。夏のことだ。今日よりも、もっと暑い⋯⋯、噎せ返るような熱気と血の匂いばかりが満ちていた。今でも覚えている。血塗れの手で、父に腕を掴まれた。最期の言葉は、あとは頼む、の六文字だった。父の血に濡れた制服はその日に捨てた。そのとき、俺はようやく、初めて、気がついたのだ。俺は、これを継がなければならないのだ、と」
「それって、もしかして、此処が襲撃されたのか?」
「そうだ。相手を道連れにして、父上は死んだ。前当主も亡くなった。その血を、己の命を代償にして尚、護り抜く決意をしたのだ。わかるか、真崎。否、お前も直に知る。知らずに生きていくことはもうできない。であれば、俺は、お前をより強く育て上げ、生き残る可能性を高めることしかできなかった。真崎。それでも俺は、こう言わねばならんのだ。お前は守るべき者のために、命を賭して立ち向かえ。お前にはそれができるはずだ。あのとき、お前は山の中で、一度死に、苦行の中で罪を滅ぼし新たに生まれ変わった。あの修行から生きて戻った我々であれば、もはや恐れるものもないだろう」