第三話 近衛斎の憂鬱

 
 
 
 聞き慣れた声を耳が拾い、近衛斎は目の前の鏡からスマートフォンに視線を落とした。
 小さな画面の中には、よく見知った男が映し出されている。男の落ち着いた低い声が、ときどき関西方言のアクセントを混ぜながら司会者の問いかけに答えていた。司会者の軽快な話の運び。周囲の笑い声。司会者が次の話題を提供したことを確認して、彼女は再び鏡に視線を戻した。
 その日、近衛斎はスマートフォンの動画配信サイトでとある番組の再放送を観ながら外出の準備をしていた。彼女にしては珍しく見逃してしまった、昨晩の放送。視聴者やゲストが持ち込んだお宝を鑑定士が実際に鑑定をする、という番組で、昨晩のゲストが彼女のよく知る青年、久遠狭霧だった。
 再びカメラが青年の姿を映す。黒い髪と黒い瞳。前髪は目許に少しかかる程度の長さ。百八十センチ近い身長と引き締まった体格。変声期を経て、すっかり大人びてしまった低い声。
 出会った頃の幼さは、もうどこにも残されていない。
 けれど、青年の瞳だけは、いつのときも変わらなかった。カメラに向けられることは数えるほどしかないが、その切長の瞳は常に射るような強い視線を発している。いつのときも変わらない、男のまっすぐな内面をなによりも表す瞳。近衛斎は、その目がなによりも好ましかった。
 青年は今、司会者が投げかけた質問に応じている。
 この番組で、久遠狭霧はちょっとした騒ぎを巻き起こしていた。お宝と呼ばれるもの、特に骨董品や美術品に対して、久遠狭霧は鋭い鑑識眼を発揮する。それは、アイドルらしからぬ彼の在り方が、さらにアイドルから遠かった瞬間でもあった。
 久遠狭霧は、またも価値を正しく判断したらしい。司会者や出演者たち、鑑定士までもが驚きの声を上げている。青年の実家が古くから続く由緒ある寺院であり、質の良いものに触れて育ってきたことを彼らは知らない。とはいえ、育ちの良さは随所に滲み出るもので、ファンの間では食事の作法が美しいと密やかに話題なのだそうだ。もちろんそれは、久遠狭霧の相棒であり、生まれたときから彼と共にいる名護真崎も例外ではない。しかし、名護真崎はアイドルとしての在り方を徹底的に貫いており、そのためならば、どれほどよく知っていることでも知らないふりをして、わざと隙を演出することさえできる男だった。
 すっかり、画面の向こうの存在になってしまった。
 近衛斎は静かに息を吐き出してから、もう一度鏡と向き合った。鏡台に置いたスマートフォンの画面に気を取られてなかなか進まなかった目許のメイクをようやく終えて、鏡で確認する。仕上げに、控えめにチークを入れてリップを塗った。
 唇を閉じ、薄く開く。
 こうして時間をかけて化粧を施すのも、随分久しぶりのことだ。
 あらかじめ電源を入れていたアイロンを手に取り、慎重に前髪を整える。それから、長い髪の束を緩く巻いていくのだが、鏡に映る己の姿に、近衛斎はアイロンを持つ手の動きを一瞬止めた。
 浮かれている、と思う。
 これから会う相手は、美術品に対する審美眼こそ確かだったが、人間の容姿に対してそれはあまり発揮されない。否、発揮はされている。ただそれが、自分に発揮されることはない、というだけだ。
 久遠狭霧は、自身の感情を言葉にすることが苦手で、思ってもいないことを口にすることができない性質の人間だった。他方、名護真崎は、相手の求める言葉を口にして、それがまるで本心からの言葉であるように装うことができる男だった。対極的なふたりは、けれど、自身の感情を滅多に口にしないという点ではよく似通っている。しかし、久遠狭霧の場合はあくまで口にしないだけで、名護真崎のように態度や表情を取り繕った結果ではない。口下手なだけで、感情表現自体はとても素直な男だ。
 長い黒髪をアイロンで挟み、手首を少し捻る。
 そう。だからこそ、あの言葉を聞いたとき、近衛斎は自分でも驚くほどに、驚いた。
 数日前。或る番組で、ゲストとして久遠狭霧と名護真崎のふたりが登場した。近衛斎は、彼らが出演している番組はできるかぎり観ていたし、ふたりのレギュラー番組は録画もしている。
 他にもゲストが数名おり、その中には、次世代の人気女優と名高い女性がいた。彼女はいろいろなところで、ふたりの、中でも久遠狭霧のファンだと公言している。人気の若手女優と男性アイドル。司会者や出演者たちが評するとおり、それは申し分ない組み合わせだった。
 番組では女優に関する話題が盛り上がり、司会者は、久遠狭霧にさりげなく問いかけた。とてもおきれいだと思いませんか。その問いにたった一言、「そうですね」と返事をしただけだが、彼女はその一言に驚いた。
 もちろん、そう答えるほかない場面であったことは理解している。実際、その女優は女から見ても可愛らしい女性だった。計算高い仕草も見事で、肩口で切り揃えられた軽やかな髪が靡く様子はとても女性らしい。けれど、それでも、司会者が数多くいる出演者の中から久遠狭霧を選んだことも、その問いかけも、答えも、女優の見事な笑顔も、どれもが予定調和で、在るべき形を見せつけられたようで、久しぶりの外出だというのに、ほんの僅かな曇りを拭いきれないこともまた事実だった。
 髪のセットを終えて、アイロンの電源を切る。
 緩やかに波打つ長い黒髪。華美にならないよう控えめに施したナチュラルメイク。磨いて整えた指先、無色透明のクリアネイル。近衛斎は、鏡に映る己の姿に、小さく息を吐いて視線を逸らした。
 透明のシンプルなケースから、小さなイヤリングを取り出して身に付ける。
 時刻を確認した。待ち合わせ時間は目前に迫っている。もう、家の前で待っているはずだ。彼女は立ち上がり、鞄を手にして玄関に向かう。あらかじめ選んでおいた黒のパンプスを履いて、玄関の姿見で全身を一瞥し、確認した。ハイネックの黒いタイトニットに、ミモレ丈のグレンチェックタイトスカート。今日の行き先を考慮して、黒いタイツと歩きやすいパンプスを合わせ、ボリューム袖が特徴的な明るい色のカーディガンを羽織っている。彼女は髪を軽く手直ししてから、玄関の扉を開けた。
 予想どおり、約束の相手がそこにいた。
 玄関の鍵を閉め、彼女はそちらに向かって歩く。家の前で待っていた久遠狭霧は、彼女の足音に気がつくと、一度腕時計を確認してから彼女に向かって軽く片手を上げた。青年の挨拶に、彼女は微笑みで応える。
「待たせてしまった?」
「大丈夫」青年が答えた。「俺も、さっき来たところやから」
 先ほどまで画面の中にいた人物が、目の前にいる。一瞬、不思議な感覚がした。以前はたしかに、テレビに出ている彼らに対して違和感を覚えていたはずだった。
 それだけ、彼らが芸能界で活動してきた、ということだ。
 そう結論づけた彼女は、違和感を振り払うようにして青年を正面から見据え直した。青年は、変装のためか、今は伊達眼鏡をかけている。
 自然に下ろされた髪が少し乱れていることに気づき、彼女は頬を弛めた。
「ねえ、少し屈んでくださる?」
「屈む?」
 彼女が腕を持ち上げると、青年は不思議そうな面持ちのまま腰を屈めた。彼女の指先が髪に触れる。乱れた髪を指で軽く撫でると、少し硬い髪の感触がした。
 青年の顔が、すぐ近くにあった。
 眼鏡越しでも、やはり青年の瞳は変わらない。青年の瞳が、正面から彼女を見つめている。この目が好きだった。きれいだとか、可愛いだとか、そんな言葉よりも雄弁に、青年の瞳は彼女にまっすぐな熱量を与えてくれる。この数秒間のためだけに、彼女は長い時間をかけて自身を磨き整えた。彼の意識の中に、美しい思い出のまま残されていたい。たとえこの数秒間さえも、いつかはやがて失われてしまうのだとしても。
 彼女が目を細めると、青年は釣られて目を細めた。
「髪が乱れていたわ」
「え、まじか、恥ず⋯⋯」青年が躰を起こす。それだけで、先ほどの強い視線は一瞬にして霧散した。「ありがとう」
「なんだか、貴方の雰囲気がいつもと違っていて少し緊張するわ。とても素敵ね」
 彼女の正直な言葉に、青年は視線を逸らしながら、口許に力を入れて僅かに歪めた。
 黒縁の眼鏡と、下ろされた髪。濃紺のニットセーターからは、白いシャツの襟が上品に覗いている。
「やっぱり、眼鏡が可笑しい?」青年は眼鏡の縁を触りながら言った。
「そんなことないわ。よく似合っていて素敵よ」
 行きましょう、と彼女が声をかけると、青年は頷いて歩き始めた。彼女の歩幅に合わせた速度で歩く青年に、彼女は気づかれないように微笑んだ。
 電車に乗り、数駅先で下りる。駅から徒歩数分で、小ぢんまりとした美術館に到着する。正面はガラス張りになっており、無機質な印象を抱かせる建物だった。
 建物の中に入り、青年は受付にチケットを提示する。
 チケットを貰ったので美術館に行かないか、と青年に誘われたのは数週間前のことだ。今やテレビで観ない日はないほどの人気アイドルであり、ハードスケジュールであるにもかかわらず、青年はこうしてたまに美術館や展覧会に彼女を誘うことがあった。今日は現代アートの展覧会だった。
 奥に進むと迷路のようになっており、壁には比較的小さなサイズの作品が大きく間隔を開けて整然と展示されていた。自由な作品が、落ち着いたモノトーンの内装により引き立てられている。人の出入りは疎らで、静かな空間の中をゆっくりと進むことができた。
 青年は彼女の傍を歩きながら同じ作品を眺めたり、作品脇の小さなパネルの文章を読んでいることがほとんどだったが、ときどきふらりと目についた展示に足を向けた。作品を鑑賞する青年の佇まいを、少し離れた場所から眺めるのが、彼女の楽しみのひとつだった。
 通路を抜けると、途端に視界が開けた。高い天井と白い壁で作られた広い空間には、先ほどよりも大きな作品が展示されている。
 彼女が或る作品の前で話を持ちかけると、青年も同じ作品を見ながら、すぐに潜めた声で答えた。或いは青年が、見せたい作品があると少し遠くから彼女を呼ぶ。
 小ぢんまりとしていたが、実際はかなり奥行きのある建物だったらしく、存分に鑑賞を終えて美術館を出た頃には正午を回っていた。近くの喫茶店に入り、昼食を摂る。青年はナポリタンとドリアを、彼女はサンドウィッチを注文した。
 淡々と料理を食べる様子を見つめていると、その視線に気がついたのか、青年は一度手を止めて顔を持ち上げた。
「どうしたん。一口食うか?」
「いえ、貴方はいつも、美味しそうにたくさん食べるわ、と思って。ほら、貴方の番組でも、いつもなにかを食べているでしょう?」
 青年の冠番組は、ただ町を練り歩くという若手アイドルらしからぬ番組だった。訪れた先で黙々と食べ物を口にする青年の映像とお土産を大量に買い込む姿、猫の映像がときどきカットインされるだけの質素な構成だ。
「なんか、最近やたら食い物の情報ばっかり渡されるねん」
「貴方だって、そちらのほうが都合がよろしいのではなくて?」
「まあ、好きにやらせてくれるんはありがたいし、下手に喋らんでええのは楽やな。毎回、うまいもん食うてるだけで収録が終わっとるわ」
 彼女がサンドウィッチをふたつ食べ終えたときには、青年は既に二品とも見事に平らげていた。さらにサンドウィッチを手に取ると、彼は二、三口で簡単に食べてしまう。
「収録で美術館を訪ねたりしないの?」
「一回、そういう話はあったけど」青年は一度、軽く水に口をつけた。「俺が断った」
「どうして?」
「ん⋯⋯、いや、なんとなく」少々歯切れの悪い返答だった。
 わかりやすい青年の態度に、彼女はくすりと微笑む。多忙を極める彼がわざわざチケットを入手し、仕事としてではなく貴重な休日を潰して彼女を誘っている、という事実だけで彼女には充分だった。
 紅茶を一口飲む。
 こうして美術館や展示会を共に巡り、共に鑑賞した経験が彼の審美眼を少なからず育てたのかもしれない。彼女は今、自分が微笑んでいることを自覚した。彼と共にいると、どうにも締まりのない表情を浮かべてしまう。
「スタッフの方々には悪いけれど、そのおかげで、私はとても楽しいわ」
 彼女の一言に、青年は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに安堵の表情で息を吐いた。
「それなら、良かった」
「サンドウィッチ、もうひとつどうぞ」
「相変わらず小っこい胃やな」
 青年は少しの間、サンドウィッチ片手にスマートフォンを操作していたが、やがてサンドウィッチを食べ終えると彼女に画面を見せた。
「こんなんやってるって」画面には、幻想的なデジタルアートの展示写真が映し出されていた。「わりと近いで。行ってみる?」
「素敵ね。行ってみたいわ」
 青年は頷くと、グラスの水を飲み干した。彼女が紅茶を飲み終えてから、席を立ち、会計を済ませる。少し歩き、モノレールに乗って数駅のところに会場は構えていた。その大きな会場の一部で展示は行われており、入場の際は列に並んだが、予想よりもスムーズに中に入ることができた。
 家族連れや若いカップル、老夫婦まで、幅広い層の客で会場は賑わっていた。光や映像、音によるアートで、空間そのものが作品になっているのだと入口で説明を受けた。入場口を抜けて通路を進むと、その言葉のとおり、暗闇の会場の中で美しい光の群れが漂っている。進むたびに、壁面の鏡が光を映し出し、幻想的な景色が広がりを見せる。そちらに気を取られて客の流れに巻き込まれかけたところで、青年が彼女の手を取った。
「嬢さん」
 目が合った。
 闇の中を彩る光が青年を照らす。青年の目に、さまざまな光が取り込まれていた。
 途端に、手の温もりを感じる。
 自分の手を簡単に覆ってしまう、大きくて、少し骨ばった手の感触。
「どこ行ってもたかと思った」
「ごめんなさい、あまりに綺麗だったから、つい立ち止まってしまって⋯⋯」
「ちょっと端に寄っとこ」青年に連れられ、客の流れから少し外れて展示の傍に寄った。天井から吊るされた無数のコードに、小さな電球が連なっている。それが光の群れの正体だった。「人、結構おるんやな。大丈夫か?」
「大丈夫」
 微笑んでみせると、青年はわかりやすく安堵の表情を浮かべた。
 青年は手の力を弛め、すぐに離す。指先の乾いた感触も、手のひらの温かさも、その重さも瞬時に失われてしまった。その反動に、彼女の手は僅かに上に持ち上がる。
 青年の後ろをついて歩きながら、光の中を進んでいく。青年は何度も後ろを振り向き、彼女を確認しているようだった。
 置いていくのは、貴方のほうなのに。
 突如浮かんだ思考を捨て置こうと、彼女は俯いた。しかし、鏡張りの昏い床に映る自身は、反射した輝かしいばかりの光の中、曖昧な輪郭で闇に溶け込んでいる。彼女は静かに顔を持ち上げて、前を進む青年を見た。
 網膜を麻痺させるほどの眩い光の中で尚、たしかな輪郭を持って、自分の前を歩いている。
 今、隣を通り過ぎていった女性たちは、彼に気づく素振りもない。目が合ったとしても、誰も彼に目を留めることはなかった。
 自分だけだ。
 自分だけが今、彼を見つめている。
 通路を抜けると、広場のような空間に出た。暗闇の空間に、色とりどりの鮮やかな映像が投影されている。四方の壁だけではなく、大きく波打った形をした床や、高い天井にも映像が映し出されていた。大きな魚や蝶、咲き誇る花が自由に壁面を揺蕩っている。観客たちの様子を見ていると、手や足で触れることで映像の動きを堰き止めたり、方向を変えることができるようだった。おそらくセンサがあるのだろう。彼女は周囲を見渡す。
「嬢さん」青年に呼ばれ、彼女は顔をそちらに向けた。「足場、悪いから」
 そう言って差し出された手を彼女は二秒見つめて、自分の片手を持ち上げた。青年の手に添えるようにして乗せると、軽く彼女を引っ張り上げるようにして力強く握り返される。
 子どもたちの楽しげな声に囲まれながら、小さな山状に盛り上がった床を何度も登り、降りていく。
 やがて、楽しげな喧騒が遠ざかり、床はフラットになる。
 手は再び離れた。
 無数に吊るされたランプの中。
 埋もれるほどに咲き誇る電子の花の中。
 闇を満たす、色とりどりの風船の中。
 流動する曲線と幻想的な音の中。
 彼女は青年と、次々と現れる空間を並んで歩いた。
「すごいな、此処」青年の、少し弾んだ声。
「あちらにも道があるわ」
「行ってみよか」青年はそちらに足を向けながら、視線を彼女に向けた。「しんどない? 足とか」
「心配ないわ。今日はちゃんと、歩きやすい靴を選んできたのよ」
「休みたかったら、いつでも言うてよ」
「ありがとう」
 あと何度、こうして彼の隣を歩けるだろう。
 取るに足らないほどの曇りが、しかし、たしかな存在感を伴ってときどき顔を覗かせる。
 自然に下ろされた青年の手が、目に入った。
 手を伸ばしかけて、けれど、彼の手に触れることなく下ろす。
 こんなにも傍にいるのに。
 こんなにも、遠くなってしまった。
「久遠くん」
「ん?」
 大丈夫。
 そう言い聞かせて、彼女は顔を持ち上げた。
 大丈夫。
 名を呼べば、まだ彼は答えてくれる。
「すごく、楽しいわ」
 頬を弛めて微笑む。
 心からの言葉だった。
 青年は何度か目を瞬かせたのち、釣られるようにしてほんの少し微笑んだ。
 いくつか展示を渡り歩き、出口に差しかかる。ライトの白い灯りが、酷く眩しく感じられた。
 建物の外には、まだ青空が広がっている。
 目を細めて光の下を歩いた。明るい光に慣れるほどに、暗闇の中を歩いた数時間の現実味が薄れていく。
「あっちの建物、なんか売っとる」
 青年の声で、彼女の意識が一瞬にしてクリアになった。
「なにが売られているの?」
「なんやろ。お土産っぽいけど」
「好きね、お土産」くすくすと声を溢して笑えば、青年は予想どおり、口を少し歪める。「見に行きましょう」
 その建物に入ると、お菓子や食べ物、キャラクタのストラップやグッズが売られていた。青年曰く、地元のサービスエリアのようなラインナップらしい。
 あまり広くはないスペースを歩いていると、デフォルメされた動物のぬいぐるみが目についた。
 手に取ってみると、彼女でも片手で掴めるほどのサイズ感で、可愛らしいデフォルメにしては随分目つきの悪いクマだった。
 彼女の様子に立ち止まった青年が、後ろから覗き込む。
「なにそれ」
「貴方に似ていると思わない?」
 振り返りながら彼女は答え、くすくすと笑った。
「そこまで目つき悪ないわ」
「あら、そっくりよ」
「それやったら⋯⋯」青年は腕を伸ばすと、長い指でぬいぐるみを選り分けながら、同じシリーズのぬいぐるみを手に取った。「嬢さんはこれやな」
 青年は、グレイのネコのぬいぐるみを彼女に見せる。
「私、こんなに丸い顔じゃないもの」
 彼女が口を尖らせてみせると、青年は悪戯そうに笑った。
「ほら、そっくりやん」
 目を細め、歯を見せて、青年は可笑しそうに笑う。
 カメラに向けられることのない、
 けれど、いつの日も変わらない、青年の笑顔。
 それが今、自分に向けられている。
 それだけで、彼女の片隅を曇らせていたなにかが、あまりにも容易く薄れていく。
「狡い人ね」
「ん?」
「私、買おうかしら」
「これ?」青年はネコのぬいぐるみを持ち上げた。
「違うわ。こっち」彼女はクマのぬいぐるみを持ち上げる。
「なんでそんな目つき悪いほう買うねん」
「貴方にプレゼントしようと思って」
「ふぅん⋯⋯、じゃあ、俺がこのネコ買うたるわ」
「私にプレゼントしてくださるの?」
「そのクマも買うたる」
「駄目よ、これは私が買うの」
「なんやねん、それ」青年はまた笑い声を溢した。「しゃあないな」
「ねえ」青年の笑顔を見つめながら、彼女は無意識に口を開いていた。「もうひとつ、お願いしてもいい?」
「珍しいやん。なに?」
「今日の帰り道は、少し遠回りがしたいわ」
 ぬいぐるみを片手に、青年は驚いたと言わんばかりに目を見開いた。
 けれど、その表情はすぐに、悪戯好きの少年のような笑みに移り変わる。
 いつか失われる時間。
 いつか遠ざかる存在。
 それでも。
「とびっきり遠回りしたるわ」
 彼の答えに、彼女は美しく微笑んで、青年の隣に並び立つ。
 今はまだ、貴方に声が届くから。
 今だけは、貴方が此処にいてくれるから。
 貴方の笑顔に、もう少しだけ、浮かれさせて。

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