第二話 名護くんと斎ちゃん

 
 
 
 時間をかけて上体を起こし、腹筋に負荷をかける。無心で、無言のカウント。正確な姿勢。規則的な動作。意識的に、慎重に吐き出す自分の静かな息以外にはなにも聞こえない。
 十五回同じ動作を繰り返してから、ゆっくりと力を抜いてその場に寝転がった。
 熱を発する上半身とは対照的に、マットは冷たく心地良い。
 呼吸を整える。
 物音ひとつしない。
 此処は自宅の余っていた一室のうち、トレーニングルームとして使用している部屋だ。
 今日は、狭霧がまだ仕事から帰宅していない。
 いつもは狭霧と共に帰宅するか、ドラマの撮影やレコーディングなどで自分だけが遅くなるかのどちらかが大半だ。自分が帰宅しても家にひとりきり、という状況は意外と珍しい。
 夜、九時半。今日の仕事は或る番組へのゲスト出演と聞いていたが、撮影が随分と押しているらしい。
 そんなことを思いながら次のセットに移るが、いつもならば没頭できるはずのトレーニングに、どういうわけか身が入らない。原因は既に判明している。だが、その原因にどう対応すべきかいまだに決めあぐねている、という自身の現状に対して、僅かに、ほんの僅かにではあるが、やり場のない苛立ちが募りつつあった。珍しいことだ。いつもならば、ここまで気疲れを覚える前に対処できている。そうでないのは、相手が他ならぬ久遠狭霧であるからに違いない。
 最近、狭霧の様子がどうにも可笑しい。
 なにかを隠している。間違いなく。
 そして、そのなにかに悩んでいるのに、此方には一向に打ち明ける気配がない。
 とはいえ、べつにオレたちは互いに全てを包み隠さず打ち明ける約束などしていないし、秘密のひとつやふたつ、十や二十は当然あるだろう。だが、今回は違う。もちろん本人に確認をしたわけではないが、どう考えても、狭霧はオレにだけ、そのなにかを隠している。
 仰向けに寝転んだまま部屋の天井を見上げ、一度、息を静かに吐き切った。
 伸ばした足を垂直に持ち上げる。
 そこからゆっくりと、地面に触れる直前まで足を下ろす。その繰り返し。
 それにしても、狭霧は一体なにを隠しているのだろう。
 あの男は、嘘をつくのも自身を取り繕うのも下手だ。もちろん、自分の感情を偽るのも苦手。
 およそこの業界でやっていくには明らかに不向きな性質だが、しかし、あまりにも正直な生き様のためか意外とうまくやっている。
 よくもまあアイドルなんて生き方をしていられるな、と他人事のように思う。そう、狭霧の兄からアイドルにならないか、という話を初めて聞かされたとき、真っ先に心配したのはその点だった。
 自分は、うまくやれるだけの自信があった。実際に、多くのファンに夢を見せ、真摯に接し、非の打ちどころがないアイドルで在り続けることは、もはや自分にとって天職だったと言っても過言ではない。
 だが、狭霧は違う。
 ファンの期待に応え続け、ファンの期待を上回り続け、完全な偶像で在り続けること。それに狭霧が耐えられるかどうか。そこが、自分のいちばんの懸念点だった。
 けれど、久遠狭霧という男は真面目な男だったので、やると決めたからにはちゃんとやる、と宣言したとおり、狭霧は狭霧なりの在り方を捜し出し、己のパフォーマンスという形でファンと向き合い、応え続けている。フォローは自分がおこなえば良い。対照的な性質の自分と狭霧だからこそ、互いに補い合える。バランスも良く、互いにフォローの手を回し合える。
 狭霧の兄であり、オレたちをデビューさせるためという酔狂な理由で一族の次期当主という役目を一旦脇に置いて芸能事務所を立ち上げ、その手腕でたちまち頭角を表したプロデューサこと久遠陽桐は、恐らくそこまでしっかりと見越していたのだろう。
 おかげで今では、充分にアイドルとして活動できていると思う。
 その分、碌な休日がないのが最も大きな問題だが、限界が来る一歩手前で必ず確保されているのが憎らしい。とはいえ、代表の久遠陽桐や、マネージャとして共に働く方丈家の男たちが、躰と心の健康を最大限に配慮して、常にオレたちのスケジュールを厳しく管理し、仕事を贅沢にも取捨選択してくれていることは知っているので、自分はただ、狭霧と共に真摯に取り組むだけだ。自分たちは、周囲の人間の大きすぎる支えのおかげで、アイドルとして在り続けることができている。
 と、益体もなくぼんやりと考えていたところで再び、地味に、しかし着実に積もりつつある問題に直面してしまい、思わず眉根が寄った。
 なぜ、自分にだけ隠す必要があるのだろう。そもそも、純粋にそれが疑問だった。
 仕事先のスタッフたちや共演者、狭霧の兄、自分の姉、方丈家の面々の前では彼は至極いつもどおりで、それが演技でも取り繕っているわけでもないことは百も承知だ。しかし、自分とふたりきりのときだけ、狭霧は困ったように眉根を寄せて考え込んでいることが多い。此方が話を振っても、どこか上の空な返事。一度、なにかあったのか、と声をかけたことがあるが、狭霧は数秒ほど逡巡したのち、首を横に数度振っただけだった。
 いや。深刻そうに見えて、実はとんでもなくしょうもないことかもしれない。むしろそうであってほしい。なんなら仕事のことでさえないかもしれない。友人のような、家族のような、それほどまでに身近な存在だからこそ逆に小っ恥ずかしい、みたいなことだって有り得るだろう。
 そこで、ひとつ、解決に近づくための方法を思いついた。
 ようやく足を下ろして脱力する。仰向けに倒れたまま一分ほど呼吸を落ちつけたのち、躰を起こしてシャワーを浴びた。部屋着用のスウェットに着替え、リビングのソファに腰を下ろしてテレビを点ける。十時から、自分がゲスト出演した番組が放送されるのだ。
 放送はすぐに始まり、忙しなくオープニングが始まった。おおむね予想どおりの流れと、コメントの使用。数分間のオープニングの自分の立ち振る舞いと、その他の出演者の細かい表情や態度、話の回し方など、そのときに拾いきることのできなかったポイントを確認していく。オープニング後は、しばらくVTRが流れてワイプで反応が抜かれる程度。ワイプに視線を固定したまま、プライベート用の携帯からメッセージを送る。すぐに短い通知が届いた。返信の内容を確認してから電話をかける。
 電話の相手はすぐに出た。
『はい、もしもし』上品な発声で近衛さんが応える。
「あ、もしもし、名護です。急にごめんな」
『いえ、全然。私は大丈夫よ』
 彼女の声の後ろでも、此方と同じ音声が流れていたが、すぐにボリュームが下げられた。
「同じの観てるな。番組」
『もちろん。貴方が出演しているもの』ふふ、と零された彼女の笑い声も、すぐ傍でよく聞こえた。『なんだか不思議な気分だわ。テレビに映っている人が、今、私と電話しているだなんて』
「ええ? 今さらじゃね?」
『貴方は星の影を見たことがある?』
「なんそれ。禅問答?」
『宗派が違うのではなくて?』
「うん、そう」半ば無意識に口許が弛んだ。「ひとり? 今」
『あ、いえ、いのりさんがキッチンに⋯⋯、ひとりのほうがよろしい?』
「いや、そのままで大丈夫」
『貴方もおひとり? この番号だから、今はお家よね?』
「そう、家でテレビ点けてる。狭霧のほうはちょっと仕事押してるみたいで、まだ帰ってきてないんだけど」
『どうしたの?』
「あー、うん。なんつうか、ちょっとした質問っていうか、相談っていうか⋯⋯」
『歯切れが悪いのね。珍しいわ』近衛さんがくすりと笑った。『でも、貴方が私に相談だなんて⋯⋯、もっと珍しいこともあるものね』
「や、正直、完全に的外れっていう可能性もあんだけどさ」
『ええ』
「狭霧の⋯⋯、ことなんだけど」
 一拍。
『なにかあった?』
「いや、具体的になにがあったわけじゃねえけど、なんていうかな、うーん、なんか、オレにだけ隠しごとしてるっぽくて⋯⋯、いや、隠しごとくらいいくらでもあるだろうけどさ、ただの隠しごとにしちゃ妙だなっていうか。それで気になってたんだけど⋯⋯、もしかしたらお嬢絡みかも、と思って」
『私?』
「たとえば、ほら、お嬢のことで悩んでるとか、喧嘩してへこんでるとか、気になることがあったとか⋯⋯」
『特に思い当たることはなにも。そもそも、久遠くんと顔を合わせたのは貴方といっしょにお会いしたときが最後だわ。貴方たち、最近はずっとお忙しいのでしょう?』
「でもほら、お嬢となかなか会えないからへこんでるっていう可能性もあるぜ」
『まさか』彼女は可笑しそうに言った。
 冗談どころか、実を言えば半分ほど本命の可能性だったのだが、彼女にはいとも容易く一蹴されてしまった。
 ワイプが、自分から別の共演者に切り替わる。
『でも、そういえば一度、久遠くんからお電話があったわ』
「え?」初耳の情報だった。「マジで? いつ?」
『ちょうど、ええ、一週間前ね』
 一週間前といえば、まさしく、狭霧の様子が変わった頃だ。
 つまりその電話の内容が、狭霧が恐らく抱えている悩みの種そのものである可能性は非常に高い。もちろん、近衛さんに電話をかけたことで態度が可笑しくなった可能性がないわけではないが、彼女の様子からしても考えにくい仮説だ。しかし、そうなると、あの男は相棒であるはずの自分を差し置いて、真っ先に彼女へ相談の電話をかけたことになる。
 それは、なんというか。
『久遠くんらしいと言えばらしいけれど、結局それで貴方にこうして心配されているんじゃ、意味がないわね』
「それ、どういう意味か教えてもらえたり⋯⋯、は、できねえよな」
『私の口から語ることが適切かどうか⋯⋯』
「そうだよな」
『ごめんなさい』
「や、お嬢が謝ることじゃねえよ」
『でも、やっぱり、お仕事のことだから、きっとふたりでお話したほうがいいと思うの』
 やはり仕事のことだったらしい。溜息を零しそうになるが、それを堪え、テレビの画面を眺めながら少しだけ考える。携帯の向こう側の彼女も、なにも言わない。僅かに遅れたタイミングで聞こえてくるテレビの音声が、絶妙にずれて二重になっている。間を持たせなくて良い、という関係性は、あまりにも貴重だ。この沈黙を許容し、維持して尚、罪悪感を抱かせずにいることがどれほど難しいことなのかは、よく知っている。
「思ったより参ってんのかな、オレ」
『同じことを久遠くんも仰っていたわ』此方の独り言に、彼女はいつもよりも意識した優しさを含ませた声で言った。『もっとも、久遠くんのお話は、相談というよりはほとんど愚痴のようなものだったけれど』
「愚痴?」
『貴方じゃないわ。スタッフさんの』
「ああ⋯⋯、そっちか。いや、それも気になるな。スタッフの愚痴? あいつが?」
『参っていたそうだから⋯⋯』近衛さんがくすりと笑う。『でも、特別珍しいことでもないのではなくて?』
「まあ、そう言われると⋯⋯」
 ああ見えて、狭霧はまっすぐな熱い男だ。正面から衝突し、不服なままやりきれずに悔しい思いを何度繰り返しても尚、まっすぐな芯を持ち続けているほどには。
 それはつまり、それだけ衝突することも多い、ということである。
「そもそもあいつ、この業界に向いてないんだ。たぶん。あ、いや、悪い意味じゃなくて⋯⋯」
『ええ、理解します』
「もっと、純粋なままで許される綺麗な世界ってのがあればいいんだけどな。そんな世界、あるわけないんだけど」
『それは貴方にも言えることよ』近衛さんが言った。『でも、貴方も久遠くんも、生き辛い在り方を求められて⋯⋯、どれほどの自由を奪われても、心休める時間を失っても、どれほど傷つけられても、心なく投げかけられる強い否定や悪意からさえ逃げることを選ばずに、あの世界でアイドルとして立つことを選び続けているのでしょう? それは、どうして?』
「どうしてって⋯⋯」
 VTRが終わる。画面がスタジオに切り替わり、ほどなくして自分が映し出される。
 求められる振る舞いを見せ、望まれる言葉を口にする。常に、求められるものを上回るように。時にはその期待を裏切って、けれどそれも、より自分たちへの興味を深めるためのもの。
 それが、自分に求められたものだから。
「オレらがアイドルだから⋯⋯、ってのは、理由にゃなってねえんだろうな」
『そうね』
「嫌々やってんじゃねえんだ。断るのは狭霧の兄貴に悪くて、とか、そんなことも思ってねえし。休みがないのはたしかにキツいし、あんたの言うとおり、自由もクソもねえ生き方かもしれねえよ。でも⋯⋯、そうだな。オレたちを支えにして、心の拠り所にして生きてる人が、こんなにいる。オレたちの一挙一動に泣いて感動してくれる人が、ホールいっぱいになるくらい、そんなものじゃ収まりきらないくらいいる。それって、すげえことだなって思うよ。オレらの歌聴いて、救われたって人がいる。パフォーマンスを見て、元気が出て、前向きになれたとか⋯⋯、オレらのために頑張れるんだ、とか、そういう、とんでもないプラスのエネルギィを、オレたちは常に全方面から剛速球でぶつけられてんだよな。そしたらさ、オレだって剛速球で投げ返してやりたくなるっていうか。ときどき飛んでくるマイナスのエネルギィには、それを打ち消してやるくらいのプラスで返したくなるし⋯⋯、うーん、今まで狭霧のことばっかりそうだって言ってきたけど、もしかして、オレも相当負けず嫌いなんかも」
『期待に応え続けることから、逃げたくならない?』
「さあ⋯⋯、どうかな。もともと、期待に応えることとか、求められてるオレでいることが、そんなに苦じゃねえんだよな。演じてるっていうより⋯⋯、なんて言うんだろ、演じてるつもりもない。アイドルやってるオレだってオレだろ? もちろん、そんなの、アイドルっていう分厚い皮を被った『名護真崎』を見てるだけで、たとえばさ、オレの顔が好きなだけで、その中身がオレじゃなくてもいいんだって言われたらそれまでなんだけど。でも、そこはどっちでもいいかなって思う。狭霧とふたりでやってけんなら、全然、そんなところは問題にもならない」
『貴方が貴方であることを、貴方が担わなくても良いのね。だから、貴方はその生き方ができる』近衛さんが、穏やかな声で言った。『その証明は、久遠くんがしてくれるものね。もちろん、逆も同じ。彼が彼であることを知っている貴方がいてくれるからこそ、彼は見失うこともなく生きていられるのよ』
「やっぱり禅問答じゃね? これ」
『そうね。問い続け、考え続けること。それだけが唯一、全てに共通する方法論でしょう。それは、私よりも貴方のほうがよくご存じだと思うけれど』
「それ、もしかして、お嬢に電話して答えを聞き出そうとしたオレに対する皮肉か?」
『そんなことないわ。違うの、私⋯⋯、貴方からこうしてお電話していただけて、相談相手に選ばれて、少し気持ちが浮ついているみたい。だから、浮ついて軽くなった口が勝手に先走ってしまうのよ』
「悪い口だな」
『そうね』近衛さんがくすりと笑った息が、電話越しに聞こえた。『大丈夫よ。貴方はこんなにも名の知れ渡ったトップアイドルで、完全無欠の偶像だけれど、この世に完全で在り続けられるのは頭の中にあるものだけよ。でも、久遠くんにとって、貴方のご家族にとって、もちろん私にとっても、貴方はまず、名護くんだもの。それをいちばん知っていて、今、隣で支えてくれる人が久遠くんなのでしょう? 名護くんがアイドルで在り続けることを可能にするいちばんの人が彼で、彼にとっても貴方がそうであるなら、きっと、今回のことに、なんの問題もないはずだわ』
「そんなもんかね」
『そう⋯⋯、でも、これは、私と貴方だけの秘密よ』
「秘密? なにが?」
『このお電話』近衛さんは密やかに笑った。『ね? 私、相当浮かれているみたい』
「へえ⋯⋯、んなこと言っちまっていいのかよ。拗ねたときのあいつ、すんげえ面倒だぞ。いやマジで。ほんとに」
『あら。貴方こそ、そんなこと仰っていいの?』
「あんたとオレは共犯ってこった」
『素敵な響きね』
「うわあ⋯⋯」誰に向けたわけでもない笑みが口許に浮かぶ。「この会話、ほんとに聞かれたくねえな」
『あの人に共犯者は必要ないけれど、貴方には共犯者が必要でしょう?』
 彼女の言葉を一度、嚙み締める。そうして、呑み込んだ。「うん。そうだな」
『今日の私、インタビュアにでもなった気分』
「そういやこないだ、似たような質問に答えたわ。雑誌のインタビューで」ソファで少し体勢を崩しながら笑う。「こんなぐだぐだに気の抜けた回答、近衛記者相手じゃなきゃぜってえ出来ねえや」
『ね、それ、発売日はちゃんと教えていただけるのかしら』
「もちろんご報告いたしますよ、お嬢様」わざとらしく丁寧な口調でそう答えてから、記者になったりお嬢様になったり忙しいな、と思わず吹き出す。「ま、狭霧は地味に嫌がってんだけど⋯⋯」
『嫌がる?』
「そう」
『貴方たちのインタビュー記事に、私が目を通すのが嫌なの?』
「うん」
『ふぅん⋯⋯、不思議ね。どうしてかしら』
「あいつは、ほら、お嬢の前では恰好つけたがりだからさ」
『なあに? それ⋯⋯』鈴のような笑い声と共に、彼女は可笑しそうに言った。『逆ではなくて? アイドルとしてファンの前で恰好をつけている自分を見られるのが恥ずかしい、ならわかるけれど⋯⋯』
「でも、あんたもそうだろ?」
『そうね』彼女はくすくすと笑った。
「んじゃ、オレは一足先に、アイツに恰好悪いところ曝け出して、腹割って喋ってくるかな」
『それがいいと思うわ』
「サンキューな」
『どういたしまして。それじゃあ、また』
「ん、ありがと。じゃあまた」
 少しの空白ののち、通話が切れる。
 テレビの画面には先日見たVTRとワイプに映る自分の姿。
 携帯を離し、画面を服の裾で拭く。
 しばらくテレビから目を離していても問題ないと判断し、もうすぐ帰ってくるだろう狭霧のために夜食の準備でも、と立ち上がる。テレビの音声に耳を傾けながら、キッチンに立ち、冷蔵庫を開けて軽く漁っていると、すぐに狭霧が帰宅した。
「お。おっかえりー、お疲れ」
「ただいま」狭霧は荷物を放り投げるようにして床に置くと、先ほどまで自分が座っていたソファに向かってうつ伏せに倒れ込んだ。「しんど⋯⋯」
「珍し。そんなしんどかった? 今日」
「いや⋯⋯」狭霧は一度そこで言葉を切ると、数秒の沈黙ののち、顔だけを横に向けてテレビを見た。「真崎や」
「なんかすんげえ疲れてね?」キッチンから一度出て、ソファの横に立って狭霧を見下ろす。「なに、大丈夫かよ」
「大丈夫じゃない」狭霧は呻きながら芋虫のような動きで躰を起こした。「あのさ。ちょっと、話あるねんけど」
「話?」
「うん」
「体調悪い?」
「そういうのじゃない」狭霧はそう言って、ソファに座り直す。「当たり前やけど、解散とか、真崎じぶんに不満があるとかでもない」
「わかった」自分はソファ近くでカーペットの上に直接座った。
「今日遅くなったのもそれなんやけど⋯⋯」狭霧が静かに溜息をつく。「自分ひとりで悩んどっても埒あかんなと思って」
「うん」
「結論から言うと、仕事を一個断ってきた」
「うん?」結論までの流れがいまいちわからず、曖昧な返事が零れ落ちる。「うん」
「で、その仕事を断ったのを、俺はこの判断で良かったと思ってるけど⋯⋯、真崎には言うたあかんって口止めされとったし、けど、やっぱちょっと悩んでるというか」
「断った仕事ってなに?」
「ドッキリ」
「ドッキリ?」そう頻繁にオファーが届く仕事ではないが、既に何度かドッキリ番組にも出演したことはある。「口止めされてたってことは、お前が仕掛け人で、オレがドッキリにかけられるほうってことだったんだろ?」
「うん」狭霧は不満そうに口を斜めに下げた。「コンビの信頼関係を確かめるやつ」
「コンビ?」思わず吹き出す。「なんそれ。今度M1でも出るか?」
「このドッキリ、俺ら以外は全員芸人やった」狭霧はずるずるとソファの背もたれに躰を預け、体勢を崩していく。「やから、まあ、相方とわざとぎくしゃくして⋯⋯、なんやろ、とにかく、解散したいって告白して、そういういざこざを起こして、そんで言い合いになるやん。そこで相方がなんて言うてくんのんかっていう⋯⋯、そういう、なんもおもろないドッキリ」
「たしかに、面白くはねえわな」
「俺は、絶対嫌やなって思った。でも、こんな企画を、しかも芸人ターゲットの中、わざわざ俺らに持ってくるってことは、それだけ需要があるというか⋯⋯、ファンの皆が、アイドルの俺らに、こういう物語性みたいなもんを求めてるってことなんかなって。なんやろ、こう、わかりやすい形で俺らの関係性みたいなもんを見せてほしい、みたいな⋯⋯」狭霧はカーペットに足を放り投げるようにした怠惰な体勢から、片足を立て、その膝の上に肘を置き、自身の口許を揉むようにして弄り始めた。「もしそうやとしたら、俺の嫌やって思う気持ちはあくまで俺個人のものであって、アイドルとしては、仕事としてちゃんとこなすべきやろ。仕事ってそういうもんやし⋯⋯、いや、べつに、お前ほどアイドルっていう自覚は、正直なところないけど、でもさ。真崎がもし、この仕事を仕事として受けるべきで⋯⋯、スタッフさんとか、番組とか、なにより、ファンの人らのために必要なことやって思ってるとしたら、俺が断るのってどうなんやろって、悩んでたというか」
「断るかどうかで一週間も悩んでたのか?」
「え?」狭霧は手の動きを止め、驚いたように此方を見た。「なんで一週間ってわかるん」
「いや、あからさまに可笑しかったじゃん、お前」
「お前ほんま凄いな」
「お前がわかりやすすぎて凄いんだよ、どっちかっていうと」
「うん⋯⋯、まあでも、そういう感じ」狭霧は再び手を動かし、口許を触る。「言葉にしてまうと、やっぱり、一気にしょうもなくなるねんけど⋯⋯」
「オレが狭霧を取るかファンを取るかで、オレはアイドルとしてファンを取るんじゃないかって思ったってこったろ?」
「そのまとめ方はどうなん」狭霧は短い息で笑った。「ちょっと意味合い変わってくるやろ、それ」
「でも狭霧は、嘘でも解散とか言いたくなかったってこと?」
「それもそうやし、そもそも、お前に嘘つきたくないし。しかもその嘘が解散話って⋯⋯」狭霧は露骨に眉を寄せた。「いくらドッキリでした、って判明しても、そのドッキリ中のぎくしゃくした時間は実際にあったこととして俺らの中に残るわけやん。そんなん、嘘でも演技でも、求められても、とにかく嫌やわ。俺らはたしかにアイドルかもしれんけど、アイドルの前に、俺とお前なわけやん。そこ揺らがしてまでやるのは、絶対嫌やなって⋯⋯」狭霧は眉を寄せたまま此方を見た。「俺の言うとること、伝わる?」
「うん」狭霧としっかりと目線を合わせる。「大丈夫」
「俺らのこと応援してくれる皆に、元気とか、癒しとか、そういう前向きな力を与えて、ファンの皆を少しでも支えられる存在でありたいんですって、こないだのインタビューでも言うてたやん、自分」
「よく覚えてんな」
「この仕事は、ほんまに、そういう人らに前向きな力を与えられるんかなって⋯⋯」狭霧は再び、テレビのほうをぼんやりと見つめた。「やから、やっぱり断った。俺個人としても嫌やったけど、でも、アイドルとしての俺らにとっても、やっぱり嫌やなと思って」
「大丈夫」
 立ち上がる。それから、見下ろした先、狭霧の肩を少し強めに叩いた。狭霧は「うお、 」と短く小さな声を零すと、驚いたように此方を見上げる。
「お前はなんも間違っちゃいねえよ」
「ほんまに?」
「陽桐さんもすんなり了解してくれたんだろ?」
「あ、うん。断るって言うたら、あーはいはいオッケーオッケー、こっちからも伝えとくわ、言うて⋯⋯」視線を数度彷徨わせて、再度。「ほんまに良かった?」
「いいんだって」背中を伸ばしながら、できるだけ軽い口調で答えた。「お前は言葉にすんのとか、結構躊躇するタチなのは知ってっけど⋯⋯、やっぱこういうことってさ、言葉でちゃんと確認しないとわかんねえもんだよな」
「そうやな」狭霧はようやく力を抜き、苦笑した。「俺も反省する」
「んじゃ早速、言葉にして確認したいことがあんだけどお」
「え、なに」
「なに食いたい? 晩飯」
「飯? ああ⋯⋯」狭霧は少し視線を逸らすと小さく首を傾げた。「そういや腹減ったな」
「三択な」
「三択もあるんか」
「一、チャーハン。二、ラーメン。三は餃子。さあ、どーれだ!」
「なんやねん、それ。そんなんしょうみ一択やんけ」狭霧は悪戯好きの少年のような笑みを浮かべると、此方に向かって指を四本立ててみせた。「四番目。お前といっしょに中華セットで」

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