第一話 久遠くんと斎ちゃん

 
 
 
 重たい瞼をこじ開けて真っ先に認識したのは、暗闇の天井。そして、震える自分の指先と、激しい鼓動の音だった。
 浅い呼吸を繰り返しながら全身の力を抜き、落ち着いた頃に上体を起こす。まだ指先は小刻みに震えていた。全身に汗が薄く纏わりついて、湿った熱気を感じる。端的に言って不快だった。
 ベッドから降り、自室を出てリビングに向かう。電気を点けた途端、刺すような眩しさが目を刺激する。一瞬、立ち眩みのような目眩を覚えた。
 キッチンでグラスに水を注ぎ、それを一気に飲み干す。時刻は深夜四時前。
 完全に目が覚めてしまった。やり場のない怒りを溜息と共に吐き出す。着替えたかったが、それさえも面倒になり、自室に戻ってベッドに寝転んだ。
 夢を見た。
 既に詳細は覚えていない。ただひとつ、いちばん覚えていたくなかったことだけはしっかりと覚えている。彼女が、自分たちの前からいなくなってしまう夢だった。
 まだ鼓動は僅かに速い。そういえば、しばらく彼女には会えていない。兄が次々とスケジュールリストに突っ込んでくる仕事をこなすので精一杯だった。これでも兄は、俺たちの体調や精神面を第一に考えており、仕事を断ってでもスケジュールを調整している、らしい。あくまで真墨から聞いた話だ。兄本人からは『もっと稼いで』と書かれた冗談みたいな団扇を向けられたことしかないので、実際のところどうなのかはよくわからない。ベッドに寝転んだまま、携帯に登録したスケジュールを確認する。今日を乗り越えてしまえば、待ちに待った休日だ。
 たった一日が、この上なく果てしない。
 再びベッドから起き上がる。彼女に送るメッセージを考えながらシャワーを浴びて、キッチンに向かった。どうせ、あと三十分で起床しなければならないのだ。二度寝の危険を冒すくらいならば、自分よりもさらに過密なスケジュールをこなしている真崎のために簡単な朝食の用意をするほうがいい。用意するとはいっても、自分にできることといえばパンを焼いてバターを塗っておく程度である。卵焼きを作ることができるかどうかさえ怪しい。
 ちょうど四時半にリビングに姿を見せた真崎と朝食を食べ、共に家を出て車に乗る。その後、ひとつめの撮影を終えて昼食の弁当を頬張りながら、メッセージアプリを起動して彼女に送信する文章を打ち込んだ。考え抜いた結果、メッセージの文面は最初の案になった。真崎が此方こちらの携帯を覗き込んで愉快そうに笑っているが、なにも突っ込まれないところを見るに、今回の文章に修正はないらしい。
 彼女からの返信を確認して、真崎と別れる。それぞれ別の打ち合わせがあった。自分は予定時刻より少し早めに向かい、これから打ち合わせを行う番組の、過去の台本をいくつか手に取った。正確には台本ではなく旅のしおりである。スタッフから声をかけられつつも、その場で旅のしおりを読んでは棚に戻す、を繰り返し、ようやく行先を決定する。
 兄と真崎に連絡を入れて許可を貰い、午後からの仕事を終えて帰宅した。真崎は珍しいことに、シャワーを浴びると飯も食わずに爆睡した。そのうち、自分もいつの間にか眠りこけており、翌日、飛び起きて慌てて時刻を確認するはめになる。
 準備をしていると、正午過ぎに真崎が一度起床した。真崎は俺を見るやいなや、無言のまま詰め寄ってきたかと思えば寝癖を直しただけの俺の髪を慣れた手つきで勝手にセットをし、勝手に服を選び始めた。言われたとおりに服を着て家を出る。真崎は「オレはもっぺん寝るから」と言いながらも、玄関まで見送りにきた。
 いつもより急ぎ足で向かい、彼女の家の前に到着すると、ちょうど彼女が姿を見せたところだった。ワンピースの裾を揺らしながら此方を振り返った近衛が、小首を傾げて微笑む。
「急に連絡してごめん」軽く手を上げながら声をかけた。
「お誘いありがとう。嬉しいわ」
 ワンピースは昏い緑色で、大きなチェック柄だった。膝が隠れる長い丈で、腰には服と同じ柄の布がベルトのように巻かれている。小さな鞄とショートブーツは黒い。髪は緩く波打っており、よく見ると、サイドの束は捻じられて後ろで留められていた。
 彼女はよく目立つ。派手、という意味ではなく、目を惹くのだ。単純な造形の美しさというか、オーラの問題である。
 今日の目的地は、すぐ近くだった。
「以前の放送で、貴方が歩いていたところね」隣を歩きながら彼女が言った。
「よう覚えとるな、そんなこと」できるだけ声を潜めて話す。
「貴方たちが出ている番組だけは欠かさず見ているもの」
「俺はあんまり観てほしくないけど⋯⋯」
「いつも思うけれど、彼はともかく、貴方、よく今の業界に足を踏み入れたわよね」
「知らん間に兄貴のええようにされとったわ。まあ、真崎が⋯⋯、アイツがいっしょにおってくれるなら、どうにかなるかな、と思って」
「彼も大変ね」
 すれ違う通行人が、時折、彼女に視線を残す。自分はサングラスをかけているものの、気づかれている様子はない。やはりオーラがないのだろうな、と他人事のように分析する。真崎と出かけようものなら、こんな視線では済まないのだ。罪な男だと思う。
「今日もお仕事なの?」真崎のことだ。
「いや。たぶん今頃、家で爆睡しとる。昨日まではお互いにいろいろ仕事があったけど、今日と明日は揃ってオフ。まあ⋯⋯、アイツのスケジュールえげつないし、今日くらいはゆっくり休んでもらおうかなと思って」
 俺の言い訳じみた言葉に彼女は軽く頷くと、此方を見上げるようにして首を傾げた。
「今日は、放送で訪ねていたお店に行くの?」
「いや。収録んときにはなかった店なんやけど⋯⋯」さらに潜められた彼女の声に釣られて、自分も腰を少し屈めて話す。「喫茶店っていうか⋯⋯、でも、個室らしいで。雰囲気も悪くないって言うてたし、大丈夫やと思う」
「楽しみね」彼女は小さな唇を微笑みの形に持ち上げた。
 そこで頷いてしまえばいいのだが、そんなことができれば俺はもう少しこの世界でうまくやっていけるだろう。
 ほどなくして喫茶店に到着した。予約の際、勝手に使用した「方丈」を名乗り、店員の後ろを歩きながらひととおり店内を見渡す。番組スタッフから教えてもらったとおり、落ち着いた雰囲気と品の良い静けさがあった。どちらかといえば和風寄りの内装で、カフェというよりホテルの一画っぽいな、というのがこの店への第一印象だった。
 席に案内される。完全な個室ではないものの、席ごとに壁で区切られており、通路に面した一面はモダンな格子戸で開閉できるようになっていた。狭くはないが、微妙に照明が暗い。
 ソファに腰かけ、真っ先にサングラスを外す。正面に座る彼女は暖色のランプに照らされおり、睫毛の影が繊細に目許で揺れていた。
 彼女は一度瞬いて、俺と目を合わせると、目を細めて微笑んだ。
「このお店のおすすめは?」
「パンケーキ」
「今日の貴方、とっても素敵ね」
「え、なに?」
「おすすめのパンケーキが食べてみたいわ」彼女はそう言ってから、メニュー表を手に取った。「でも、食べきれるかしら」
「そのときは俺が食べる」
「それじゃあ、遠慮なく」彼女が微笑む。「それと、ダージリンを」
 絶妙なタイミングで通路を歩いてやってきた店員に注文を伝える。店員は一度此方の顔を見たが、すぐに頭を下げてその場を離れた。兄に言われたとおり、予約の際にあらかじめ話を通して正解だった。つまり、そういった配慮ができる店であることを確認した上で兄も許可を出したということだ。真崎共々、敵には回したくない男である。
 十分ほど他愛もない会話をしていると、先ほどと同じ店員が姿を見せた。彼女の前にパンケーキと紅茶を、自分の前にコーヒーゼリーパフェとホットコーヒーを手際よくテーブルに並べていく。
 コーヒーゼリーパフェは、その名のとおり、小さなグラスに敷き詰められたコーヒーゼリーの上にバニラアイスと謎の葉っぱが乗っている。
 彼女が興味深そうに観察しているパンケーキは、写真よりも分厚く、一口サイズのフルーツが色とりどりに散りばめられていた。自分が知っているパンケーキはもっと薄くて硬く、ついでに少し焦げているはずなのだが、見るからに対極的な食べ物だ。
 いただきます、と声に出してから、彼女がフォークとナイフでパンケーキを切り分け、上品に口を開く。口に入れ、ゆっくりと味わうと、静かにナイフを置いてから口許に指先を揃えて添え、ふふ、と声を零した。
「とっても美味しい」
「良かった」その言葉を聞いて、自分もコーヒーを一口飲む。
「久遠くんも一口食べてみて」
 そう言って彼女は先ほどよりも大きく切り分けると、フルーツを器用にパンケーキの上に乗せて、慎重にフォークを持ち上げた。右手を皿代わりにしてフォークを寄せてくる。
 差し出されたパンケーキを見たあと、彼女の顔を見る。「どうぞ」と言われてしまった。やはり食べろということらしい。渋々口を開いて顔を寄せたところで、もしかしてとんでもなく小っ恥ずかしいことをしているのではないか、という疑念が生じたが、溢さないように食べるのが難しく、それどころではなくなった。
 無事、フォークが引き抜かれたところで、パンケーキらしからぬ食感に驚く。
「うお、なんやこれ、溶けるやん」
「ね、ふわふわでしょう?」
「俺の知っとるパンケーキじゃない」
「もう一口食べる?」
「あとで貰う」
 彼女は控えめに頷くと、また一口食べた。その様子を眺めながらコーヒーを飲む。パンケーキの四分の一ほどが消えたところで、彼女はナイフとフォークを置き、紅茶のカップを手に取った。
 ふと思い立ち、携帯を取り出してカメラを起動する。自分のコーヒーカップと小さなパフェの写真を撮り、すぐに携帯をズボンのポケットにしまおうとしたところで、彼女がカップから口を離した。
「さっきのお写真は、投稿用?」
「うん。俺、ほとんど更新せんから、この機会に写真でも載せて、更新ついでに宣伝しとけって兄貴が」
「一度見せてくださる?」カップをテーブルに置いた彼女が手を差し出す。
 言われたとおりに写真を見せると、彼女は俺の携帯を持って立ち上がり、なぜか自分の隣に腰かけた。幽かに軟らかな香りがしたが、次の瞬間にはもう捉えることができない。
「奥に、パンケーキと私の服が少しだけ写っているわ」彼女は細い指で写真の奥を指差した。「貴方、瞬く間に炎上するわよ」
「まじで?」
「まじよ」俺の言葉を真似すると、彼女は可笑しそうに笑った。
「こんな写真で、お前が座っとるってわかるか?」
「私かどうかというより、貴方が女とふたりきりで喫茶店に行った、という事実がまずいのよ。私の席に座っていたのが名護くんだったら、問題はないのだけれど」
「ふぅん」
「面白くないって返事ね」
 先ほど撮った写真から、彼女の旋毛に目を移した。サイドを束ねている小さな髪留めが目に入る。以前、収録中に買い、お土産のひとつとして彼女に渡したものだ。そこから少し視線を下ろせば、緩く巻かれた墨色の髪の隙間から、細い首の白色が覗いている。そちらに気を取られている間に、覗き込むように見上げた彼女と完全に目が合ってしまった。
 逸らすには、もう遅すぎる。
「どうしたの?」ずっと近くに、彼女の声がある。「なにかあった?」
 首を傾げた拍子に、彼女の細い髪が一束、音もなく揺れた。彼女の顔を見る。目許にかかる前髪の下、瞼に散りばめられた小さな光が不規則に揺れていた。長い睫毛の影。影よりも濃い黒い瞳。そこにも、光が映り込んでいる。
「ちょっと、変な夢見て⋯⋯」気がつけば、そんなことを口走っていった。
「夢?」
「どっか行ってまう夢」
「誰が?」
「嬢さんが」彼女のほうを向いたまま、テーブルに肘を置き、頬杖をつく。「正直、夢の内容とかは全く覚えてないねんけど、お前がどっか行ってまう夢やったのは、はっきり覚えとって⋯⋯、最近会ってなかったし、そんな夢見てもうたら、妙に不安になってきて、それなら写真でも残しとけばええんかなって、なんとなく今、思ったというか」
「私からしてみれば、遠くに行ってしまったのは貴方たちのほうだけれどね」
「え?」
「投稿用の写真は、もう一度撮り直しましょう」彼女はパフェの位置をずらしながら言った。「この写真は消すわ」
「俺の話聞いとったか?」
「聞いていました。でも、貴方のことだから、投稿する際に間違えて此方を載せてしまいかねないでしょう」
 咄嗟に言い返すことができず、言葉を詰まらせる。彼女は返事も訊かずに写真を消すと、携帯を俺に渡し、コーヒーカップを両手で持って移動させた。
「はい。これで、から撮って」彼女はセッティングを終えて立ち上がる。「私の影、入っていないわよね?」
「入っとってもいい」
「だめ」彼女は綺麗に微笑んだ。そうすれば俺が言うことを聞くと思っている節が彼女にはある。
 こっそりとゴミ箱ファイルを確認したが、周到なことに、そこからも既に先ほどの写真は消去されていた。仕方なく言われたとおりに写真を撮り、彼女のお墨つきを得る。
 彼女はコーヒーとパフェの位置を元に戻してから、向かいのソファに座り直した。
「はい、どうぞ」
「なにが?」
「お写真、撮りたいんでしょ?」テーブルに両肘をつき、交叉させた指の上に顎を置く。
「え、ああ⋯⋯」意味もなく、携帯の画面と彼女の顔を見比べた。「でもさっきはあかんって⋯⋯」
「貴方の携帯の中だけに留めてくださるなら、お好きにどうぞ」彼女は唇の端に笑みを湛える。「もっとも、私はどこにも行かないけれど」
「真崎みたいに、もう一台携帯買おかな」
「どうして?」
「プライベート用」
「貴方、そういう使い分けは向いていないと思うわ」
「真崎にも同じこと言われた」口を尖らせて不満を示す。「嬢さん、パンケーキ食べて」
「食べているところを撮るの?」
「お好きにどうぞって言うたやん」
「物好きな人ね」次は彼女が口を尖らせる番だった。「お断りします」
「なんであかんの」
「だって、いちばん綺麗な私を覚えていてほしいじゃない」
 言葉の意味を理解し損ねて、返事もできずに彼女を見つめた。しかし、彼女はそれ以上なにも答えてはくれず、ただ微笑んでみせるだけ。
「自分の場合、欠伸しとっても綺麗やと思うけど」
「そんなこと言ったってだめよ」くすくすと息を擽らせて笑う。「撮らせてあげない」
「わかった、じゃあ、撮るからそのままでおって」
「ええ」
 彼女の写真を二枚撮り、携帯を伏せてテーブルに置く。それから、パフェとスプーンを彼女のほうに差し出した。
「一口食べり」
「あら。お先に良いの? それとも毒味?」
「ちゃうわい」
「冗談よ。いただきます」彼女は端のほうをスプーンで掬い、一口食べた。「美味しい。とても食べやすいわ。このお店も放送できれば良かったのに」
「たしかに」彼女からパフェを受け取り、自分も一口食べる。「うま」
「番組の貴方っぽく言ってみて」
「甘さ控えめで、俺でも食べやすいです。うまい」
 彼女はまた、くすくすと笑い始める。正直、彼女の笑いのツボはよくわからないが、楽しんでいるのならべつにいいか、と思わせるだけの魅力がある表情だった。
 その後も、彼女のパンケーキを食べたり、他愛もない会話をしながらコーヒーを飲んだ。パンケーキのうち半分は俺が食べたが、彼女にしてみれば食べたほうである。一杯の飲み物で、気がつけば二時間が経過していた。時間を確認したとき、見間違いかと思ったほどだ。
 一度彼女が席を立った間に会計を済ませ、戻ってきた彼女と店を後にする。会計が終わっていたことに、珍しく驚いたように目を瞬かせていた。その表情を見ることができたので、自分としては満足だ。
「貴方、そんなこともできたのね」
「俺のことなんやと思ってる?」
「夜景が見えるレストランよりは馴染みのラーメン屋を選びそうなタイプかしら」
「そこまで?」
「やっぱり、今日の貴方は素敵だわ」
「なあ、それ⋯⋯」かけたサングラス越しに彼女を見下ろす。「今日だけなんか」
「どうしたの?」近衛がくすりと笑った。「今日は随分と甘えん坊ね」
「そんなんじゃない」
「心配しなくても、私は此処にいるわ」彼女の指先が、一瞬だけ右手の手のひらに触れる。掠めるような触れ方だった。「貴方たちという星は、どこにいても見えるでしょう。それと同じで、星は見上げる全ての人を見ることができるのよ」
 その言葉を聞いて、思わず立ち止まる。
「俺は、お前をそんな衆生のひとりやとは思ってないけど」
 一拍遅れて彼女も立ち止まった。
 彼女が此方を振り返る。
「お前は、俺らのことを、あんなアホほどある星のひとつやと思っとんか」
 一歩先で立ち止まったまま、近衛は次こそ驚いた表情を見せた。
 数秒の間。
「傲慢な人」そして、氷が溶けていくように、或いはほころぶ花のように、彼女は笑みを浮かべていく。「残念だけれど、私の世界には星がふたつしかないのよ。そのふたつだけでとっても眩しいの。夜なんてどこにもないくらい」
「詩みたいなセリフやな、相変わらず」
「お嫌いではないでしょう?」
 たった一歩、足を踏み出すだけで彼女の隣に並ぶことができる。
「嬢さんやから許されてるけど、俺が言うたら鳥肌モンやろ」
「一度聞いてみたいわ」
「なんでやねん⋯⋯」
 突然、短い通知音が鳴った。
 会話が中断される。
 立ち止まったまま携帯を取り出すと、真崎からのメッセージだった。会計の後、彼女が戻ってくるまでの間に先ほどの彼女の写真を真崎のプライベート用携帯に送っていたのだが、それをようやく見たらしい。今起きた、ということだろう。続けて、トーク画面にふきだしが増える。『今日はガッツリ食いたいからオレも外に出たい』。そのまま読み上げると、近衛は僅かに首を傾げた。
 兄貴に連絡して奢ってもらおう、と送ると、すぐに賛同の返事が届いた。兄への連絡は真崎からしてくれるそうなので、俺は携帯をしまい、彼女と並んで歩く。
 嬢さんもいっしょに、と声をかける直前、彼女が先に口を開いた。
「それじゃあ、まずは貴方のおうち?」
「え? ああ⋯⋯、うん」言葉の意味に気づくまで、少々時間を要した。「兄貴も来るなら、車で家まで来てくれるやろし。とりあえず家に帰ろうかなって思ってるけど」
「あ、ごめんなさい」遅れて気がついたのか、彼女は僅かに眉を顰めると、少し俯いたまま此方を見上げた。「違うの⋯⋯、私もごいっしょする前提でお話しちゃったわ」
「いや⋯⋯」口を手で隠しながら答える。「お前が断っても、俺は誘うつもりやったから」
「ねえ、貴方、ちょっと笑ってない?」
「笑ってない」そう答えた瞬間、堪えきれずに笑い声が零れてしまった。「いや、ちゃうねん、嬢さんが変とかじゃなくてな、なんていうか⋯⋯」
 嬉しかった、と零しかけた言葉は呑み込む。
 一方、彼女は少し顎を持ち上げ、不満げな表情を滲ませている。俺が再び小さく笑い声を漏らしてしまえば、彼女はますます眉を顰めた。
「ちゃう、ほんまに、嬢さんが可笑しいとかじゃないから」
「わかっているわ。貴方たちと当然のように行動を共にしようだなんて、傲慢なのは私のほうだってこと?」
「違うってば。っていうか、ええやんそれで。お前の場合、もっと我儘に生きてもええくらいやろ。それより、ガッツリ食うってなったら焼肉っぽいけど、嬢さんもおるなら寿司とか? あとは、バイキングとかでもいいかも。どうする?」
「名護くんの意見を優先しましょう。焼肉でもお寿司でも、私が食べられるものはあるから、気にしないで」
「わかった」
 俺の顔を見て、彼女は眉を軟らかく下げて微笑みを浮かべる。
 そのときにはもう、あの日見た夢のひとかけらも思い出すことはできなくなっていた。

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