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ショッピングモールは大勢の人で賑わっていた。フードコートも、日曜日のお昼前に相応しい混雑を見せている。しまった、と気づいたときには遅かった。恐る恐る五十嵐くんを見上げてみるが、特に反応もなく、表情に変化もない。それがまた、私の不安を掻き立てた。
【ごめんなさい。できるだけ静かなところにしようと思っていたのに、すっかり忘れていて⋯⋯】
「日曜の昼間なんてどこもこんなもんだろ」
【それは、そうかもですが】
「んなこたどうでもいい。それより、店決めるほうが先だ」
【ありがとうございます】せめて、少しでも今日は良かったと五十嵐くんに思ってもらえるように、たくさん食べさせてあげようと決めた。【あ、あっちにフロアマップがありますよ】
人混みを掻き分けて進み、フロアマップの前で立ち止まる。私たちの他にも、数人が同じようにマップを眺めていた。
【へえ⋯⋯、いろいろあるんですね。わ、アイス屋さんもある】
「もうデザートの話かよ」
隣に立って同じくマップを眺めていた女性ふたりが、ぎょっと驚いたように五十嵐くんを見た。五十嵐くんが突然虚空に向かって喋りかけたか、自分たちの会話に割って入ってきたように感じられたのかもしれない。私は五十嵐くんに話しかけるのも忘れて、必死に大きな身振り手振りで手話の動きを取り繕った。
急に黙ったかと思えば躰の動きだけがうるさくなった私に対して、五十嵐くんは変なものでも見るような目つきで眉を寄せた。一方、女性ふたりはどことなく安堵の表情を浮かべている。咄嗟のことだったので「アイス」「食べる」「希望」をひたすら繰り返していただけだったが、誤魔化すことはできたようだ。もっとも、五十嵐くんは綺麗な顔立ちをしているので、話しかけられたとしても喜ばれるだけかもしれないが。
「そんなに食いてえのか? アイス」
【違いますよ。いや、アイスはちょっと食べてみたいですけど】手話は続けたまま、声を出して答えた。【五十嵐くん、もう少しで不審者になるところでしたよ】
「はあ?」
【いえ、私が手話を忘れていたのが悪かったんですけど⋯⋯】
「ああ⋯⋯」五十嵐くんは横目で隣の女性ふたりを確認した。「さっきのお前の動きのほうが、よっぽど不審者だったけどな」
【うるさいです。それより、なにか食べたいもの、見つかりました?】
「此処」五十嵐くんが指差したお店は、イタリアン系のファミリーレストランだった。
フロアマップに従って再び人混みの中を進み、お店に到着する。予想どおり満席だったが、それにしても、予想以上に繁盛している。入口近くのソファには数組の客が座っていた。このまま待つか、店を変えるか。五十嵐くんの様子を窺おうとして私が顔を持ち上げたのと同時に、彼は迷いなく歩き出すと、入口近くに立てられていたボードになにかを記入した。
【なんですか? それ】
「順番待ちの名簿」
【へえ⋯⋯】覗き込んでみると、たしかに表になっており、名前と人数を記入できるようになっていた。最後の欄にはイガラシと書かれている。名前はどれもカタカナで書かれているので、そういう決まりらしい。
「まあ、回転早いからすぐだろ」
【よく知っているんですか? このお店】
「別の店舗で、一瞬バイトしたことがある」
その答えを聞いて、頭の中に、一瞬だけお皿に触れてあとは素知らぬ顔をしている五十嵐くんの映像が浮かんだ。それがなんだか少し可笑しくて、思わず笑ってしまった。
五十嵐くんの言葉どおり、順番はすぐに回ってきた。若い女性の店員に案内されるがまま、騒々しい店内に足を踏み入れる。此処なら、五十嵐くんがひとりで喋っていても気にする人は誰もいないかもしれない、と思わせるほどの賑わいだった。
すれ違った男性と擦れるようにぶつかった。謝ろうとしたときには、男性はもう数歩ほど離れた場所にいる。目まぐるしい騒がしさが、ひっきりなしに三半規管を刺激した。
「おい」五十嵐くんが、少し先で立ち止まって此方を見ている。「大丈夫か?」
【すみません】急いで五十嵐くんのもとに駆け寄る。【大丈夫です】
「お席は此方になります」店員が示した席は、窓際の二人席だった。「お冷はセルフサービスとなっておりますので⋯⋯」
店員に軽く頭を下げてから上着を脱いで着席する。五十嵐くんが私の前にメニューを差し出した。
【あ、いえ、私は注文しないので、五十嵐くんのお好きなものを⋯⋯】
「は?」五十嵐くんは少し目を見開いた。「食わねえのか?」
【だって、勝手に外で食べちゃ駄目って言われてて⋯⋯】メニューには、美味しそうな前菜やパスタの大きな写真がたくさん並んでいた。【美味しそうだし、気になるけど⋯⋯】
「俺ひとりで食えってか」
【すみません、なので、メニューは⋯⋯】
「俺はいい。もう決まってる」
【そうなんですか?】
「この店でいちばん高いやつ」
五十嵐くんはメニューを一瞥すると、テーブルの上に置かれていた小さなボタンを押した。すぐに現れてテーブルの傍に立った店員に、五十嵐くんが料理名を告げる。注文を取り終えた店員がテーブルを離れると、五十嵐くんも席を立った。
「ちょっと水取ってくるわ」
【あの、私の分もお願いしていいですか?】
「水しかねえぞ」
【大丈夫です】
五十嵐くんは一度頷き、通路を忙しなく行き来する店員たちの間に消えた。
テーブルの上に置かれたままになっていたメニューを手繰り寄せる。いちばん高い食べ物はステーキだった。しかし、よく見てみるとどれも異様に安い値段で、ステーキの下にも、予想していたよりも遥かに安い値段が記されていた。
メニューを眺めている間に、五十嵐くんはすぐに戻ってきた。片手で器用にグラスをふたつ持っている。もう片方の手には、ビニル袋に入った薄いお手拭きが四つ。
「母親か?」
【なにがですか?】
「外で食べるなって言った奴」
【あ、ええ、そうです。お弁当とかご飯はいつもお母さんが作ってくれるんですけど、決まりごととか、摂取量とか、食べる時間とか、いろいろと気にしてるみたいで⋯⋯】
「いや、あれは⋯⋯」珍しく歯切れの悪い口調だった。「気にしてるっつうより⋯⋯」
しかし、五十嵐くんは続きの言葉を口にしないまま、窓のほうを向いて頬杖をついた。時折、滲み出すように眉が寄せられ、ほんの少し顔を顰めていたりする。なにか話しかけたくて、頭の中でいくつか話題を挙げてみるけれど、どれも話題と言えるほどのものでもない。
「失礼します」突然私たちのテーブルの前で立ち止まった店員が、五十嵐くんの前にステーキを置いた。「ご注文は以上で間違いありませんか?」
私が頷くと、店員は軽く頭を下げて足早に去っていった。
五十嵐くんの前には、分厚い肉と付け合わせのポテトとコーンが乗った、いかにも熱そうなプレートが置かれている。
【うわあ、お肉だ⋯⋯】
「当たり前だろ。ステーキだぞこれ」
【はい】五十嵐くんがまたいつもどおりに返事をして、会話をしてくれたことが、妙に嬉しかった。【そうですね】
「なあ」
【はい?】
「見過ぎだ。食いにくい」
【あ、ごめんなさい、でも、こんなのほんとに嚙み切れるのかなって、気になっちゃって⋯⋯】
「ふぅん」
五十嵐くんは曖昧に返事をしながら、ナイフとフォークでステーキを切り、大きな一切れを容易く口の中に放り込んだ。私はただ、彼が咀嚼している様子を眺めているばかりだ。
やがて、五十嵐くんはグラスを持ち、軽く口をつける。グラスをテーブルに戻すと、またナイフとフォークを手に取った。
「響子」
目は合わない。
彼は伏し目がちに少し下を見ているが、ステーキを見ている、というわけでもないようだった。
「お前は、家畜でも、モルモットでもねえだろ」
そう言って、五十嵐くんはステーキにフォークを突き刺した。