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 自分の立場を理解した頃から、いつも、不安という膜が薄く自分の思考に貼りついている。
 振りほどこうとしても、剥がしてしまいたくても、目を逸らそうとしても、今が束の間の平穏であることを常に意識せざるを得なかった。崩壊のきっかけなど、些細な揺れひとつで充分すぎる。罅を入れることができれば、あとは勝手に、自重で崩壊していく。
 世界はまだ、超能力者という存在をどのように受け止めるべきか決めあぐねているらしい。法整備どころか、世間への情報公開もままならない。このような未知の現象が、それも、物理法則を無視した現象が存在すると公になったが最後、生じる混乱の数々は想像に難くない。国家だけが把握し、存在をひた隠すことで猶予を得ようとしているのだ。
 だが、いつかそう遠くない未来で、この見せかけの均衡は破綻するだろう。
「そのとおりです。必ず、それも数年以内に」四方田先生はそう言って、穏やかに微笑んだ。「だから、僕は犯罪者になった」
 数か月後。私は四方田研にいた。三度目の訪問だった。
 四方田研の教授室は、幅が狭く奥行きのある長方形の部屋で、中央に大きな会議机が置かれている。机の周囲には椅子が八脚。部屋のほとんどを、机と椅子が占めている。左手の壁際にはホワイトボードがあり、タンパク質の名前らしいアルファベットの短い羅列がいくつかと、数式が走り書きでメモされている。部屋の奥には教授のデスクと、これでもかと紙類が雑多に押し込まれたスチールの本棚。
 いつもならば、八脚の椅子のうち、最も部屋の入口に近い椅子に腰かけて教授と向かい合うのだが、今日は会議机の長辺に座るように促された。ホワイトボードの手前に腰かけた教授と向き合う形だ。右手には、教授のデスクと部屋の窓。左側に顔を向けると、可動式のテレビとパーテーションが隅に置かれていた。いつもの場所からは見えないものが見えたことで、途端に、知らない部屋を訪れたような気分になった。
「動機は、と訊ねられたら、そうだな⋯⋯、やっぱり、自由を追い求めて、と答えるべきかな?」
「そもそも、罪状はなにになるんでしょうか?」
「罪状だらけじゃないかな、そう、公文書偽造罪とか⋯⋯、ああ、そもそも、僕は超能力保持登録の届け出もしていませんから⋯⋯、うん、どうやら、僕は稀代の犯罪者だな」
 超能力と呼ばれる代替機能の発現が確認されると、迅速かつ秘密裏に、機密事項としてしかるべき機関に通達される。その後、速やかに国家によって保護され、超能力保持者として登録が成されるのだが、これは我々超能力者の人権や生活を守るためではなく、国家が手許に置き、監視するためにおこなわれている。
 登録された超能力者は国の監視対象となり、常時追跡され、行動を把握される。プライバシーは或る程度保障されているものの、常に誰かが私を見張っている、という事実だけで、立派にプライバシーは侵害されていると言えよう。
 また、登録前に超能力の使用に立ち会った人間には、口止め料として莫大な金銭が支払われる。当然、彼らも監視対象となる上、我々超能力者よりもその監視は厳しい。超能力者本人よりも、そういった人間のほうが、超能力という世界的な機密を漏洩しかねない。都市部では病院や学校などさまざまな場所に機関の人間が潜り込んでいるため、かなり内密に登録を済ませることができるのだが、地方ではまだまだカバーできていない範囲が見受けられる。その分、金銭による口止め、という賄賂が機能しやすい。
 超能力と呼ばれる未知の現象の秘匿。
 機構の解明に向けた研究に欠かせない検体の保護と、国外への流出の阻止。
 それが監視の大義名分だ。
「先生は、これを、ボランティアで?」
「うん⋯⋯、慈善活動ということになるのかな」教授は曖昧に微笑む。「いや、やめておきましょう。僕が勝手に手伝っているだけで、そんな大それたものでもない。せいぜい、お節介なオッサンってところかな」
「ですが、実際、先生を頼って此処を訪れた方がいらっしゃるのは事実ですから」
「不思議な縁だね」四方田先生は腕を組む。「手助けは何度かしたよ。いやあ、人付き合いも馬鹿にならないね。はあるに越したことはない」
「しかし、どのようにして文書を偽造するのですか? あ、いえ、具体的な手法をお訊きしたいわけではなくて、言ってしまえば、国を欺いているわけですから、そのようなことが可能なのかと、どうしてもまだ驚きが⋯⋯」
「企業の不正な処理とか、国の文書改竄だとか、そういった罪で捕まる人は決して少なくない。もっとすごいものなんか、戸籍謄本の偽造や、偽造パスポートなんていう、物語のようなものが実際に作られたり、犯罪に使用されたりして、ニュースで耳にすることがあるくらいだからね。穴をつくことはできます」教授はそこで言葉を切ると、顔を少し傾けて、一瞬なにかを思案するような素振りを見せた。
「法の穴を⋯⋯、そうなると、かなり多くの味方が省庁に潜り込んでいなければなりませんね。それから、地方の市役所や、病院なんかにも⋯⋯」
「なんだ。わかっているんじゃないか」
「え?」教授の言葉に、素っ頓狂な声が零れ出る。
「僕は立場上、幸運にも、国のプロジェクトに関わることができた」教授は一定のリズムを取るように、会議机を何度か指で小さく叩いた。「脳信号の解析、という研究テーマがどうも買われたらしい。超能力という現象を解明したい⋯⋯、そういう、各国で展開されているプロジェクトだ。だけど、日本の研究が進んでいるとは言い難いね。公務員の超能力者から、特殊健康診断と銘打って手当たり次第にいろんなデータを引っこ抜いたはいいが、なにから手をつけたらいいのかがわからない⋯⋯、まさにそんな状態でね、進むものも進まない。当たり前だがね」
「公務員の超能力者⋯⋯」
「数はそう多くないが、公僕となる代わりに、身分とか、よその国や国際的な機関、もしくは、テロ組織とか⋯⋯、そういった不当な介入からの保護が保障されている。超能力者としては、ちょっと時間のかかる健康診断を大人しく受けてさえいればいいんだから、見方によっては好条件と言える」
 不穏な単語の繋がりだった。今、自分は、わかりやすく顔が強張っていることだろう。
 四方田先生には、公務員、それも超能力を持つ人間と接する機会がある。スタッフや他の研究者という周りの目や耳があるとはいえ、彼らとコンタクトを取るには充分な機会だ。
「ということは、彼らの協力のもと、書類や、手続きの⋯⋯」
「実際に手を貸してくれる人もいるし、なにごともなかったとして処理する、黙っている、という協力の仕方もある」
「そんなことがもし、もしも露見してしまったら?」私は意味もなく頭を横に振ることしかできなかった。「とんでもないことになります。いえ、私は、先生の志は素晴らしいものだと思っています。超能力を持つ人間の、私たちの立場は、そう遠くない未来に、簡単に崩れ去るでしょう。そのことを予見し、憂い、そして先生の手を借りて⋯⋯、きっと、その失踪はなによりも前向きな逃亡です。ですが、これでは、先生は⋯⋯」
「問題ありません。これが、僕が見つけだした僕という生命の意味、もしくは、僕が名づけた自分の名です。誰の人生も奪ったりはしない。囚われた罪なき民を、こっそりと盗み出した鍵で檻を開けて、解放する。ひとりの犠牲も出ないように」
「それでも先生は、犯罪者と呼ばれることになるのですね」
「生きている限り、誰もが常に罪を犯し続けています」四方田先生は一瞬の逡巡もなく口にした。