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 困惑を隠しきれずにいると、四方田先生は窓際を離れて机に向かった。紙の書類が溢れんばかりに積まれた、教授のデスクらしい。そこで、なにか捜し物をしているようだった。しばらく机を漁った四方田先生は、やがて書類の隙間からなにかを一枚引き抜くと、再び会議机に腰を下ろす。手にしているのは、彼の名刺らしい。
「すみません、あの⋯⋯、先ほどのお言葉ですが」
「そのままの意味です」そう答えて、教授は笑みを深めた。「君は運が良いね」
「運ですか?」あまりの困惑に、思わず眉根を寄せる。「申し訳ありません、でも、私には、なにがなにやらさっぱり⋯⋯」
「僕が言ったそのままです。僕たち人間が何者であるか、その答えについては、たしかに僕たち人間が知ることはない。だけど、君の疑問は、あくまで君自身が何者であるか⋯⋯、そこを間違えてはいけない」教授は会議机に両肘をつくと、指を組み、そこに顎を乗せた。「君、尾行されているね?」
「え?」
 私は驚いた。
 自分が尾行されていたことにではない。
 なぜ、四方田先生がそのことに気がついたのかが、わからなかった。
「どうして⋯⋯」
「そこに知らない車が停まっていてね」教授は少しだけ顔を背後の窓に向けた。
「ですが、大学の構内ですから、誰でも、或る程度自由に出入りできるのではありませんか? 先生がご存じでない車の一台や二台、停まっていてもなんらおかしくはないかと」
「生憎、僕は立場上、そういうものにはちょっとばかし敏感でね。ああ、大丈夫。君には、盗聴器の類はしかけられていないよ。安心してほしい」
「いったい、あの、四方田先生は⋯⋯」
「僕が何者かが、知りたい?」まるで、悪戯が成功した少年のような笑い方だった。「貴方と同じです。三宅さん」
 声を出すことも忘れていた。自分と同じ。その言葉が指し示すものは、おそらく、およそ初対面で披露すべきではない、最後まで伏せたままが好ましい一枚のカード。
 教授は、机に伏せていた名刺を此方に差し出した。
 恐る恐る手に取り、名刺を確認する。ごく一般的な名刺だったが、端のほうに、電話番号が手書きで書き加えられていた。
「証拠を⋯⋯、見せていただくことはできますか?」
「すぐにできます。でも、手品だと思われてしまうかもしれないね」そう言って教授は立ち上がり、腕を差し出して私の後方を指し示した。
 座ったまま背後を振り返る。しかし、目ぼしいものは扉だけだ。自分の座席は、教授室の出入口に最も近い。
「扉のすぐ傍に、電気のスイッチがあるでしょう」教授の言葉どおり、たしかに壁にはごく一般的なスイッチがある。
「まだ、充分に外は明るいですが⋯⋯」
「かまいません。そのスイッチを押してみてください」
 返事をする代わりに、立ち上がってスイッチに近づいた。
 スイッチの前で立ち止まり、手を伸ばす。スイッチに触れ、指先でスイッチの形をなぞった。スイッチを押す直前、教授の顔を盗み見たが、彼は機嫌良く微笑んでいるだけだ。それが、ほんの僅かに不気味だった。
 スイッチを押す。
 妙に重い感触が指先に伝わる。もっとも、それはおそらく、私の躊躇が過敏に感触を拾ったことによるものだろう。
 部屋の蛍光灯が、数度速い瞬きを繰り返したのち、正常に点灯した。もう一度スイッチを押せば、次はいとも容易く切り替わり、消灯する。
 教授は、私から数歩離れた場所で立ち止まると天井を見上げた。
「次は僕の番だね」
「タネもしかけもなさそうですね」
「僕の指を、ちゃんと見ていてください」
 教授と立ち位置を交代し、私はそこから彼の指を凝視した。教授がスイッチを切り替える。だが、部屋は消灯したままだった。そこからさらに、教授は軽快に何度もスイッチを切り替えてみせるが、部屋の明かりは一度も点くことがない。
「そんな⋯⋯」もう一度、自分がスイッチを押した。部屋の蛍光灯が、再び数度瞬く。「あの、これは何型に分類されるのですか?」
「おそらくⅡ型じゃないかな。僕は、実のところ⋯⋯、なんというのか、うん、登録されていなくてね。奇蹟的に、誰にも露見することがなかった。だから、もしかすると、国の診断をきちんと受けるとⅢ型になるのかもしれない。いや、まあ、たぶんⅡ型だ。少なくとも、Ⅰ型じゃあないだろうね」
「登録されていない?」その事実は、彼が自分と同じ超能力者であったことよりも衝撃的だった。「そんなことが有り得るのですか?」
「早い段階で自分の特異性には気づいていたし、どういうわけか電化製品をよく壊しがちなんだ、と冗談めかして自分から申告していたから、そういう人間なんだろうって、意外と周りは納得してくれたんだ。人間には、どうも、偶然というのか、任意の確率を引き寄せる磁力のようなものを持つ人間が一定数いるらしい、と信じたがる傾向がある。不思議な話だがね」
「では、先生の超能力、というのは⋯⋯」
「好きなときに雷を落とせる」教授は天井に向けて人差し指を立てた。
「まさか⋯⋯、そんなことが?」
「君の尾行がなければ、一発くらい、落としてみせてあげたかったな」
「つまり、電気のコントロールということでしょうか?」
「そうなるね。発電とか、帯電とか放電とか、まあ、そういったことがひととおりだ。だけど、電化製品が使えない。いや、完全に使えないものは電気のスイッチだけで、他はなんとか使えるんだけど、すぐに駄目になる。不便極まりないよ」
「それは⋯⋯、そうでしょうね」私は滑稽なほど真剣に頷く他なかった。
「でも、嫌いじゃない。実は結構気に入っているんだ。だって、生命という現象もまた、電気信号なんです。そう思うと、神さまにでもなった気分だ」四方田先生はそこで一度言葉を切ると、此方に右手を差し出した。「握手してみる?」
 反射的に手を伸ばし、握手をした瞬間、静電気が起こった。すぐに手を離す。どうやら、雷を落とす代わりのパフォーマンスだったらしい。
 教授が提示した幾つかのカードは、彼が自分と同じ超能力者であると確信するには充分だった。もっとも、この世にそういった疾患が存在する、という事実を知っている時点で、私の同類か、もしくは私を常時尾行している彼らの同類にはちがいない。
「君は?」四方田先生は私に訊ねた。
「言ってしまえば、念写です」
「念写? まさしく超能力じゃないか」教授は朗らかに言った。「羨ましいな」
「そうでしょうか⋯⋯、学校に通っていた頃はなかなか大変でしたよ。きっと、随分生意気な子どもだと思われていたでしょうね。なにせ、ペンを持っているだけで、板書など一度もしたことがありませんから⋯⋯、書いているふりだけです。隣の席の生徒に見られてしまうんじゃないかと怯えてしまって、念写で書くこともままなりませんでしたから、おかげで記憶力だけは妙に鍛えられましたが」
「君、画家になれたんじゃないか?」教授が真剣な表情で私の目を正面から捉えている。
「抽象画家になら、なれたかもしれません」
「絵は描けない?」
「輪郭のない、ぼんやりと滲んだ色が混ざりあっているようなものしか描けたことがないんです。どれほど強くイメージをしても、それ以上、はっきりとしたものが描けた試しはありません」
「なにかを思い浮かべるとき、それがどの程度具体的なイメージを持っていて、どの程度の細部までイメージができているのか⋯⋯、それをアウトプットできる、ということだね? 非常に面白いじゃないか。ああ、見てみたいな⋯⋯、君の絵なら、喜んで競り落とすよ」
「そんなもので良ければ、いつでもお描きしますよ」私はそこで、ようやく肩の力を抜くことができた。