1/二年前
私と四方田先生の出会いは、音もなく、気配もなく、とても自然に紛れ込んでいた。
「三宅さんは、どうしてこの分野に興味を持たれたのですか?」
案内された教授室には、私と四方田先生のふたりきり。
差し出された緑茶に口をつけながら、初対面で唐突に投げかけられたこの質問にどのように答えるべきかと思案していると、教授は人好きのする笑みを浮かべたまま「いやいや、申し訳ない」と朗らかに謝罪した。
「困らせるつもりはなかったんですが、いやはや、これではまるで面接ですね。どちらかといえば、今日は僕が答えるほうなんだけれど」
「いえ⋯⋯」小さな湯呑をできるだけ静かに置いた。「どのようにお答えしようかと考えていたところです」
「聞かせていただけるのであれば、大変嬉しいです」四方田先生が笑みを深めた。「興味深い」
「いえ、そんな⋯⋯、たいしたお話ではないのでお恥ずかしいのですが」
「どんなに些細なきっかけであったとしても、それは充分に立派な理由ですから」
「ありがとうございます」
教授は白いマグカップを片手に、机の上に置かれた私の名刺に一度目を向けた。その視線の動きを追いながら、慎重に言葉を選ぶ。
「私はもともと、文系の人間なんです。でも、昔から、興味と言うのか、憧れと言うのか⋯⋯、理系の科目に対して、少なからず関心はありました。ただ、絶望的に自分の頭がそちらに向いていないことは自覚していたので⋯⋯」
「研究に向いていない、ということかな」
「そうですね。仮に研究者としての道を進んでいたところで、半年も持たなかったと思います。でも、やっぱり、興味はありました。人間の、生命そのものの根源に、しかも直接的に関わる分野ですから⋯⋯、自分でなにかを研究して貢献することはできませんが、自分は自分なりの形でなにかしら携わることができればいいな、と」
「なるほど。そうでしたか」教授は、此方に笑みを向けた。「素晴らしいことです」
四方田先生の少しオーバな肯定の言葉に、私も曖昧な笑みを向けて答えとした。良い人なのだろうな、というのが、この短いやりとりで抱いた教授への印象だった。快活で、実年齢よりも若々しい。研究者ゆえの好奇心が、その若さを保っているのかもしれない。
四方田先生の専門は、一言で言えば脳の情報処理メカニズムだ。神経生理学や数理学、心理学を含む融合的な分野と言える。そして彼の興味は、脳がどのように形成され、どのように機能するのか。しかし、興味の先は、その解明によって発展する人工知能研究ではなく、あくまで人間そのものにあった。
だから、私は四方田先生にコンタクトを取った。
小さな出版会社の雑誌記者。それが私だった。本当に小さな出版会社で、扱っているのは生物系を中心とした自然科学分野という、特定の専門分野ばかり。本屋で出版社の名前を見つけることさえ難しい。
生物学は門外漢だが興味だけは人一倍ある、という一点張りで無理やり採用してもらったようなものだったが、幸い、文章を構築することは、大学で毎日のように課されたレポートの数々や卒業論文のおかげでそこまで苦ではない。地道な継続の甲斐もあり、今ではこうして或る程度自由に仕事ができるようになった。
言い換えると、私に許された自由とは、所詮、その程度のものだということだ。
「もう少し、具体的にお訊ねしても?」
四方田先生の問いかけに、意識が急激に掬い上げられる。慌てて返事をした私とは対照的に、四方田先生はどこまでもジェントルだった。こういう年の重ね方がしたい。随分とかけ離れた目標と実態の差が、恥ずかしさを助長する。
「具体的にというのは、興味のある分野について⋯⋯、ということですか?」
「ええ、そうです。僕の研究のどういったところに興味があったのかなんかも、教えてもらえると嬉しい。あ、いや、これは面接ではありませんから、簡単に、思いつくままで結構ですよ。そうお硬くならずに⋯⋯」
「すみません、どうも緊張してしまって⋯⋯」控えめに笑みを見せ、誤魔化した。「もし、間違っているところがあれば、遠慮なくご指摘いただけますか?」
「もちろんです。安心してください」教授が鷹揚に頷いた。
「先生のご研究は、人間の脳の理解を目指したものだと理解しております」
「とても簡潔に説明すると、そうなりますね」
「どちらかといえば工学よりも医学方面で⋯⋯、あくまでも、四方田研は、人間そのものを対象に研究をなさっています。私は、人間の脳が持つ可能性に興味があります。脳という不可思議な物体が、私たち人間を人間たらしめている大きな要因であることは間違いありません。私たちのすべてを司っているものが脳ですから、私自身が何者であるのか、その答えに辿り着く足かけとなるなにかに、出会うことができるのではないか、と」
「私たちが何者であるか、少なくとも、その問いかけについては、今お答えすることができます」教授が穏やかに言った。「私たちは何者であるか。その答えはこの世には存在しません。私たちが何者であったかを知るのは、私たちではない者です」
「ああ⋯⋯」曖昧に頷いた。「私の解答は、的外れでしたね」
「いいえ」教授は、私の目を正面から見据えた。「我々人間が何者であるか、その答えについては、たしかに、我々が知ることはないでしょう。何者として生まれたのか? そんな問いかけには、そもそも、意味がないんだ。我々は何者でもない。ただの生命でしかないのだからね。そこに、意味を見出すことに無理がある。意味、というのはね、誰かにとってのメリット、ということだ。誰かが、或いはなにかが存在を望み、生み出すことで、生み出されたものは意味を持つ。そう、たとえば、君が持っている携帯なんかは良い例ですね。携帯は、僕たちがどこにいても繋がることができて、よりこの世界を便利にするものを、と人間が望み、作り上げたものだ。だから、携帯には、我々を快適にするために生まれた、という意味がある。だけれども、人間が誕生したこと、地球が生まれたこと、宇宙が始まったこと⋯⋯、そんなものは、誰が望んだわけでもない。誰の意志もそこには介入しない。そうでしょう?」
「それでも、私は意味があると⋯⋯、いえ、私は、私が意味を生み出せると信じたいと思います。私が生まれたこと、先生が生まれたこと、人類が地球に誕生し、脈々と生命を繋いできたこと⋯⋯、たしかにこれらは意志も意図もない始まりだったかもしれませんが、私が自分を納得させるために意味を捜すことは、少なくとも私にとって、意味があることです」
「そうですか」教授は、あくまで穏やかに頷いた。
「あの、すみません、まとまってもいないのに⋯⋯、よくわからない答えになってしまって⋯⋯」
「僕は楽しいですよ」教授が微笑みを浮かべる。
やがて、四方田先生は椅子から立ち上がると、少し移動して窓辺に立った。後ろで軽く腕を組んだ姿勢で、窓の外を見下ろす。なにがあるのだろう、と自分も少し腰を浮かせてみたが、窓の一部が四方田先生に遮られていることもあり、よくわからなかった。
「こういう議論はね、僕、好きなんです。神経細胞と毎日睨めっこする仕事だから⋯⋯、いろんな人の、いろんな考えを訊くことは、僕のインスピレーションのためにも必要なものでね」
「ありがとうございます」
「おかげで、確信が得られたよ」
「確信?」
唐突な話の流れについていけず、思わず訊ね返す。
四方田先生は、窓際に立ったまま、此方に笑顔を向けた。
「君が何者であるか、という答えです」