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「それにしても、宇宙は平面であって、現実世界はホログラムだ、というのはかなり大胆な予想ですね。先生の仰るとおり、とても面白いと思います。しかし⋯⋯、学説として唱えられているからには、少なからず根拠が存在する、ということですね?」
「発端は、ブラックホールに関する或る理論だったそうです。ブラックホールのような特殊な状況下において熱力学法則を崩壊させないためにはどう解釈すればよいのか⋯⋯、と考えたときにね。ブラックホールは、ほら、光さえ逃がさないでしょう。超新星爆発を起こした星が、自身の内部に向かって収縮し続けることで超高密度に圧縮されてしまった天体、とでも言うのかな。だから、いかなる物質も、光でさえも一度取り込まれてしまうと、外側に出ることはできないんだけども、たとえば、そうだね、君が宇宙遊泳をしているとする。なかなかに楽しんでいたんだけれど、君はそこで、ブラックホールを見つけてしまうんだ。そしたら、君は急いで離れようとするね。このとき、ものすごく遠くから見つけたのであれば、君はどうにかして距離を取ることができる。では、一体、どこまで近づいたときに、君はブラックホールから逃げられなくなるのか? この境目を、事象の地平と呼ぶ。イメージとしては、そうだね、球状の面だ。ここまでは、伝わっていますか?」
「ボールの表面が地平で、ボールの内側がブラックホールということですか?」
「そのイメージでかまいません」僕は頷いた。「ボールの内側は、僕たちの見ることができない領域、ということです。なぜって、その事象地平に触れてしまった瞬間、僕たちは二度と外に出ることができなくなりますからね。これを、事象地平の内側を観測させないための機構ではないかとする解釈もあるんだとか」
「観測? ああ⋯⋯」三宅は小刻みに頷きながら目を見開いた。「先ほど、観測者が大事だと仰ったのは、まさか、いずれ私たちがこの話をすることを想定されていたのですか?」
「いえいえ、まさか⋯⋯」僕は、思わず苦笑する。「そういうわけではなくて、僕がこの話をしたかっただけなんです。ずっと誰かに話したかったから、つい前のめりに、そんなことを口走ってしまった」
「でも、そうなると、観測できないものごとは、存在していないことになりませんか?」三宅は眉を僅かに寄せた。「まさか、そんなことはないでしょうし⋯⋯」
「そういった説もありますよ。此方も、そう、やはり現実世界とはコンピュータゲームのようなものだと考えています。僕が今、そのコンピュータゲームの中に立つキャラクタだとする。僕は今、この部屋の中と、三宅さんだけを見ている。だから、出力する必要があるものはこれだけです。僕が後ろを振り向いたときに、窓を表示して、窓の外の景色を表示する。或いは、僕が研究室の扉を開けて出る瞬間に、計算して、廊下を表示して、廊下を歩いている学生を出現させる。ローコストだよね」
「なんと言いますか⋯⋯、意外となんでも有りなんですね。やはりどうしても、直感的には有り得ないと思ってしまいますが」
「天ではなく地球が動いているのだとコペルニクスやガリレオが述べたときと、たいして変わらないのでは?」
「ええ⋯⋯、そうかもしれません」
「君と僕は、今、お互いを観測しあっている、ということですね。だから、僕を中心に描写される世界と、君を中心に描写される世界は、ちょうどベン図のようになっていて、それがいくつもいくつも重なり、広がっていくわけだ。だから、常に世界が維持されていて、常にどこかではなにかが存在している、という状態が生まれているのではないかな」
「ベン図って、懐かしいですね。あれですよね、数学の?」
「そうです。君を中心とした円と、僕を中心とした円があって、この研究室は、ふたつの円が重なっている部分に当たる、ということだね」
「じゃあ、たとえばですが、世界中の人間が一斉に眠りにつけば、世界は存在していないことになる、ということになってしまいませんか? それは、感覚的に、うーん、やっぱり⋯⋯、ちょっと手放しには受け入れがたいですね。それとも、観測されないものは、存在していないのではなくて、存在していないことと同義になる、ということでしょうか」
「存在していないという処理が成されるというのか、まあ、存在という定義がいかに曖昧なものかというのが、よくわかるでしょう」
「ええ⋯⋯」三宅は弱い笑みを見せた。
「存在の本質とでも言いましょうか⋯⋯、それが二次元空間にある、というのが始めにご紹介した学説だったわけです。この突飛な予想は、ブラックホールやワームホールなんかと、それから、量子もつれといった、やはり突飛で不可解極まりない現象と深く関わっています。僕なんかは、結構、この学説は有りなんじゃないかと思うけど。なんというのか⋯⋯、物語としても面白いでしょう」
「物語ですか?」
「君、グラフを書くときって、どんなグラフを書きますか?」
「え? グラフというのは、その、XとYの⋯⋯」
「そう、数学の授業なんかで何度も書いてきた、あのグラフです。あ、もしかして、君はグラフも念写しなければならないのかな?」
「僕にとっては、念写することが、書くという行為です」
「ああ、それならば問題ありませんね。良かった」
「それで⋯⋯」三宅は手帳を持ち、視線を落とした。名前が書かれた隣のページに、プラスの形に交わった二本の軸と、X、Yの文字、それから、中心に数字のゼロが書き出された。「グラフって、これですよね?」
「あ、三宅さん、軸にはちゃんと矢印を⋯⋯」
「すみません」三宅は慌てた様子で、二本の軸に矢印を書き足した。「これで大丈夫ですか?」
「数学はあまりお好きではありませんでしたか?」
「好きどころか、いちばん苦手な教科です」
「じゃあ、君は数学の授業なんかで、虚数という存在に疑問を感じたことはない?」
「疑問しか感じたことがありませんよ」三宅が笑った。
「僕もね、虚数以前に、マイナスの意味が理解できなくて、数学はずっと苦手でした。引き算はわかりますよ。でも、答えがマイナスになる引き算の意味がわからなかった。五つある林檎から六つの林檎を引けば、ゼロになるに決まっているだろうと思っていたんだけれど、実際はそうじゃなかった。マイナスにマイナスをかける、という意味も理解できなかったね。でも、ここでいう理解できない、というのは、この現実世界において実行ができない動作である、ということだ。林檎は五つしかないのに、六つ目の林檎なんてどこから出現させるつもりなんだ、とか、林檎ひとつ分が存在していないからって、まるで空間を林檎ひとつ分だけ抉る気か、とかね。だから途端に、直感的に理解ができなくなる。でも、数学の世界では、君が先ほど書いてくれたように⋯⋯」そこで、三宅の手帳に書かれたグラフを指差した。「当然のように、マイナスの世界を書くことができる。プラスがあればマイナスがあるんだ。世界というものはね、相反するものが必ず在る。それらが常に拮抗していて、バランスをとっている状態で保たれているんです。じっとしているんじゃない。常に動き回っているんだ。動き回って、衝突して、そしてどうにかバランスを取ろうとして、ずっとふらふらとしている。ブラックホールとホワイトホール、ド・ジッター空間と反ド・ジッター空間、電子と陽電子、粒子と反粒子、相反する性質、相対する存在、しかし、互いがいなければ互いに存在ができない概念。物体。性質。ならば、これらを包括するものはなにか? これらすべてを記述するものだ。それこそ、古来から人々を魅了してやまない神さまさ。つまり、神さまは平面だったんだ。そう⋯⋯、紙だけにね」