(5,2)

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 昼休み、廊下での出来事だった。
 多くの生徒でごった返す廊下はとんでもなくやかましい。思考の断片が止め処なく流れ込み、混線した音声が脳を支配する。近くにいる人間の思考ははっきりと聞こえるが、距離が開くにつれて声は小さくなる。すれ違うたびに、さまざまな高さの声が近づいては遠ざかる。その繰り返し。そこかしこから、ひっきりなしに飛び交い、覆われ、侵食して終わりがない。
 ようやく人混みを抜けたところで、突然、脳が一瞬浮遊したような奇妙な感覚に襲われた。咄嗟に支えを求めて腕を伸ばすが、廊下の真ん中に支えになるものなどあるはずもない。その場に膝をつき、躰を支配する緩慢な揺れを鎮めようとして目を瞑った。
 断片的な声が周囲を埋め尽くしていたが、留まることはなかった。
 目を開けると、白い手のひらがあった。
 咄嗟に顔を持ち上げる。
 目の前に、ひとりの女生徒がいた。耳の下で結われた二束の黒い髪と、幼い印象を抱く目許。目が合う。数秒後、彼女は小さく首を傾げた。
 もう一度、彼女の手に視線を向ける。
 そこで、ようやく、恐ろしい異常に気がついた。
 声がしない。
 こんなにも傍にいるのに、なにひとつ、この女からは聞こえてこない。
 放心したまま動けない俺を見て体調が悪いのだと勘違いしたのか、女は差し出していた手を一度引っ込めると、彼女の斜め後ろを控えめに指差した。その方向に、保健室がある。彼女はまた首を傾げた。しかし、小さな口は一度も動かない。唇は閉じられたままで、声を出している様子もない。
 それでも、必ず思考はしているはずだ。
 聞こえないはずがない。
 俺はその場に立ち上がり、学生服のポケットから筆談用のメモ帳を取り出した。久しく使用していなかったことを、このときに思い出した。ボールペンで適当なページに殴り書き、急いで紙を引き千切る。女はその間、不思議そうに此方を見上げていた。
 紙を渡す。
 彼女は受け取ると、周りを確認するような素振りを見せた。そして、少しだけ紙を開き、覗き込むようにして首を傾げる。
 渡した紙には、たった三文字。
『何型?』
 それを見た少女が、AでもBでもOでもなく人差し指を立ててみせたとき、疑惑は確信に変わった。
 だが、その後すぐ、先ほどよりも大きな揺れを感じた。自分の躰が揺れているのだと気がついたときには既に廊下に倒れ込んでおり、教師たちによって保健室に搬送された。診断の結果は、貯金のために毎日昼食を抜いていたことと、適当な食事を続けていたことによる低血糖と栄養不足だった。
 それからというもの、自分の隣にはいつも彼女がいた。
 わざわざ購買で食べもしない唐揚げを買ってきては俺に差し出し、何度も無理やり食べさせようとしてくるので、ついに自分も昼食を買うようになってしまった。他にも、彼女の協力により正確な五十音の発音を覚えたことで、筆談や手話だけではなく声を出して会話ができるようになった。ただし、響子曰く、「ちょっと治安が悪そうな言葉づかい」らしい。それもそのはずだろう。思考の声というものは愚痴や苛立ちといった内容であればあるほど、はっきりと強く聞き取れることが多い。響子に教わる前から、そういった語彙やフレーズだけは流暢に口にすることができた。
 彼女はそれを、ときどき窘めるように注意をしながらも、表情はいつもどこか少し嬉しそうだった。
 彼女はよく喋った。しかし、二階堂響子という少女は発声ができない。家を一歩でも出たそのときから、彼女は一言も『声』を発することが許されていなかった。だからこそ、会話ができる貴重な相手を見つけて嬉しいのだ、と彼女は何度も言葉にした。
 自分にとって、彼女の隣という場所はまさに安息の地だった。学校という煩雑な空間の中で唯一の、と言っても差し支えない。彼女が発する明瞭な『音』が心地よかった。神経細胞が撒き散らす雑音が濁流のように流れ込み、誰にもぶつけられずに行き場を失った過剰な負の感情が忙しなく飛び交う平時からは考えられないほど、静かで、神聖ささえ覚えるほどの鮮明さ。
 お互いにとって、お互いの存在は都合が良かった。
 放課後はアルバイトでほとんど予定が埋まっているため、登校時間と昼休みを彼女と共有した。電車で通学している響子のために、学校の最寄り駅で落ち合ってから登校するようになった。それは今も続いている。彼女は毎日、飽きもせず、ひとりでべらべらと頭に語りかけてきた。
 しかし、引っ込み思案で大人しい、少女然とした口がきけない女と、薄い色素の髪と瞳、常にイヤフォンを装着し、制服を着崩している不良然とした耳が聞こえない男という組み合わせは奇妙以外のなにものでもない。実際に、まことしやかにありもしないさまざまな憶測が囁かれることとなった。だが、響子本人は、化学の授業で実験のペアを組むべくまっすぐ俺のもとに向かってきた程度にはけろりとしていた。
 五限目、六限目の授業が終わったことを確認して、自分はようやく第二音楽室をあとにした。誰もいない、静寂に包まれた旧校舎三階の渡り廊下を抜けて、新校舎に足を踏み入れる。教室に近づくにつれて騒音が音量を増していった。教室の扉を開けると、教壇に立っていた担任が一度だけ此方に目を向けたが、ついに注意を諦めたのか淡々とホームルームを続けている。生徒の多くも、既に此方への興味を失っていた。前のほうに座っている響子だけが控えめに振り向いて、わかりやすく口許を弛めた。
 数分後、ホームルームが終わり、生徒たちは次々に教室をあとにする。自分も立ち上がり、特に荷物の入っていない鞄を肩にかけたところで、目の前で響子が立ち止まった。
 今日は珍しくアルバイトがない。午後の授業をサボったにもかかわらずホームルームに現れた俺を見て、響子はそのことに気づいたのだろう。どうして俺と下校まで共にできることがそこまで嬉しいのかわからないが、機嫌良く微笑みながら俺を見上げている。
 彼女と一度目を合わせてから歩き出す。響子もすぐに歩き始めて、当然のように隣に並び立った。
 校舎を出て、学校の敷地沿いを歩きながら駅に向かう。
【あの、今週の土曜日とかって、お休みだったりしませんか?】その道中、唐突に響子が訊ねてきた。【ちょっとややこしいことになってしまって、申し訳ないんですけど⋯⋯】
「ややこしいこと?」あまり響子の口から聞かない類の言葉に、眉を顰める。
【実は⋯⋯】彼女は少し肩を竦めて背中を丸めると、恐る恐るといった様子で語った。【五十嵐くんのこと、お母さんに知られてしまって⋯⋯、あ、でも、友達ができたってことだけで、超能力のことは言ってません。気づかれてないはずですし、そこは大丈夫です。ただ、私が最近、よくひとりで笑ってるのを不思議に思ったらしくて、問い詰められてしまって⋯⋯】
「お前、家でひとりで笑ってんのかよ」
【そこじゃないです、拾うとこ】
「面倒くせえ」
【ごめんなさい、でも、どうしても⋯⋯、お願いできませんか? お友達に会いたいから家に連れてきなさいってお母さんもしつこくて、何度説明しても折れてくれなくて、だからもし、一瞬でいいので、家に来てくれたりとか⋯⋯】
「大体、それ、顔見せで済まねえだろ」
【そうなんですよねえ⋯⋯】困ったように眉を下げた響子は、不意に、思いついたと言わんばかりに目を見開いた。【あ、そうですよ、その日はいっしょに外出する予定だってことにして、五十嵐くんが私の家まで迎えに来るっていうのはどうですか?】
 言いたいことはいろいろあったが、どれも、言葉にするよりも面倒くさいというエネルギィがまさってしまい、大きく溜息をつくに留まる。
【嫌ですか? 外出⋯⋯】
「そこじゃねえわ⋯⋯」意味もなく口を開け、舌先で前歯の裏をなぞった。「いや、そこも嫌だな。なんで休みの日にまでわざわざやかましいところに出向かなきゃなんねえんだ」
【動物園でもいいですよ。もしくは水族館】
「どっちもトップクラスでうるせえだろ」
【え、五十嵐くんって、動物とか魚の声まで聞こえるんですか?】
「人間」
【あ、そっか⋯⋯、いっぱいいますもんね、お客さん。当たり前か⋯⋯】響子はしばらくひとりで唸ったあと、また顔を上げて此方を見た。【じゃあ、五十嵐くんが行きたいところに行きましょう。それと、私のせいでご迷惑をおかけするわけですし、お昼は私の奢りです。どれだけ食べてもいいですから⋯⋯、ね、これでどうですか?】
「奢りねえ⋯⋯」
 翌日、急遽シフトが変更されたことで日曜日の予定が空いてしまうことになるとは、このときはまだ知る由もない。