1/十月十三日
目は見える。だから、文章は読める。それと同じ。耳が聞こえない。だから、思考を聞くことができる。そういう、早期発見型の、典型的な超能力だった。
超能力。或る能力を失った代替として補完される、いまだ原理不明の病状のひとつ。
その中でも、自分はⅠ型に分類される先天性機能欠損症候群の患者である。つまり、生まれつき聴力を失っている代わりに、思考を聞くことができる超能力者。
音として聞こえてくる思考というものは、言葉になる前の断片的なものであり、イメージとして思い浮かべた映像から漏れるノイズのようなものだ。およそ文章としての機能は保たれていない。保たれていたとしても、それは内面で繰り広げられる罵詈雑言や愚痴、或いは口に出すのも憚られるような妄想に尽きる。当然、自分の知識や語彙もそちらに偏る。今、目の前で何事かを熱心に喋っている女が、俺に対してことあるごとに「口が悪い」と指摘するのもそのためだろう。自分ではどうにもできないのだから仕方がない。せめて自分も、耳を塞げばなにも聞こえなくなってほしかった。
超能力とは、不自由さの象徴であるとさえ言える。
【私の話、聞いてますか?】
「聞いてねえ」
【それなら、もう少し悪びれてください】頭の中に、彼女の声が静かに響く。【あの⋯⋯、いつも言っていますけど、べつに、無理をして私に付き合う必要はありませんよ】
窓の外に向けていた顔を正面に戻すと、少し俯いた女子生徒の頭が見えた。切り揃えられた彼女の髪が、まろやかな頬や伏せがちの目許を擽っている。主張のなさそうな、穏やかな外見の少女。落ち着いた雰囲気を纏っているが、艶やかな黒髪は両耳の下で結わえられており、少々幼さが感じられる。
「俺がそんなお人好しに見えるか?」
【わりと】
「そうかよ」ビニル袋から惣菜パンを取り出し、袋を開ける。「聞いてやるから、もっぺん話せ」
【ほら。やっぱりお人好しですね】拗ねたような口振りから一変し、表情もわかりやすく緩められた。【えっと⋯⋯、そう、さっきお話していたのは、四限目の授業のことなんですけど】
「四限目? ああ⋯⋯、あのオッサンか」大口を開けて欠伸を零した。「今、どの辺やってんだ」
【先ほどの授業は、化学です。モルとか、濃度とか、反応式とか、そういう計算ばかりでした。四限目は教室にいましたよね? 黒板も見てないんですか?】
「まだそんなところか」適当に相槌を返してから、手に持っていたパンに齧りつく。
【そのときに、質量保存の法則のお話が出てきたんです。たしか、質量保存の法則って、化学変化が起こった前と後で物質の量は変化しない、という法則なんですよね? 原子は新しく生まれたり勝手に消えたりしない、という法則で⋯⋯】
「そうだろ」
【それって少し、可笑しいと思いませんか】
パンを咀嚼しながら、なにが、と目だけで訴えると、彼女は少し身を乗り出した。その拍子に、セーラー服のタイが彼女の小さな弁当箱を掠める。汚れるぞ、という意味を込めて指で示すと、彼女はタイを押さえながら座り直した。
【だって、それなら、人間の数が増え続けているのは変じゃないですか?】
「あ?」予想の斜め上からの質問に、まだ呑み込むつもりのなかったパンが勝手に嚥下された。「それ、質量保存の法則と関係あるか?」
【それに、いなくなった人の質量はどこにいってしまったんですか?】
「燃やされた灰がそいつの質量なんじゃねえの」
【それだと、人間のサイズ感と全然釣り合わないですよ】
「燃えたときの気体も含めりゃ一致するだろ」パンを片手に持ったまま、紙パックのカフェオレにストローを刺した。「前に、授業でそんな実験があった」
【今の、見た目を裏切る賢そうな発言ですね】
「悪かったな」カフェオレを一口飲む。それから、意味もなくストローを嚙んだ。「大体、ありゃあ、お前がわざわざ俺とペア組みたいとか言って、無理やり俺を授業に引っ張り出してやらせた実験だろ」
【五十嵐くんと実験したのはもちろん覚えていますよ。でも、実験の内容なんて忘れてしまいました。五十嵐くんの前髪をガスバーナで燃やしそうになったときのことなら覚えていますけど】
「そういう余計なことばっか覚えてやがる⋯⋯」
俺が口を閉じると、教室は一瞬で静寂に襲われた。
旧校舎、三階の突き当たりにある第二音楽教室に俺たちはいる。新校舎に新しい音楽室ができてから、この教室は使われなくなった。教室には常に鍵がかけられているのだが、隣の準備室の鍵は壊れており、そこから教室に入ることができた。
いつも、昼休みはこの教室で過ごしている。そうでもなければ、傍目から見ると、ずっと黙りこくったままの優等生然とした大人しい女生徒を前に、そこそこ大きな独り言を呟き続ける男、という不審な図になりかねないからだ。
彼女は、弁当を食べる手をすっかり止めて悩み込んでいる。机の木目でも数えているのかもしれない。
【でもそれだと、やっぱり変な感じがします。それじゃあ、地球ができた頃よりいろんなものがどんどん増えてしまいますよね?】
「お前の目の前のそれ」
【え?】彼女は顔を上げた。【なんですか? 五十嵐くんですか?】
「俺じゃなくて、そっちだ、そっち」
【お弁当?】
「俺らが成長するには、肉やら野菜やら食わなきゃいけねえんだろ。そしたら、俺らの図体がでかくなる分、動物や植物は減ってるはずだ。生まれる前も、腹ん中で栄養は摂ってるしな。実際、人間が増えすぎて食糧難になってるってことは、食糧側が減ってんだから、人間が増えてもトータルはプラマイゼロになるんじゃねえの」
【あ、そうか】彼女は目を見開いた。丸く大きな黒い瞳が、蛍光灯の光を取り込む。【すごい、五十嵐くん、もしかして天才なのでは?】
「お前が俺よりバカなだけだ」
【そういう悪口は良くないと思います】
「生きていくだけでいろんなエネルギィが要る。人間が増える分、そっちがどんどん減ってくわけだから、トータルは変わらねえし、地球は最初からずっと、元々持ってるだけの資源で今までやりくりしてきたってことだろ」カフェオレを飲み、紙パックを机の上に置く。「おい、響子。んなことよりさっさと食え。お前、ただでさえ食うの遅いのに⋯⋯」
【わかってます】彼女は箸を持ち直して、食べかけの卵焼きを口の中に入れた。
彼女の声は、一度たりとも空気を震わせることはない。しかし、耳が聞こえないはずの俺が、文字を音として正確に理解できるようになったのは、彼女と出会ってからのことだった。
二階堂響子もまた、不自由さを代償に新たな不自由を得た超能力者である。