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 カップをデスクに置いたあと、自分の右手がいつの間にか胸ポケットに伸ばされていた。無意識のうちに煙草を取り出そうとしていたらしい。
 一度、煙草のパッケージの、蓋の角を指でなぞる。
 彼女の視線が資料ファイルに向けられていることを確認してから、努めて冷静に腕を下ろした。
「でも⋯⋯、その、超能力者は同じ仲間を見分けられることと、被害者の少年の首に付着していた指紋の件がどう関わってくるんですか?」
「そういえば、そんな話だったね」足を広げて、椅子の背もたれに躰をゆっくりと預けた。「さて、説明したところで君が記憶していられるかどうかも怪しいが⋯⋯、まあいいだろう。君、お姉さんは?」
「いえ、姉はいません。兄はいますけど」
「先ほど君は、この被害者の少年には姉がいる、と口走ったんだ。もう忘れているだろう?」
「なんの話かよくわかりません」彼女はまた眉根を寄せて、先ほどと同じ問いを繰り返した。「どういうことですか?」
「これはあくまで俺の仮説だが⋯⋯」腕を伸ばし、デスクの上に放り投げられていたボールペンを手に取る。「超能力者は、他の超能力者の影響を僅かに受けにくいのではないか、と俺は推測している」
「他の超能力者の影響、ですか」意味がわからない、と言いたげな声音で彼女は復唱した。
「たとえば俺の、己の躰ひとつで発火できる、という超能力。これには、他人の存在の有無は関係ない。君がいてもいなくても、俺の周りで誰がなにをしていようと、俺は火を出すことができる。自己完結型の超能力、というわけだ。他方、他者がいなければ発動しない超能力、というものもある。念話とかがわかりやすいかな。頭の中に直接喋りかける、という超能力があったとしよう。これは、会話する相手がいないと発動できない。他者の存在が必要だ、ということ」
 ボールペンを一定間隔でノックをしながら、自分の頭の中を整理するように、慎重に言葉にしていく。
「そこまでは、まだ理解できます」
「うん、そういった、他者に影響を与えるタイプの超能力に対して、超能力者は少しばかり抵抗できるんじゃないかな、というのが俺の仮説だ。たとえば、たとえばだよ。この事件の加害者が超能力者だったとする。そしてその超能力が、他人の記憶に影響を与えるものだったとしよう。そうすると、超能力者ではない君は、犯人についての情報を瞬く間に忘却してしまう。しかし仮に、超能力者が他者の超能力に対して、抵抗というのか、なんらかの耐性のようなものがあるとすると、超能力を保有する俺は、完全に記憶を失うことはない。ほんの僅かに、君より覚えていることができるかもしれない⋯⋯、その証拠が、先ほど君が口走った『お姉さん』という単語だ」
「あ、それじゃあ、記録しておけばいいんじゃないですか? たとえば、メモしておいたり、録音しておけば⋯⋯、そしたら、忘れてしまっても思い出せるかも」
「無理だよ」
「どうしてですか?」
「もしもこれが記憶に影響を及ぼすたぐいの超能力だとしたら、メモや録音の形で記録したものも、すべてこの世界から消去されるのがオチだろうからね」
「世界から?」彼女は声を潜めて言った。「なんか、それ⋯⋯、大袈裟すぎません?」
「いや、そう大袈裟な話でもない。さっき、超能力の原理は解明されていない、と説明しただろう。それはつまり、我々の能力が、この世の物理法則に反する現象だからだ」
「なにもないところから火を出すのは、物理法則違反なんですか?」
「そういうこと」ボールペンのノックを止め、デスクの上に置いた。「どんなに大きくて、どんなに分厚い障害物があったとしても、自分の躰ひとつでその向こう側を透視できるのだって、現代の科学技術では到底再現できない。そう、再現不可能な能力なんだ。しかし、どういうわけか、超能力者はそれを再現する。仕組みもわからないままに再現できる。だから、己の存在を記憶させない、という超能力があるとすれば、それは物理法則を超えて世界に働きかけると思うんだ。そう仕組まれているからね」
「そっちの仕組みがいちばんの超能力って感じしますけど」
「君はそうでも、俺からしてみれば、コンロのつまみを回せば火が点いたり、マッチを擦れば燃えたりするほうがよほど理解しがたい。それこそ超能力だよ。俺にはできないことを、君たちは当然のようにおこなうことができる、という意味でのね」椅子の背にもたれて、デスクの下で足を組む。椅子が僅かに軋む音がした。「俺と君とでは、適合する世界が異なっている。もしかして、適合という言葉の使い方が少しまずいのかな。でも、超能力というものは、この世界におけるイレギュラであって、異端であることは、君も受け入れやすい事実だと思う。そうなれば、俺たち超能力者はまさしく異分子だ。異分子同士、お互いが同じ異分子であることをなんとなく感じ取ることができるのも、同じ世界を見ている者同士だからなのかもしれない。君と俺が見ている世界は、同じひとつの世界であるはずなのに、全く異なったものを見ているだろう。君は今、なにを見ている? 上司と、そして、ボールペン? それとも捜査資料? 俺は今、君を見ている。それから、デスクに置かれた君のコーヒー。そう、君が今見たもの。けれど、その見え方だって違う。君がカップの中の黒い液体を見ていても、俺はその間、カップの取っ手を見ている。同じものを見ていても、膨大な情報量の中からピックアップし、注目するものが異なる。結局は、脳が処理する情報の取捨選択の一致度合いが、俺と君の間を線引きしているんだろうね。ところで、その事件の犯人についてだけど⋯⋯」
「犯人?」口を挟むことなく此方の話を聞いていた彼女は、不意に眉を寄せた。「なんのお話ですか?」
「いや、俺の勘違いだったみたいだ」頬に力を入れて、彼女に笑みを向ける。
「係長⋯⋯、あの、それよりも、今のお話ですけど」
「うん?」
「たしかに、私と係長じゃ、同じものを見ていないと思います。だってこないだも、私がオレンジ色だって何度説明しても、係長は黄色だって言って聞かなかったですもん」
「あったね、そんなこと」
「でも、そうやって、お互いに見えているものを伝え合うことはできます」
「完全に伝え合うことはできないよ」
「そりゃあ、当たり前じゃないですか」彼女は不満げに口を尖らせた。「私なんて、そもそも、自分のこともいまだによくわかっていませんよ。過去の自分ともしょっちゅう意見が食い違ったりするんだし。でも、そうじゃなくて、なんだろう、どうせわかりっこないって決めつけるのも、そう決めつけられるのも、少し、寂しいじゃないですか。わからないから知りたいというか、わからないままでいいから、なんというか⋯⋯」
 彼女は言葉を捜すようにして俯きながら、一瞬、マグカップに視線を向けた。
 自分も釣られて、彼女のマグカップを見る。
 並々と注がれた黒いコーヒーに、もう湯気は見えない。
「ああ、なるほど⋯⋯」マグカップを見つめながら、全身から少し力を抜いた。「それで、質問攻めとブラックコーヒーってわけか」
「え?」
「つまり、これが君のやり方なんだろうね。いや、うん。若いと苦いは、やっぱり似ていないと思うよ」
「なんの話ですか?」
「どちらかと言えば、若いと眩しい、だな」
「全然似てませんよ、それ」
「拒絶したつもりはなかったんだ」
「はあ⋯⋯」
「とりあえず、冷めてしまう前に飲んでみたら?」
「あ、そうですね」彼女はマグカップを両手で持ち、カップを慎重に傾けた。数秒の沈黙。「うわっ、なにこれ、苦い!」
「どう? この美味さが理解できそう?」
「できませんよ、こんなの」彼女は顔を歪めて舌を出した。「でもまあ⋯⋯、煙草には挑戦できなくても、ブラックコーヒーなら、一度くらいはって思っていたので」
「へえ」
 相槌を打ちながらその場に立ち上がり、コーヒーメーカが置かれた棚に向かった。一度彼女に声をかけられたが、それには答えず、コーヒー用のミルクとシュガーを鷲掴む。
 振り返ると、両手でマグカップを持ったまま薄く口を開けて、大きな目を何度も瞬かせながら此方を見ている彼女と目が合った。
「そうだな」手にしたミルクのカップとシュガーを、軽く振ってみせる。「たしかに、一度くらいは悪くない」