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     3

 彼女は捜査資料を両手で持ち、真剣に目を通し始めた。カップは、一度も口がつけられていないまま脇に放置されている。魅力的な黒い液面がカップの中で揺れていた。甘党な彼女にとって、ブラックコーヒーを飲むというのはかなり無謀な挑戦である。どうせならば、冷めないうちに飲んだほうがいい。しかし、そのアドバイスは心のうちにとどめておき、彼女の様子を眺めながらコーヒーを飲むことに徹した。
 数分後、彼女はようやく顔を上げた。
「被害者の男の子、なんか、変わった名前ですね」
「寺の生まれだそうだからね」
「なるほど⋯⋯」少々上の空で彼女は頷いた。「廿六木さんもなかな珍しいというか、初見では読めませんでしたけど⋯⋯、あれ、お姉さんがいるんですか?」
「うん?」
「あ、いや、私の勘違いでした」彼女は片手を意味もなく左右に振った。「ところで、この事件、超能力者なんてひとりも出てきませんよね。どうして私たちの担当事案になったんですか?」
「そこだよ」自分のカップを持ち上げて一口飲む。「まさにそこだ。君もおかしいと思ったとおりね」
 ファイルをデスクの上に置くよう、彼女にジェスチャで伝える。彼女はすぐに意図を汲み取り、ふたりの間に捜査資料を広げて置いた。
「この事件には被害者しか登場しない。被害者の少年は小さな寺の生まれで、昔から躰が弱かった。入退院を繰り返していたらしいね。なんでも呼吸器系の疾患だったらしいけど、あまり長くは持たないだろう、と言われていた。その少年が或る日突然息を引き取ったときも、初めはその病気のためだと思われていたけれど、首には扼痕⋯⋯、つまり、手で首を絞めた圧迫の痕が残っていた」
「第三者に殺された、ということですね」
「だが、少年が抵抗した様子はまるでない」捜査資料のページをめくり、該当する項目を指差した。
「普通は、首なんて絞められたら慌ててその手を引き剥がそうとしますから⋯⋯」彼女は首を絞められている被害者の役を控えめに実演しながら、大きな独り言を口にする。「自分の首に自分の爪痕がまるで残っていないということは、この少年には抵抗ができなかった、ということですね」
「抵抗するだけの力が残されていなかったのか、或いは⋯⋯」
「或いは?」彼女は眉を寄せると、器用に眉尻をつり上げた。「他に、なにか可能性がありますか?」
「そう、たとえば、これは少年による自殺だった、とか」
「自殺?」
「自分で自分の首を絞めるにも限度がある。どうしたって躊躇ってしまうものだ。だから、第三者に頼んだ。僕を殺してくれ、ってね」カップをデスクに置き、頬杖をつく。「それから、もう一点。まだおかしな点があるはずだ。わかる?」
「少年の首から採取された、正体不明の指紋ですね」彼女がすぐに答えた。
「そうだ。皮膚から指紋が採取できるようになるなんて、技術の進歩というのは恐ろしいな。もっと早く検出方法が確立されていれば、苦労せずに済んだ事件がどれほど⋯⋯、ああ、とにかく、今は姿なき殺人犯だ。いや、もしかすると嘱託殺人なわけだが、まあ少年の命を奪ったことに変わりはない。ほら、気になるだろう」
「でも、少なくとも指紋に関しては、気になるもなにも、まだ発見できていないだけだと思うんですけど。この指紋、病院の関係者とご両親の中には該当者がいなかった、というだけですよね?」
「我々の捜査が足りていないだけだ、と言いたいんだろうが、それはないね」
「え、どうしてですか?」
「だってこれ、被害者の指紋だから」
「は?」
 彼女は素っ頓狂な声を上げた。とても珍しい表情をしている。頬杖をついたまま、思わず笑ってしまった。
「は、え、なに? どういうことですか?」彼女は矢継ぎ早に訊ねる。「被害者の首に、被害者の指紋がついていたんですか?」
「正確には、完全な一致ではない。でも、そうだな、ほぼ完全に一致している。それこそ、一卵性の双子でもなければ有り得ない精度でね」
「でも、被害者の少年に兄弟はいませんでしたよね? ほら、見てくださいよ、この資料にだってそう書かれていて⋯⋯」
「君はさっき、なんて言った?」
「え?」彼女はファイルから顔を上げた。「さっき、ですか?」
「捜査資料に初めて目を通したときだよ」カップを手に取る。「お姉さん、と口走っただろう」
「私、そんなこと言いましたっけ」訝しげに彼女は眉を寄せた。
「ああ⋯⋯、やっぱり、もう記憶がないか」
「いったい、どういうことなんですか」
 彼女はデスクに片手をつくと、頭突きでも企んだのか、椅子から腰を浮かせる勢いで上体を前屈みに倒した。
「先ほど、君にひとつ、説明し忘れたことがあるんだ」彼女に座り直すように促して、手にしていたカップを揺らしてみせた。「一旦落ち着いたほうがいい」
 彼女は唇を尖らせながら、渋々といった様子で椅子に腰かけた。すぐに足を揃え直し、彼女はあくまで椅子に座ったまま、もう一度姿勢を前傾させる。
「落ち着きました」
「本当に?」
「ええ、それはもう。係長が支離滅裂なことを仰っていると理解できるくらいには」
「うん。随分落ち着いたみたいだ」
「私に説明し忘れたことって、なんですか?」
「本当に、突然落ち着いたな」その変わりようが見事で、喉を鳴らして笑ってしまう。「ああ、失礼。次は俺が落ち着かないと」
「そういうの、いいですから」
「さっきから気になっていたんだけど⋯⋯、君、超能力に興味があるの?」
「そりゃあ、ありますよ」彼女は上半身を勢いよく起こした。背中を軽く反らせ、足を伸ばす。「この仕事に就くまで、超能力なんてものが存在することも知らなかったんですもん。興味ありまくりです」
「そうか。いや、できればこの話は誰にも言わないでほしいんだけど⋯⋯、どうしようかな」
「もしかして、機密情報なんですか?」
「そんな大層なものじゃないよ。正直、なんの確証もない。だけど、俺たち超能力者であれば誰でも、感覚的に知っていること、とでもいうのかな。君が漏らせば、俺の記録が抹消されるだけで済む程度の話だ」
「それは、とんでもない話では?」彼女が声を潜めた。「漏洩させませんっていう誓約書でも書きましょうか?」
「俺たちは、超能力者を見分けられる。それだけの話だ」
「え、そうなんですか?」純粋に驚いた、といった表情を浮かべて彼女が言った。「それって、見ただけでわかるんですか?」
「いや。はっきりと区別できるわけじゃない。ただ、対面したり仕草を見ていたりして、もしかしたらそんな気がするな、と思う程度だ。君、道端で人とすれ違ったときに、もしかしたら刑事かもしれない、と思った経験はある?」
「あります、あります」彼女は何度も頷いた。「同業の人間かも、と思ったことは何度かあります。あれ、どうしてでしょうね。同じようなスーツで、同じような髪型をしているのに、雰囲気っていうのかな、そういうものを無意識に感じ取っているのかも。あ、もしかして、そういうことですか?」
「そういうこと」
「へえ⋯⋯、これが、トップシークレットの情報?」
「知られてみろ。超能力者狩りが始まるぞ」超能力者狩り、という自分の発言が妙に可笑しくて、口の端が勝手につり上がった。「まあ、いつか金銭に目が眩んだ誰かが漏らすだろうさ」
「やっぱり、誓約書、書きませんか?」
「いいよ。そんなものが残っているほうが怪しまれる」
「あの、係長⋯⋯、その情報って、もしかして、超能力者の失踪に関係していたりしませんよね?」
「さあ。どうかな」カップを口に近づける。唇に触れる直前で手を止めた。「俺に言えることは、それ以上踏み込むのはあまりおすすめできない、ということくらいだよ」