1/五月十二日
捜査資料を眺めていると、不意に、コーヒーの良い香りが漂ってきた。香りに釣られて思わず顔を上げる。マシンの前には、コーヒーが出てくる様子を真剣な面持ちで見守る女がひとり。
目が合うと、彼女はすぐに人好きのする笑顔を浮かべた。
「係長も飲まれますか?」
「ああ、うん。お願いしようかな」
「ブラックですか?」
「そう。ありがとう」
「いいなあ。私、ブラックって憧れるんですけど、とても飲めたものじゃないっていうか⋯⋯」彼女は独り言のように喋りながら、俺のマグカップをマシンにセットした。「いくらなんでも苦すぎるんですよね。わざわざ苦いものを飲む意味がわからなくって⋯⋯、まあ、私の舌がまだまだお子ちゃまってことかな」
マシンのボタンを押してから、彼女は自分のマグカップの中にミルクとシロップを次々と投入する。白いコーヒーになってしまうのではないか、と不安になるほどの量だった。それこそ、とても飲めたものではないだろう。
その様子を見ているうちに、手許の資料の文字を追う気にすらなれず、ファイルを閉じて机の上に放り投げた。
「若い、ということじゃないかな」首を軽く回しながら、彼女との会話を試みる。「たぶん、憧れるほど良いものでもないさ」
「係長だって、まだまだ若いですよ」
「君と比べると若くはない」
「若いと苦いって、似てますね」
「ときどき会話が成立しないのは、君の悪い癖だ」一度、欠伸を嚙み殺した。「君の場合は、思い込みの強さか、もしくは落ち着きのなさが拍車をかけている。今回はまだ良心的な話の飛び方ではあるがね」
「すみません」彼女は戯けるように肩を小さく竦めた。「あの、今の話ですけど⋯⋯、それって、私もいずれはブラックで飲めるようになる、ということですか?」
「歳を取れば必ず飲めるようになる、という話ではない。でも、可能性はある。歳を取るにつれ、味覚がどんどん鈍くなっていくのを自覚するんでね⋯⋯、だから、どんどん刺激を求める。若くて鋭敏な舌では苦くて堪らない飲み物も、鈍った舌ではちょうど良い刺激でしかない。もちろん、ブラックでも飲めるという子どもはいくらでもいるだろうが、その子の味覚が鈍い、という話ではなくて、そういう趣味嗜好が、歳を取ると大きく変わってくる、という話だ。許容できる刺激の範囲が広くなる、とも言えるかもしれない。大人になるということは、実際のところ、鈍感になる、ということだ。さまざまなことに鈍くなる。どうでもよくなる。当然、感受性も鈍くなるから、代わり映えのない日々の中から新しさも見出せない。自身の変化にさえ気づきにくくなる、というわけだ」
「あ、なんかそれ、わかります。子どもの頃は大人になることにすごく憧れてたんですけど、いざ自分が大人の年齢になってみると、全然っていうか。拍子抜けしちゃう感じ?」
「その具体例は適切ではないね」
「あれ? じゃあ、子どもの頃より一年があっという間に感じるのは?」
「どちらかといえば、そちらのほうが近い」
そこで、少々危なげな音を立てながら、マシンがコーヒーを淹れ終えた。
彼女は両手にそれぞれマグカップを持って此方にやってくると、薄汚れた白いカップを俺の前に置き、隣の席に腰かけた。彼女の席は本来、自分と向かい合った目の前の席なのだが、彼女は悪びれもなく他人の椅子に座り、足を使って椅子を乗り物のように滑らせている。たしかに、まだまだ子どものようらしい。
「それ、なんの捜査資料ですか?」彼女は再び椅子を滑らせて、自分の傍にやってきた。
「此処が担当する事案なんて、そう多くはない」予感した香りを一度確かめてからコーヒーを口に含む。久しぶりの水分だった。
「あ、やっぱり。あの殺人事件ですね」
「殺人かどうかもまだわかっていないよ」
「収穫がないまま、もう三ヶ月経つんでしたっけ。まさか本当に、こうやって全部お蔵入りになっていくんですか?」
「君が配属されてすぐ、俺が説明したとおりだろう」
「係長の笑えないジョークなんだと思ってました」彼女は小さく肩を竦めた。「あ、でも、暇で暇で仕方がない、っていうのは嘘みたいですね。春の異動で此処に配属されてからまだ一ヶ月ですけど、少なくとも、暇ではありませんよ」
「そうだな」コーヒーを一気に流し込んだ。「君が来てから突然忙しくなった」
「そんな厄病神みたいな言い方⋯⋯」
恨めしそうな彼女の視線を浴び、咄嗟に笑顔を取り繕うが、あまりのわざとらしさにか彼女はさらに口許を歪ませた。
「まあ、気にすることはない。忙しくなったところで、俺たちはただそれを受け入れるだけでいい。どうせ名前だけのセクションだ。国はちゃんと対策をしている、と言い張りたいだけのね」
「もっとすごいことをしていると思ってました」彼女は両手でマグカップを持ったまま、デスクに両肘をつき、不満そうに唇を少し尖らせた。「だって、超能力者等関連事案対処班、ですよ。刑事の花形って感じがするじゃないですか」
「もっともらしい名前をつけて有耶無耶にするのは、上層部の常套手段だ」
「そうですね」彼女は、机の上に放り投げられたままのファイルに一瞬目を向けた。「こんなことなら、一課じゃなくて生安を希望すれば良かった」
「生活安全課?」
「だってほら、超能力者の行方不明が多発してるって。生安の人たち、大変なんでしょう?」彼女は可愛らしく眉を寄せると、顔を此方に寄せて声を潜めた。「なんだか、政府の陰謀って感じがしませんか」
「仮にも公務員の俺たちが、そんなことを軽々しく言うものじゃない」
空になったマグカップをデスクに置く。
ポケットから取り出した煙草を口に咥えてから、人差し指を立て、その指先に火を点けた。
煙草に火を点けて、指を軽く振る。
彼女は、無言で此方の様子を観察しているようだった。僅かに目を細めている。難しい、という意思表示をするときに見せる彼女の表情は、なかなか魅力的だ。
煙を吸い込む。
あの日も、そう、こうして煙を吸い込んでいた。
肌寒さの残る、春の手前のことだ。警察手帳を見せながら、深夜の密やかな喧騒の中を歩いていた少年少女に声をかけたときも、自分は煙草を吸っていた。
彼らは超能力者だった。
そして、今から行方不明になるのだと宣言をした彼らを、自分は見逃した。
なぜ、あのとき自分は、黙っていよう、と思ったのだろう。
彼らは、元気にしているだろうか。
「やっぱり、どこかの組織や国に拉致されたんでしょうか」彼女は俯くと、両手で持ったマグカップで口許を隠しながら言った。「無事だと良いけど⋯⋯」
煙草を咥えたまま、少しだけ口角を上げる。心配することはない。きっと元気だろう。政府の沈黙が良い証拠だ。もし、多発する超能力者失踪事件の真相が組織や他国家の拉致誘拐であれば、政府が黙っているはずはない。すなわち、彼らは皆、自発的に行方をくらましたということになる。
「意外と、大丈夫だと思うがね」
「どうしてですか? もしかして、係長、なにか知ってるとか?」
「知らないよ」我ながら、なかなか自然に答えることができた。
自分は公務員だ。国に仕える立場なのだから、政府と同じくして沈黙することは、正しいことのようにさえ感じられた。
なるほど⋯⋯、
たしかにこれは、ある意味、政府の陰謀と言えるだろう。