回顧と踊る ENCOUNTER TO DOLL

 
 
 
(以下翻訳文)「その日は、たしか、どうにも冴えないというのか、妙に鈍臭い雨が降っていたのはよく覚えてるんだけどね。ほら、こないだ、何日か続けて雨が降ったろ、珍しく⋯⋯。いやなに、鈍臭いっていうのはね、なんて言うのかな⋯⋯、その日はさ、まさかあの向こう側に満天の星が広がってる、なんて予感すらないくらいに、分厚い黒い雲が、それはもう、まるで圧迫するみたいに重苦しくて、そう、だからそんなふうに錯覚したんじゃないかな。あんな雲だったから、きっと、濁った温い水が絞り出されてたにちがいない、ってね⋯⋯。ほら、ちょうど、雨雲みたいな色をしたさ、汚い、くたびれたモップとかでも、絞ったらそんな感じの水が出てくるだろ? あんな感じだよ、たぶん⋯⋯、⋯⋯な、お前さ、さすがにモップは使ったことあるよな? こう、あれだぞ、バケツの中で洗ったあとにさ、モップをこう、挟んで、ステップを足で踏みながら⋯⋯、え? なに? ああ⋯⋯、雨の話? そうか? そうかな⋯⋯、そこまで可笑しなことは言ってないだろ。だって、俺はべつに、雨に触ってみたわけじゃないんだし。傘をさしてたんだから、もちろん⋯⋯、温かったかとか、その雨が濁ってたかどうかなんて知らないよ。知ってるわけがない。あ、でも、そう、そういえば、傘に当たる雨の音なんかも、なんとなく、いつもより重いというか、鈍いような気もしたかな。それも⋯⋯、え? ああ、はいはい、すまなかった、もう天気の話はどうでもいいって? うん、そうだな、まあ、そんな雨が降ってたからさ、傘をさして、道をひとりで歩いてたんだよ。道ってのは、ほら、あそこ、例の湖から少し西に進んでくとさ、すぐ近くに崩れかけの教会があるだろ。あそこに続く一本道⋯⋯、いや、道っていうか、石垣と生垣の狭間、って言ったほうが正確かな。石のほうはまだ低いからいいけど、生垣のほうなんてもう、顔に触れるんじゃないかってくらい。雨の音が耳のいちばん傍で聞こえてさ、傘なんかさして歩きにくいのなんのって⋯⋯、ものすごい密度だよな、あれ、生垣って。きれいな四角でさ、断面っていうのか、質量っていうのかな、そういうのを感じるくらいの⋯⋯、まあ、夜だったし、暗いから、形なんてほとんど意味がないんだけど⋯⋯、あ、うん、そうそう、十字路が少し先にある⋯⋯、その道。そこをさ、夜、傘をさして歩いてたわけだ。時間は、そうだな、夜の九時半くらいだったかな? いつもより少し遅くなっちまったな、って思った記憶があるから、少なくとも八時半過ぎよりはあとの時間だったと思うけど。あ、そう、もちろん、仕事が終わったから家に帰ろうと思って⋯⋯、あの道が帰り道なんだよ。それで、なんだったかな。あ、そうだ、道の途中に墓地があるの、知ってる? あの道沿いにあるんだよ、小さめの墓地なんだけど。雨の夜の日にあの道を通るってのは、なかなか⋯⋯、あんなに暗くちゃさ、蛙の一匹や二匹、踏みつけちまったかもしれん。いや、そんな声はしなかったから、うん、大丈夫かな。雨の音に掻き消されてたのかもしれないけど⋯⋯、いくら無意識ったって、殺生はしたくないね。生きてるんだからな、あっちだって。俺が蛙の立場だったらって思うと⋯⋯、おお、ぞっとするね。蚊なんてもっとそうだ。だってほら、自分が蚊だったとしてだぞ⋯⋯、飛んでるだけでいきなり意味もわからずに叩き潰されるんだぜ。恐ろしいったらありゃしない⋯⋯、まあいいや。とにかくさ、その墓地の前をずっと通っていくと、住宅地の十字路に出るんだな。で、十字路を右に曲がるんだけど、道に出て右に曲がったところで、向かいにいたんだよ。その、例の女。いたって言っても、距離はちょっとあって、向こうは道の奥に立ってたんだけど、それにしたっていきなり暗闇から現れるからさ、そりゃもう驚いたよな。え? いや⋯⋯、見えるだろ、普通に。あ、なに、そういうこと? ああ、たしかに⋯⋯、そういやなんでだろうな? 言われてみたらたしかに、ちょっと不自然か? あ、いや、ちがうちがう、街灯が一本立ってて、ちょうどその下に女がいたんだ。ちがうって、嘘じゃないって⋯⋯、あそこの街灯、ほとんど切れかけなんだよ。あの下を通ると、虫の羽音みたいな音がずっとしてて、弱々しく点滅ばっかりして、ありゃあほとんど点いてない時間のほうが長いんじゃないのか? しかも一本だけ。広くはないけど、車だってたまに通る道だってのに、なんだってまた⋯⋯、でも、その日は接続がうまい日だったのか、頑張って街灯としての役目を果たそうとして躍起になってたわけだな。街灯が。雨でけぶって、霧の中みたいなぼんやりした灯りだったけど⋯⋯、もしかしたら、あんまりにも暗かったから、余計に明るく感じたのかもしれない。もしくは、いつもはあのくらい光ってるんだけど、俺たちが気づいていないか、だ。そう、で、その下にいた。女が。あんな土砂降りの日に、傘もささずに⋯⋯、なんか急いでるふうだったけど、どんどんこっちに近づいてくるから、俺はできるだけ傘を下げて、なんとなく、息を潜めて、道の少し端のほうを歩いた。女の、走ってるみたいな息遣いが、雨の打ちつけるみたいな音に混ざって近づいてきて、でも、やっぱりまだ女の姿はよく見えない。街灯からどんどん遠ざかるみたいにしてこっちに走ってくるわけだから、それも当然なんだけど⋯⋯、それにしたって、随分荒い息なわけ。夜に、土砂降りの雨の日に。ちょっと気になるだろ? でも、大丈夫かって声をかけるには、ちょっと不審者になっちまう。俺がね。いや、冷静に考えてみろよ。真っ暗闇の中、いきなり男に大丈夫ですか、なんて、訊かれたら怖いだろ。いや、俺だってその女はちょっと、さすがに、不気味だったけど⋯⋯、そしたら、その女、もうすぐ俺とすれ違うってときになって、いきなり俺に気づいたみたいに立ち止まるんだ。悲鳴みたいな、引き攣った息っていうか、そんな反応でさ。そんなの、俺のほうがビックリするよな。でも、目が合っちまったもんだから⋯⋯、いや、どうなんだろうな、目が合ってたのかな? 暗くてよくわからんが、とにかく、不審者じゃないですよって、できるだけ冷静に、こんばんは、って、一応ね。声をかけたわけ。できるだけジェントルな発声でさ。いや、どんな感じって、こう⋯⋯、できるだけ優しく、紳士的にさ、こんばんはって、こんな感じで⋯⋯、おい、笑うなよ。笑ってるだろ? わかってるんだからな、こっちは⋯⋯、まあいいさ。で、女はうろたえる。当然だよな、返事をするか、無視するかを、あの一瞬で考えなきゃいけないわけだ。女は、完全に立ち止まった。だから、次は俺も考えなきゃならなくなったんだ。俺も立ち止まるか、そのまま行き過ぎるか⋯⋯、でも、一瞬、躊躇っていうのか、ほんの一瞬でも足を止めようとしちゃってさ、そしたらもう止まるしかないだろ? だって、やっぱり無視して通り過ぎよう、ってわざわざ決めたってことが相手に伝わっちまうんだし、なんか、申し訳ないだろ、そういうの⋯⋯、いや、お前に理解なんて求めてないよ。お前の場合はどうせ、立ち止まるかどうするかなんて、考えたりもしないんだ。な? ほら、当たりだ。でも、たぶん彼女は、俺と同じような流れで立ち止まったんじゃないかな。それで、俺も立ち止まった。傘に雨がぼつぼつぶつかってさ、その音だけが、やけに傘の中に響いてたっていうのかな。そういう、普通なら拾わないだろっていう、無駄な記憶だけはしっかりしてるんだ⋯⋯、自慢じゃないけどね。あの音ってさ、音源じゃ再現できないよな。ヘッドフォンじゃ無理だ。実際に傘をさして、土砂降りの雨の下に立ったときにだけ聴ける。それって、とんでもなく贅沢な音だと思わないか? 俺は結構あの音が好きでさ、よく、雨の日の音を一時間、みたいな動画を聴いたりするんだけど、どれも違うね。あれって、傘が天然のスピーカみたいになってんのかな? そのあたりはよくわからんが⋯⋯、でも、女は傘をさしてないから、すっかり濡れそぼっちまってたわけだ。そんなに明るい色の髪じゃなかったと思うんだけど、なにせ、あの暗闇だからな。いくら光り輝んばかりの金髪でも、あのときばかりはたぶん、茶色とか赤色とか、真っ黒にだって見えたんじゃないか? あ、でも、まっすぐ長い髪だ。それは覚えてるぞ⋯⋯、どれくらい? どれくらいって、うーん、どうだったかな⋯⋯、その情報、必要か? ふぅん⋯⋯、まあいいや。そうだな、たぶん、そこそこ長かったんじゃないかな⋯⋯、胸の辺りまではあったと思うけど。随分青白い肌をしてて、髪は雨に濡れてるから、薄いというか、ぺったりしてて⋯⋯、でも、全体像としては、ぼんやりしてる。雨のせいかな? 雨が降ってたからさ、彼女をこう、雨が煙みたいにして、すっかり覆っちまってたから、それでぼやけてしまってる、みたいな。薄くて、透明な被膜か霧みたいなものが、本当に薄っすらとだけど⋯⋯、もしくは、俺がそういう眼鏡をしていたかだな。え? してないよ、眼鏡なんて。してるところ、見たことあるか? 大体、そういう曇った眼鏡をしてたんなら、視界の全部がそうなってるだろ。でも、そうじゃない。他は意外と鮮明で、でも、その女のイメージだけがちょっと滲んでるんだ。そういうイメージ。きれいな顔立ちだったのに、だからって、顔が印象に残ってるわけでもないというか⋯⋯、じろじろ見るのも怖がらせちまうかと思って、もしかすると、ちょっと焦点をずらそうとしてたのかもしれん。あ、そうだそうだ、それなら納得がいく。じゃあ、とりあえず、そういうことにしておいてだな。まっすぐ長い髪と、青白い肌と、大きな目だった。そんな感じだったから、もしかして、そういう撮影なんじゃないかと最初は思ったんだけど、もしそうだとしたら、普通、俺は通れないよな? それとも、もしかして、勝手にエキストラにされてたのかも。ま、それはないか⋯⋯、ないよな。でも、それくらい、なんというか、テレビに出ててもおかしくない女だった。服? 服か⋯⋯、うーん、どうだったかな、それこそ、あんまり印象に残ってないというか⋯⋯、白いワンピースとかか? や、それはちょっと、短絡的すぎるか。大体、俺、白いワンピースなんて着た女の人、見たことないぞ。え? 見たことあんの? へえ⋯⋯、そういうもんかな⋯⋯、あ、でも、少なくとも、スーツじゃなかったな。それだけは間違いないね。でも、白い服だったと思う。ちょっと発光してるみたいにさ、あの夜の中じゃ、妙に浮いて見えた気がするから⋯⋯、うん、じゃあ、とりあえず、白いTシャツってことにしておこう。そんで、つまり、ワンピースじゃないってことは、ズボンだったわけだよな。じゃあ、白いTシャツに、ジーンズのパンツだ。いや、ジーンズかどうかなんて、まったく、これっぽっちも知らないけど、Tシャツに合わせるなら、大体ジーンズじゃないか? まあ⋯⋯、そんな憶測、お前は求めてないよな、うん、わかってるわかってる⋯⋯、悪かった。で、そう、その女はさ、じっと俺を見てるわけ。こういう場合って、たぶん、俺のほうが、声をかけるきっかけが多いだろ? なにせ、相手がずぶ濡れなんだから⋯⋯、どうしたんですか、とか、なにかあったんですか、とか。だから、そういうようなことを訊いたんだ。なにか疚しいことがあるんなら、わざわざ立ち止まったりはしないだろうと思って⋯⋯、そう、そしたら彼女、なんて言ったと思う? いいか、今から真似するぞ。そっくりそのままこう言ったんだ、嘘じゃないぞ、本当だからな⋯⋯、ええ、なにかはありますわ、常に、もちろん⋯⋯。な? 普通だと思うか? 少なくとも俺は初めてだったね。まさか、現実世界に、そんな言葉遣いの女がいるとは思わなんだ。や、悪くはない。悪くないどころか、正直、なんというか、良かったね。まるで舞台劇か、文豪の小説の中に飛び込んだみたいで、どうせならもっと聞いてみたいじゃないか。それで、まあ、俺はなんて答えたのかな。ええとか、はいとか、まあそうですね、みたいな、当たり障りのない相槌をしたんじゃないかな、俺のことだから⋯⋯、そう、ちょっとちぐはぐした感じだろ? それこそ、白いワンピースでも着てくれてたほうがまだ違和感が少ないってもんだ。それから、たぶん、寒くないのか、とか、大丈夫ですか、とか、そんなことを訊いた。そしたらさ⋯⋯、寒いわ、もちろん。ところで、大丈夫って、なに? これが答え。大丈夫ってなにって、なにを言ってるんだと思ったけど、でもたしかに、よく考えてみるとさ、明らかに大丈夫じゃないわけだ。どう見たって。なにかは起こってるし、なにかはあっただろうさ。だから、俺の質問は不適格、不合格ってわけだね。そりゃあ、そうだろうよ⋯⋯、だから、反省した。そうだね、大丈夫? なんて質問は意味がなかった、って。間違いなく、君は今、なにかに困っているんだろうけど、もし自分が力になれることがあれば、協力くらいはしますよって言ったんだ。そしたら、彼女、驚いたみたいに目をちょっとだけ見開いて、それから、笑ったんだ。息が抜けるみたいな笑い方で、それから、どんどん肩を震わせていって⋯⋯、どう思う? それってさ⋯⋯。もちろん、その間も彼女はずっと雨に打たれて濡れてるんだけど、ようやく笑いがおさまったと思ったらさ、彼女、急に言ったわけ。じゃあ、もしも私が人を殺していても? って⋯⋯、さすがにビックリしたね。だって、日常生活で、そんな言葉、なかなか口にする機会ってないじゃないか。あ、いや、どうだろう、ドラマとかでは日常茶飯事だよな。え? ああ⋯⋯、そりゃそうだ、現実のほうが、ごまんと起きてるわけだ。うん、つまり、どのみち日常茶飯事ってわけ⋯⋯、でも、少なくともさ、日常生活で、見ず知らずの人間相手に、殺すとか殺さないなんて言葉を口にしたことはまずないから、まさか、って感じで⋯⋯、だからあんなことが訊けたんだと思うんだけど。殺人犯なんですか? って⋯⋯、え? もちろん訊いたよ。本人に⋯⋯、あ、そうか、どうやって? とか、誰を? とか、訊いておけば良かったかな。せっかくの機会だったってのに⋯⋯、うん、そしたら彼女、でもさ、俺の質問なんて聞こえなかったみたいに、そうね、それはなあに? って、俺の傘を指して言うから、傘ですよって答えたら、じゃあ、その傘っていうものを攫ってしまってもいいかしら、なんて、これまたクリームパスタみたいな喋り方で言ったわけ。だから、傘を貸してやったんだ。そしたらもう、彼女はビックリ仰天してしまって⋯⋯、その顔だけで充分っていうか、今から雨に濡れて帰らなきゃならないことも、その傘が二度と戻ってこないことになっても、べつにかまわないというか⋯⋯、その表情を見る代金にしちゃ、安いもんだと思ったんだ。だからさ、彼女に、私の家はもうすぐそこですから、どうぞお気になさらず、この鞄の中身だって、濡れたってなんら問題もありませんので、なんて⋯⋯、ほら、ジェントルだろ? やればできるんだよ、俺だって⋯⋯、まあ、さすがに、最初は首を横に振ったりして、俺に傘を返そうとしてきたんだけど、でも、そのときには彼女、咄嗟に傘を持ってたんだ。俺が差し出した拍子にね。だから、もし貴女が殺人犯だとしたら、貴女の指紋がついてしまった傘を、私が持つことになってしまいますねって⋯⋯、ドラマみたいだって、我ながら、そう、ちょっとした俳優気分を味わっていたのかも⋯⋯、今思うと、いろいろとさ、なかなかリスキィというか、ちょっと危ないよな。うん、わかってる、わかってるって、まったく⋯⋯、そんで、彼女がさ、そうだ、これこそとっておきなんだけど⋯⋯、いいか? 言うぞ⋯⋯、指紋ってなにかしら、だって。なにかしら? そうだな、なんなんだろうなって、俺はつい頷きそうになったね。殺す、なんて意味を知っておいて、指紋は知らないってのも変な話じゃないか? あれ、そうでもない? なんだ⋯⋯、うん、で、そうだな、とりあえず、指紋っていうのはねって、説明はしたよ。ほら、指先に渦巻いた溝みたいなのがあるでしょう、それが指紋で、それっていうのは、人によって違っていて⋯⋯、みたいな話をね。そしたら、彼女、やっぱり目をちょっぴり見開いてさ、急に子どもみたいな顔をするものだから⋯⋯、待てよ、これって、もしかしてちょっと失礼な表現か? 立派な『レディ』相手に、大丈夫かな⋯⋯、とにかく、彼女、それから小首を傾げてさ⋯⋯、これってのがまた、嘘みたいに上品なんだ。ほんのちょっと、髪の香りを香らせるくらいの、そういう傾げ方で、そしたら、もうどのみち間に合いませんけれど、なんて⋯⋯、そう呟いてから、歯を少しだけ見せて笑ったわけ。なんだかな、その歯の白さみたいな、そういう印象は結構残ってるんだけど⋯⋯、大体、間に合わないって、ちょっと意味深すぎないか? でも、俺は、とりあえず微笑んでおいた。そしたら、彼女も、でも、それじゃあ、この傘、いただいてしまってもよろしいかしら、なんて⋯⋯、ああ、よろしいかしら、だぜ⋯⋯、痺れちまうね。実際、ちょっと痺れてたんだろうな、少し遅れてから、ええ、どうぞ、って頷くのが精一杯だったよ。本当は、温かい食事でもいかがですか、なんて声をかけてみたかったんだけどね。もちろん、そんなこと、口にしたわけじゃないけど⋯⋯。それで、彼女はもうすっかり自分のものになった傘を握って、構えてみせた。ちょっと重たそうに、不安定にさ⋯⋯、もう全然似合っちゃいない。男物の、無駄に大きな、紺色の傘なんて⋯⋯、彼女にはもっとさ、白いレースの傘なんていいんじゃないのか? まあ、それだと、傘としては無意味だよな⋯⋯、レースの傘って存在する? あ、へえ、そう。そうか⋯⋯、でも、そういう無駄を持てる余裕っていうのか、そういうのが、姿勢として滲み出てるんだろうな。姿勢? 違うか、うーん⋯⋯、無駄だって言われることを、無駄じゃないって信じるみたいな、そういう、もっと、幼稚で純粋な思い込みも、実は必要なんじゃないかって⋯⋯、でも、考えたら、全部ちぐはぐだったわけだ、彼女。顔の印象もさ、服の感じも、喋り方も、俺が貸した傘も⋯⋯、奇蹟的なバランスでもって成り立ってるって感じだ。うん⋯⋯、もしかして、それが魅力ってやつの正体だったりする? いや、どうかな、少なくとも、彼女の場合はちょっとちぐはぐすぎたか⋯⋯、成り立ってるのがおかしいくらいの、そういうのは、逆にやりすぎって感じもするよな。でも、もしかしたら、そういうやりすぎ感っていうのを、あの日は、雨が薄めてくれてたのかもしれないし。もし、雷の一発でも落ちてたら、いっぺんに割れて、壊れて、一気に崩れてたんじゃないかな。ああいう空気というのか、目が覚める、みたいな⋯⋯、あの日はさ、本当に、噎せ返るみたいな雨の匂いがしてたんだ。雨の匂いなのか、雨が染みついた土の匂いなのか、草の匂いなのかはわからんが⋯⋯、だからきっと、そのせいで、どこか夢見心地みたいな、ぼんやりしたさ、現実味の薄い⋯⋯、そういう感じ。温い水って、そんな感じがするだろ。や、もちろん、その日の雨が温かったかどうかなんて、俺は知らないんだけどさ。このまましばらく、空気も時間もずっと停滞してるんじゃないかって気がしたけど、当然、そんなはずもなくだな⋯⋯、あっさりと、それじゃあありがとう、なんて言って、彼女、さっきまでびしょ濡れになって走ってきたとは思えないくらい、当たり前のように傘を構えて、のんびり歩いていくんだぜ⋯⋯、なんか、咄嗟に、声をかけたくなって、だから、お気をつけて、って。そしたら彼女、振り返って、にっこり微笑んだ。私、海が見たかったのですよ、って⋯⋯、海か、そりゃあちょっと難しいなって思ったけど、まさかさ、車を出しましょうか、とか、歩いていくとどれくらいかかりますよとか、こんな夜更けにひとりじゃ危ないんだから、タクシーでも使いなさい、なんて言って金を握らせる、みたいなさ⋯⋯、できないだろ? それに、正直なところ、そのときはさ、海ってどんなだったかなって、うまく思い出せなかったんだ。なにせ、周りは住宅地だし、どっちかといえば森の近くだし⋯⋯、そもそも暗くてなにも見えない。雨が降ってる、ちょっと蒸し暑いような夜で⋯⋯、そんなときに、こういう、広い海とか、高い空とか、きれいな明るい、昼間の色ってのを、そういう光景をさ、なかなかうまく思い出せなかった。だから、ええ、そうですか、それはいいですね、みたいな⋯⋯、当たり障りのない相槌しか打てなかった。もっといえば、本当に意味のない相槌だったよな。そんなのばっかりで、俺の人生って、たぶん、ずっと、そういうガラクタが積み重なった道なんだろうな。べつに、それを悲観したことは、実はそんなにないんだけど⋯⋯、うん、それで終わり。言ったろ? 電話でも、何度もさ⋯⋯、別れてからも、しばらく途中までは、彼女の後ろ姿というか、傘を見てたけど、さすがに、自分の頭にすっかり染み込んだ雨がさ、まるで血が流れるみたいにして頭から額に流れてくるもんだから、そろそろタオルで頭を拭きたいなと思って、会社に電話を入れて、一旦、俺も帰った。それだけだよ。それっきり⋯⋯、そうさ。だけど、そうか、彼女⋯⋯、きっと、海だと信じてたんだろうな。うん⋯⋯、それでも、良かったじゃないか。ああでも、彼女にとっちゃ、真っ暗闇の海だ。どうだろう、それって⋯⋯、ああ、うん、そうだな。俺がどうこう言えたことじゃないが、でも、こういう、真っ昼間のさ、きれいな海を見てほしかったな、どうせなら。夜の海って、どっちかっていうと、なんとなく怖いだろ。それも、あんな鬱蒼としててさ、草なんて伸び放題で生えまくって、湿った土を踏んでいくようなよりもさ、こうやって、でっかい橋の下を歩きながらとか、普通に、遊ぶみたいに、砂浜に立って、友達と海を見て⋯⋯、そういうのも、どうせなら、さ。ま、俺が言ったってな、どうしようもないか。どうせ、あれっきりだ。あの一回きり。向こうにとっちゃ、どうだかな。俺の傘、湖の傍にあったんだって? そりゃあ⋯⋯、そうか。持っていきはしなかったか。持っていけないもんな。あっちには、なにもかも、全部⋯⋯、だから、置いていくしかない。そりゃそうだ。それなら、あのとき受け取ったりなんかせずに、俺に突き返せば良かったのに⋯⋯、そこはまだまだってところかな。俺の指紋が傘から出てきた、なんてのも、偶然も偶然だったわけで⋯⋯、向こうはそんなこと、考えてもないどころか、知りもしなかったはずだろ? あ、いや、もしかして、ただ、俺を困らせてみたかっただけなのかもな。うん⋯⋯、まあ、そうだな。単に、あの子が傘を貸してもらえて嬉しかったとか、そういう理由なら、俺としては、良かったかな。いや⋯⋯、べつに、事情は知らんよ。これっぽっちも⋯⋯、まだ聞いてない。傘から俺の指紋が出てきたってことと、湖で見つかった遺体がどうも彼女らしいってことくらいだ。ああ、あとは、そうだな、俺たち警察が間に合わなかったことくらい⋯⋯、ちがうな、うん、怖い顔すんなって、悪かった⋯⋯、そういう意味じゃない。それに、そもそも、俺がこっそりあとをつけるとか、もう少し引き止めるとか、そういうことはいくらでもできたはずなんだしな。責任は、そうだな、正直、感じてるよ。まさか、家出どころか湖に入るなんて思ってもみなかったけど⋯⋯、いや、だめだな。こういうところがだめなんだ。うん、わかってるんだ、だけどな⋯⋯、こんな海を前にしちゃ、弱音のひとつやふたつ、零れちまうってもんだ。で、どうだった? そっちは⋯⋯、うん。そうか。いやあ、まあどのみち、真実なんてこれでとっくに全部葬り去られちまったんだから、誰にも本当のところなんてわかりやしないんだろうが⋯⋯、これまた、複雑な事情がありそうな。そりゃそうだ、今どき、あんな喋り方、なかなかできんだろ。え? ちがうか、そうか⋯⋯、でも、そうだな。うん。⋯⋯、そうか⋯⋯、⋯⋯そういや、さ。娘がな、ずっと欲しい欲しいって言って聞かなかった人形があるんだ。あ、俺の娘、こないだ四歳になったところでさ。着せ替え人形っていうのか、つるつるした感じの、かなりしっかりした人形なんだけど。髪なんかもちゃんときれいで⋯⋯、あ、うん、そうそう、人間の形をしたほうの。クマとかじゃなくて、そう⋯⋯、で、前にさ、誕生日だからって、買ってやったことがあるんだ。お手入れセットみたいな小道具といっしょに。あるだろ? 小さい櫛とか、いろんな服とか、靴とか、あんな小さい靴下まで⋯⋯、そういや、人形用のドライヤーとか、箪笥とか、ハンガーなんかまで売ってたな。いやあ、最近のおもちゃってのはすごいよな。今回はさすがにさ、家具なんかは買ってないんだけど、まあ、プレゼントパックっていうのか、人形といっしょに、道具とか靴とか、そういうのも全部まとめて一式入った箱で⋯⋯、こう、わかるか? 表の一面だけ透明なビニルみたいな膜が貼ってあって、中の人形が見えるようになってるタイプの箱。それをラッピングしてもらって、誕生日にプレゼントしたんだよ。でもな、娘はさ、いまだにその箱を開けてないんだ。な? そうだろ、ビックリするだろ? そりゃもう、一目散に箱を破り捨てるんじゃないかってくらい欲しがってたんだから、なんなら、それをちょっと期待しちゃってたんだけど⋯⋯、いや、全然、かといって急に欲しくなくなったわけじゃあないみたいなんだな、これが。嬉しそうにはしててさ、でも、娘はな、汚したくないからって⋯⋯、だから使えないんだとよ。封も開けずに、まるで美術品みたいに立てかけて、外からずっと眺めてるんだ。取り出して、触って、いろいろ小道具を使ってやったほうがきっと面白いんじゃないかって、何度か言ったんだけど、全然。でも、なんとなくさ、もしかして⋯⋯、彼女も、そうだったんじゃないかな。え? いや、ちがうちがう、そうじゃなくて⋯⋯、そりゃあ、たしかに、彼女だって、たぶんプライマリ・スクール生くらいだろうし、人形で遊んでてもおかしくないくらいの年頃だったけど、そうじゃなくて⋯⋯、まあどっちでもいいか。ただ、そうだな、彼女⋯⋯、入ってみたかっただけなんじゃないかな。入水してやろう、なんて、思ってもみなかったんじゃないかなって⋯⋯、きっと。そもそも、自殺する、なんて意味を知ってたかどうかだ。そうだろ? 湖の中を歩いていったらどうなるか、なんて、彼女には、底の深さなんて想像もつかなかったんじゃないかなって、なんとなく⋯⋯、まあ、全部、そんなこと、今となっちゃ、誰にもわからんことだ。彼女がいったい、なにをして、どうやって、箱から脱出した先で湖に溺れたか、なんてさ。ほら、なんだ、もしかするとさ、箱から脱出するには、きっと、生贄の血が必要だったんじゃないか? 妖精なんかよりもタチの悪い人間の血とかがさ、きっと⋯⋯、そうか、だからあんな言葉を知ってたんだな。うん、そうか、なるほど⋯⋯、え? そうか? でもなあ⋯⋯、実際殺されてたんだろ? あの指名手配犯⋯⋯、それにあれだ、指紋だって、傘のおかげでバッチリだ。でも、そんなものがなくたって、べつにありえないってほどの話じゃないと思うけどな、俺は。不意打ちで一発。当たりどころが悪けりゃ、それだけで充分だ。正面から殴り合うってんじゃないんだし。箱の中にずっと閉じ込められてた着せ替え人形が、いつかさ、或る日突然俺の娘に襲いかかる確率なんかよりはよっぽど高いだろ。いやな、べつに、俺は彼女に肩入れしてるわけじゃない。思うところがないと言えば嘘になるけど、その程度のもんだ。だけどさ⋯⋯、海かあ。うん、そうだ、海ってこんなだっけな。目の前に立って、やっと、そうだそうだ、これだったって⋯⋯、うん、そうだな。いつ、なにで、海ってものを知ったのかは、訊いてみたかったかな。一度くらいは、あの子にさ⋯⋯」
 

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