或る春の日の潜像

 
 
 
 海の中を泳ぐ魚の気分を味わった。
 よく晴れた休日の午前。僕は、妹と共に桜の下を歩いている。
 どこを見渡しても薄紅色の天蓋。空は晴れた甲斐もなく桜に覆われており、花弁と花弁の隙間から点のような青色が覗くに留まっている。しかし、僕の意識は広い敷地にこれでもかと乱立する樹々に咲き誇る桜よりも、混雑の中で蠢く人間の頭に向いていた。よくもまあ、花見など。美しいと称されるものは遠目に見るにかぎるだろうに。
 とはいえ、僕自身もその花見客のひとりである。花見をしたいと言い出したのは当然僕の妹で、それに半ば巻き込まれる形で参加した二組の兄妹を加えた計六人で、桜の樹の下で弁当を食すことになった。たいへん物騒な食事会である。なにせ、桜の樹の下には死体が埋められているのだ。僕の死体も埋められかねない。僕の死亡フラグ、ここに乱立。もちろん、犯人は銀先生である。
 かくも物騒な場所にシートを広げて食べる弁当の買い出しや準備を二組の兄妹に任せる代わりに、僕と妹は場所取りを命じられ、今にいたる。早めに来たつもりだったが、公園は既に花見客で溢れ返っていた。六人が座れそうなスペースを求めて、僕は、無駄の多い大きな動きで人混みの中を歩く妹のうしろに付いていく。
 僕や妹ならばいざ知らず、あとから来る四人は確実に目を引く。この島国ではいまだ見慣れぬ欧州の人間であるから、という理由ではなく、彼らの造形のためである。金の兄妹も、銀の兄妹も、それぞれ系統は異なれど見事な美形ぞろい。ゆえに纏う彼らの威厳、あるいは、絶対的な格の違い。オーラ、とでも言えようか。そう、つまり、確実に目立つのだ。たとえ彼ら自身は注目されることに慣れていたとしても、哀しいかな、僕はまったく慣れていないし、その巻き添えを喰らうのは御免である。既にいくつかのスペースを見過ごしているのは、そういう理由であった。
「お兄ちゃん」
 妹が少し遠くで、ぴょこぴょこと跳ねていた。人混みの流れに逆らう形で彼女のもとに向かうと、少々薄暗いが充分なスペースが広がっている。
「ここ、どう?」
「ええ⋯⋯、いいと思いますよ」僕はぐるりと周囲を見渡した。「桜もよく咲いていますし、比較的人も少ない。この辺りでシートを広げてしまいましょうか」
「はあい」
 妹はご機嫌な様子で元気よく返事をすると、僕のうしろに回り込み、僕が背負っていたリュックサックのチャックを開けてシートを取り出した。
「僕が降ろすのを待ちなさい」
「だって、早くしないと場所取られちゃうでしょ。それにお兄ちゃん、動きが遅いんだもん。おじいさんみたい」
 妹は大きなシートを地面に広げると、次いで、僕からリュックサックを半ば剥ぐように奪い取った。
「カメラも入っているんですから、もっと丁寧に扱いなさい」
「あ、ごめん。忘れてた」
 彼女は大きな目を二、三度素早く瞬かせると、リュックサックを慎重な動きで抱え直し、能か狂言のような歩き方でレジャーシートの端にリュックサックを静かに置いた。それから、そこに座れと僕に声をかけながら対角線上を指さす。どうやら、僕とリュックサックは重石がわりらしい。急かす妹に促されるがまま僕がシートの端に腰かけると、妹は満足そうに笑みを深めた。
「ね、お兄ちゃん。この辺にいるからさ、ちょっと桜、見てきてもいい?」
「もう見えているじゃありませんか」
「違うの、もっと近くで見たいの」
「かまいませんけど⋯⋯、僕の見える範囲にいてくださいね。お前、すぐ迷子になりますし、問題を起こされても困りますから」
「起こさないもん」妹は口を斜めに歪めて不満げに唇を突き出した。「ね、ほんとにこの辺だから⋯⋯、いいよね?」
「はい、はい。いいですよ。それにしても元気ですねえ、お前は」
「お兄ちゃんがおじいさんなだけだよ」
「あ、ちょっと」
 今にも駆け出しそうな妹を呼び止めると、その姿勢のまま妹が振り返った。大袈裟に首を傾げた弾みで、長い黒髪がひと房、肩から音もなくすべり落ちる。
「鞄から、カメラを取り出してもらえますか。調子を確認しておきます」
「あいあいさ」
 妹は此方こちらに再び駆け寄ると、シートの端に置いたリュックサックの中身をごそごそと漁り始めた。しばらくしてカメラを発見した妹は、持ち方に悩みながら慎重に持ち上げる。その様子が妙に可笑しかったが、しかし僕はこの感情の名を知らず、どうすることもできないまま持て余すばかりだった。
「はい、どーぞ。意外と重たいね、これ」
「どうも」
「じゃ、行ってくるね」
 わかりやすく浮かれている妹のうしろ姿を眺めながら、ズボンのポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリに場所取りが完了した旨を打ち込んだ。すぐに金先生から『了解』の二文字が届く。彼らしい、いつもどおりの端的な返信だった。
 現在地の説明は彼らが公園に到着してからでいいだろう。
 僕は早々にスマホをしまい、カメラの電源を入れた。設定をひととおり確認したあと、試しに桜を数枚撮ってみる。やはり、なんの面白味もない写真が撮れただけで、色合いも妙に汚い。
 カメラを持ち歩くようになってから、ひとつわかったことがある。カメラは、撮影者の技術だけでなく、被写体への感じ方をも反映するものらしい、ということだ。機械なのだから、使い方が同じであれば同じ結果を弾き出すはずだと僕は信じて疑わなかったのだが、どうやらそうでもないらしい、と感じることが増えた。それは間違いなく大きな変化であり、喜ばしい変化か否かは別としても、感受性が死滅している僕には必要なもの、だと思う。
 写真とは、そのときの感情を記録するものらしい、と僕に教えた男がいた。
 誰よりも人間らしい男だった。僕がこうして今、カメラを持ち歩いて写真を撮るようになったのは間違いなくその男の影響なのだが、僕がカメラを持ち始めたのはその男が姿を消してからのことだった。なんとなく彼の真似をしてみたところ、思いのほか習慣づいてしまった、といったところである。
 今はまだ、僕にとって写真とは、単なる現象を記録する行為に過ぎない。それも、視神経を通して取り込んだ外部の映像から情報を取捨選択し、都合よく無視をし、都合よく増幅させて美化した幻想を返す、そんな、錯覚とでも呼ぶべき脳の処理結果を反映させることもできず、ただまざまざと白けた位置を記録するだけのもの。けれど、感情とはなにかを知るために、僕はこうして記録を続けている。もしかすると僕の土壌は滅茶苦茶で、心など芽生える余地はないのかもしれない。それでも、僕は誰かの感情を、その表現を記録するのだ。
 初めから欠陥だらけの、人間とも呼べぬ、定義さえされていなかったなにかであったけれど。それでも友は、今の僕が抱く小さな破綻へんかを、笑顔で肯定してくれただろうか。
「友、ね⋯⋯」
 空を、否、桜を見上げる。空を覆い隠す薄紅色。それはつまり、空が内側で、僕が世界の外側にいることに他ならない表現だと、益体もない思考が僕の神経細胞を走り抜け、そして消滅した。
 見上げたその視界を、切り取る。腑抜けたシャッター音。
 カメラの画面に映し出された桜は、どこか、遠い。
「どこにいるんでしょうねえ、あの男⋯⋯」
 別段、会いたいとも会いたくないとも思わない。僕の意思でどうにかなる事象ではないのだから、なにかを思う必要性はないだろう。
 だが、もしも。生真面目で、どこまでもまっすぐな性格の、誰よりも人間らしかった男に再会することがあれば。僕の変わりように驚くその顔をカメラに収めたい、とは思う。
 そうしてカメラの液晶画面を眺めていると、突然、お気楽な電子音が鳴った。
「おっと、⋯⋯はい、もしもし」スマホを取り出して応答する。
『公園着いたけど、どこだ?』騒がしい雑音をバックに、金先生の声が届く。
「今どちらに?」
『駐車場。俺たちは歩いてきたけど』
「そうですか。とはいえ、特になんの目印もない広場ですからねえ⋯⋯」
『それもそうだな』金先生の声が、電話越しの雑踏に掻き消されつつあった。『適当に捜す』
「すみません。では、ひたすら南に進んでください。僕たちは少し奥まったところにいるのでわかりにくいかもしれませんが⋯⋯、四分ほど歩いた辺りにいますので」
『了解』
 すぐに通話が切れる。念のため、妹にも伝えておこう、と周囲を見渡すが、彼女の姿をすぐに見つけられない。意味もなく大きな溜息をついて、腰を上げた、そのときだった。
 強い風が吹く。
 枝は緩やかにしなり、桜の花びらが一斉に散った。
 青空。
 薄紅。
 交互。
 桜の中に、佇む少女がいた。揺れる繊細な黒髪。
 彼女の髪を乱すこの風が止んだとき、そこにはひと房の桜が落ちているだけかもしれない。
 そんな、随分と詩的な思考が頭を過ぎる。
 巻き上げられるように散る桜の花びらの中に佇む妹の、その大人びた横顔が、僕の知らない人間に思えてならなかった。そこにいる。けれど、酷く遠い。酷く不安定で、危うくて、曖昧で、だからこそ。
 カメラを構える。
 この感情を表現する言葉を、僕はやはり、知らない。
 僕はカメラを妹へと向けている。
 周囲の騒音も、シャッター音も、今の僕には届かなかった。
 カメラを降ろす。
イェンラン!」
 僕の呼び声に、彼女は驚いたように振り返る。僕はそれに僅かに落胆し、そして安堵した。なぜ落胆したのか、なにに安堵したのかはわからない。
 妹は此方に駆け寄ってくると、僕の顔を覗き込んだ。その表情はいつものあどけないもので、先ほど見たものはやはり夢だったのではないか、とさえ思った。しかし、カメラにはたしかに残されているのだ。僕が見た景色とはほど遠いけれど、たしかに記録された、あのわずか数秒間の夢が。
「どうしたの? お兄ちゃん」妹の声。
「いえ⋯⋯」軽く目を閉じ、鈍足な思考のギアを無理やり切り替える。「先生たちが公園に到着したようです。此処は少し奥まっていますから、先生たちを捜してもらえますか?」
「うん」妹が微笑む。「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
「できるだけ、僕の視界の中にいてくださいね」
「わかってるもん」
 長い黒髪を翻して、彼女は軽やかに駆けてゆく。鼻腔を擽る、なにかの香り。彼女のうしろ姿を見送ってから、僕はカメラを傍に置いてゆっくりと仰向けに倒れた。チープなシートの感触。シートの雑音。草が擦れる幽かな音。見上げた視界には薄紅色。隙間から覗く快晴。
 桜は、曇りの日がもっとも美しいのではないか、と思う。雨に濡れる桜でもいい。けれど、澄み渡った空の下で綻ぶ桜は、美しいと思うよりも先に、命を終えるいつの日かを想起させる。わずかばかりに咲くのが良いのだと、移ろい消えゆくからこそこのわずかな生が狂おしいほどに美しいのだと人は言うが、どうやら僕にはまだまだ難しい。
 こんなにも遠い。こんなにも、実感のない。
 そのくせ、いずれ喪う日ばかりを思わせる桜など。
「世の中に、たえて桜のなかりせば⋯⋯、でしたか」
 今日の自分は、なかなかに詩人なのではないだろうか。そんなことを思い、誰に向けるわけでもなく笑って、目を閉じる。周囲の騒めきが増す。妹の楽しげに弾んだ声が耳に届いた。彼らと合流したのだろう。複数の足音が聞こえてくる。
 それから、彼女の声が近づき、
 足音が近づいて、
 そして、静かに止まる。
 謎の間。
 鼻に、妙な擽ったさを覚えた。
 目を開けると、此方を覗き込む妹と目が合った。長い黒髪がカーテンのように此方に向かって垂れ下がり、景色のほとんどを覆い隠している。
 僕の傍にしゃがみ込んだ妹は、ころころと表情を変えながら僕に話しかけてくる。動かないで、とか、そのままじっとしていて、だとか、そのままお前に言い返してやろうか、とさえ思える言葉の数々を、彼女の軽やかな声が歌う。
「カメラ借りるね、動かないでね」
「ちょっと、先生たちはどうしたのです⋯⋯」
「だめ、ちょっと、喋らないで、⋯⋯あ!」
 ぶわり、と妹の髪が靡いた。僕の顔を擽っていたなにかが、⋯⋯桜の花びらが、なんの躊躇いもなく飛んでいく。
「もう、間に合わなかった⋯⋯、せっかく面白いの撮れそうだったのに」
「兄の顔に桜の花びらを乗せて遊ぶとは、お前も随分悪くなったものですね」
「そうだよ。わたし、悪い子だから⋯⋯」妹はくすくすと笑うと、僕のカメラを持ったまま立ち上がった。「お兄ちゃんが倒れてるって、金先生、心配してたよ」
「あの人は、本当に⋯⋯」寝転んだまま、空を見上げて呟く。「なんというか、お人好しというか⋯⋯」
「心配されるの、嫌?」
「論点がずれていますね」
 僕の言葉に不思議そうな表情を浮かべたが、彼女はカメラを片手で抱え直すと、もう片方の手を僕に差し出した。起き上がれ、ということらしい。完全に老体扱いだな、と内心で苦笑しながらその手を掴み、上体を起こす。
 複数の足音が近づいてくる。
 二組の兄妹が、僕たちのほうに向かって歩いてくるところだった。
「遠目から見たら完全に病人だったぞ、お前」金先生が、起き上がった僕を見て呆れたように言葉を投げかけてきた。
 金先生のすぐうしろには、彼の妹と銀先生の妹が並んでおり、さらにそのうしろに銀先生が立っている。
「つまり、もしかすると僕が突然倒れたかもしれないというのに、お前は僕の顔に花びらを乗せていたのですか?」
「言ったでしょ。わたし、悪い子だもん」
 なにが可笑しいのか、彼女はまた悪戯そうに笑うと、彼らの妹たちの傍に駆け寄ってしまった。それと入れ替わるようにして金先生が僕に近づき、シートに座る。銀先生は持っていた荷物を金先生に手渡すと、僕たちの前で立ったまま、腕を組んで軽く足を広げた。
「先生も座ってはどうですか?」
「構わん」
 軽く鼻を鳴らして、銀先生はそれきり口を閉ざしてしまった。桜よりも眩く光る銀髪に、今はサングラスに遮られて正しく色を見ることができないが、この快晴の空よりも明るく鮮やかな青色の目という稀有な色の持ち主。けれど、それとは対照的に、ファッションは無地の白いシャツに細身のジーンズと白いスニーカーという、この世でもっともシンプルな組み合わせといっても過言ではない出で立ちである。シャツの襟のボタンはいくつか留めずに放置されており、襟は折れて萎れた百合のごとく脱力して彼の首もとを曝け出している。袖口も無造作に肘のあたりまで捲り上げられているが、その乱れ具合さえ、結局のところ、彼の彫像のような躰つきやその美貌を引き立てる演出に過ぎなかった。
 一方、僕の隣で特になんの感慨もない表情で桜を見上げている金先生は、昏い緑色のパーカーに黒いパンツという、若干親しみのある組み合わせではあるものの、此方も荘厳な金髪に新緑の目を持つやんごとなき男である。本人があまりそういった態度を取らないため忘れがちだが、その高潔な精神や何気ない態度のひとつひとつに、彼らとの住む世界の違いを感じることがままある。それはそれとして、横を向いた彼の顔のラインには思わず歯嚙みしてしまうというものだ。
 僕たちの間に、特に会話はない。
 そんな無言の空間の中、しばらくぼんやりと桜を眺めていると、突如、悲鳴のような短い声が聞こえた。
 僕たちは一斉に、カメラを覗き込んでいた妹たちに視線を向ける。
「ちょっとお兄ちゃん!」妹が大きな声でそう叫んだ。「これ、いつ撮ったの!」
「すごくきれいだわ、嫣然」そう笑うのは、金先生の妹君。
 両手に頬を添えながら、嫣然が持つカメラの画面を覗き込んでいる。上品なワンピースの上で緩やかに波打つ金髪が、軟らかな春の日差しを受けて時折白く光り輝いていた。彼女は僕を盗み見ると、さらに笑みを深めて目を細める。
「なに撮ったんだよ、お前」
 妹君の様子にか、金先生がわずかに眉を顰めて僕に訊ねた。
「桜を数枚、試し撮りしただけですよ。そういえば、一枚だけ遠くからあの子を撮りましたから、それではありませんかね? 隠し撮りのようなものでしたから」
「ふぅん」金先生はそれだけ答えると、再び妹たちのほうに顔を向けた。「おい、エル! 早く弁当食おうぜ」
「もう! 兄さんたら、全然情緒ってものがないんだから⋯⋯」
「情緒もなにもなくて悪かったな」けっ、と金先生が吐き出すように呟く。
 だが、先生の言葉で、彼女たちはそれ以上その写真について話題にすることはなく、ゆっくりと歩き出し、此方に向かってやってきた。
「⋯⋯もしかして、今、僕を助けてくれたりしました?」
「はあ?」弁当を入れているらしい鞄を漁っていた金先生は、此方を見ると、眉をさらに厳しく顰めた。「助ける?」
「ああいえ⋯⋯、お気になさらず」
「この男がそう複雑なものか」
 銀先生の短い言葉に僕が顔を上げると、彼は軽く笑い声を零して此方を薄く一瞥した。常々僕に「妹には絶対に近づくな、貴様の場合は特に念入りに殺す」と公言する彼にしては、今のその眼差しは幾分軟らかなものに思えた。それとも、これは僕の変化だろうか。あるいは、視界を埋め尽くす桜がもたらした幻覚であるかもしれない。
「単純で結構」金先生の不貞腐れた声。
「ま、お前が稀代のお人好しであることはたしかだがな」
「あ? お人好しだあ?」
「あまりこの話題を掘り下げると墓穴を掘りかねんぞ。貴様が」
「ああ、そう⋯⋯」
 再び鞄を漁り、金先生が弁当箱を幾つか取り出していく。透明なタッパの中にはおにぎりが敷き詰められているのが見て取れた。蓋に薄く色がついたタッパのほうには、おかずが入れられているようだ。
 シートまでやってきた嫣然は、僕のすぐ傍に座り込むと、僕の背後からタッパを覗き込む。銀先生の妹君は、持っていた小ぶりなエコバッグの中から皿や紙コップを取り出して僕たちに配り始めた。彼女がそれらを配る様子を銀先生はじっと見つめていたが、最後に兄に手渡しにきた彼女に、銀先生はとびきり軟らかな笑みを向ける。写真を、と思ったが、カメラは嫣然が大切そうに持っていたので諦めた。彼女が持つと、妙にカメラが大きく、無骨なものに見える。
 金先生の妹君は、金先生の傍に膝をつき、水筒を傾けていた。紙コップに注がれているのは温かな紅茶。紅茶を飲む習慣がない自分にとっては、水筒から紅茶が出てくる、というのは少々斬新だった。
 僕の紙コップを手に取った金先生の妹君は、まじまじと水筒を見つめる僕を見てにこやかに微笑むと「麦茶のほうがよろしいですか?」と僕に訊ねた。
「ええ⋯⋯、そうですね。すみません、お願いできますか?」
「ちゃんと用意してきましたから、大丈夫です」
 もうひとつの水筒を取り出すと、彼女は紙コップにゆっくりと麦茶を注ぎ、僕の前に紙コップを置いた。
「ね、お兄ちゃん」
 僕のすぐうしろにいた妹が、僕の肩に手を置き、耳もとで囁く。
「さて、どうしましょう」
「早くない? わたし、まだなんにも言ってないよ」
「大体わかりますよ、お前が言い出すことくらい⋯⋯」
「それって、以心伝心ってやつ?」
「違いますねえ」
「もう」妹が少し、うしろに下がった。「真面目に聞いてよ」
「初めからずっと真面目に聞いていますよ」
「あのね、お兄ちゃん」
 妹の表情は、見えない。僕の前では二組の兄妹が食事の準備を進めていて、僕はそれをぼんやりと眺めながら彼女の言葉を待った。
「あの写真、わたしにちょうだい」
「どれのことですか?」
「意地悪⋯⋯」妹の声が少し低くなった。「わかってるくせに、すぐそういうこと言うんだもん」
「確認は大切でしょう」
「お兄ちゃんがさっき撮った、わたしの写真だよ」
「さて、どうしましょう」
「どうして悩むの? 嫌?」
 花の香り。揺れた彼女の髪が僕を掠める。横から、妹の顔がひょっこりと現れた。背後から僕を覗き込んだ妹の、大きな瞳。まっすぐで純粋なその目に、どうも僕は弱かった。
「はい、はい。わかりました、差し上げますよ⋯⋯」
「ほんと?」彼女は大きな目をさらに見開く。「ほんとにほんと? 嘘じゃない?」
「相変わらず、信用がありませんね」
「ねえ」
「本当ですよ」
 なにがそこまで嬉しかったのか、僕の返答に彼女はにんまりと笑うと、僕にカメラを押しつけるようにして差し出した。僕が咄嗟に受け取るや否や、彼女は早々に弁当に目を向ける。美味しそうだとか、早く食べたいだとか、僕には目もくれずに弾んだ声で彼らに話しかけている。
 そんな彼女を傍目に、僕はカメラを操作して、件の写真を見返した。
 相変わらず、桜は遠い。
 けれど、その色はくすんではいなかった。
 

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