第五章 寒露

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 弁当を完食し、しばらく狭霧や近衛さんと会話をしながら休憩時間を過ごした。午後の部は体育系の部活動による行進から始まり、部活対抗リレー、各クラスの応援合戦、学年対抗競技、スウェーデンリレーと続く。狭霧は学年対抗競技の障害物競争に、自分はラストのリレー競技に出場する。出場する競技を近衛さんに訊ねられてそう答えると、彼女は応援の言葉を口にしながら心なしか楽しそうに微笑んだ。
「貴方たちが出場する競技は、必ず観戦します」
「狭霧のこと、大声で応援してやってくださいね」
「絶対やめろ」狭霧はわかりやすく眉を寄せた。「見んでええから。ていうか、見るな」
「どうして?」彼女は首を傾げた。「私は、貴方たちが活躍するところを見たいわ」
「俺が活躍する予定はない」
 狭霧の突き放したような物言いに、彼女は二秒ほど狭霧の顔を見つめていたが、すぐに此方を向いた。
「大声を出すのは難しいけれど、応援しています」
「ありがとうございます」
「本当よ」彼女は目を細めて、唇の端を少し持ち上げた。
 自分はいつも、彼女の言葉から裏を読み取ろうとしてしまう。それを見抜いたうえで、わざわざ彼女は一言を付け加えたのだろう。お世辞でもなく、なにかべつの意味を含んでいるわけでもない。彼女はオレに、ただ純粋に応援している、と伝えたいのだ。
 彼女に、笑顔を向ける。
 彼女は、オレの笑顔に騙されたふりをしてくれる。
 やりにくいな、と思った。
「そろそろ、下に行ったほうがええかな」狭霧が窓の外を見ながら言った。
 オレは、近衛さんから離れるようにして狭霧の傍まで歩いた。窓からグラウンドを見下ろすと、運動部の部員たちが準備を始めているところだった。
 三人で階段を下りて校舎を出る。グラウンドで彼女と別れ、オレは狭霧と共にEブロックのテントに戻った。狭霧は無言のまま着席する。
「なあ」狭霧の後ろに立ち、椅子の背もたれに肘をついた。「お前、マジでどうした?」
「なにが」
「お前が学校で無口装ってんのはわかってるんだけど、それにしたって、今日のお前、いくらなんでも可笑しいだろ。喋っててもどっか上の空だし、自分から率先してグラウンドに下りてくるとかさ。機嫌でも悪い?」
「機嫌?」狭霧は椅子に座ったまま、怪訝そうに眉を寄せて振り返った。「いや、そんなつもりはなかった⋯⋯、けど」
「けど?」
「ちょっと考えごとしてたから。それのせいかも」
「考えごと、ね」さらに腰を屈め、声を落とす。「近衛さんのこと?」
「いや。お前のこと」
「オレ?」驚いて訊ね返すが、狭霧はなにも答えないまま、前に向き直ってしまった。「え、なに、オレなんかした?」
「真崎」狭霧は顔を前に向けたまま、視線だけを此方に寄越す。「そもそも、俺、機嫌悪くない」
 どこか困ったように、狭霧は眉を下げながら寄せた。
 狭霧は意地を張っているわけではない。あくまで、オレを安心させるために、ただの事実として述べている。そのことに気づき、肩の力を抜きながらわざと軽い口調を装って謝った。
「ごめん、いやな、今日のお前、ちょっといつものお前と雰囲気が違うっていうかさ。元々、学校でのお前は普段と全然違うけど、なんていうか⋯⋯、最近のお前、ちょっと変わった気がして」
「変わった?」
「オレの知らねえ狭霧、って感じがするっつうか」
「そんな俺、おらんのちゃう」
「体育大会に近衛さんを誘ったのがまずかったんかな、とか考えちまってさ」
「いや、べつに」狭霧は地面に視線を落とした。「そういうわけじゃない。大丈夫」
「なら良かったけど。ごめんな、急に」
「お前は?」
「え?」
「お前は、今、楽しい?」
 突拍子もない質問に、一瞬、なにも考えられなくなる。予期していなかった。どういう意図で投げかけられた問いなのかさえわからず、地面に視線を落としたまま俯いている狭霧の後頭部に向かって、正直に答えることしかできなかった。
「そりゃあ、お前より楽しんでる自信はあるぜ。オレ、こういう行事は結構楽しむ派だし」
 狭霧はもう一度此方を振り返り、オレを見る。
 品定めでもするかのような視線だった。否、そんな生易しいものではない。正面から、なんの遠慮もなく、一直線に、刺すような。
 たしかに、狭霧は昔からそういう男だった。小細工もない。腹の探り合いもない。真正面から貫くように、まっすぐな視線を向けてくる。そういう男だ。けれど、その視線に嫌なものを覚えるようになったのは、つい最近のことだった。
 なぜか、
 朦朧とする意識の中で見た、炎を思い出す。
 熱い。
 噎せ返るような熱風を浴びて、吸い込んだ。
 頬に、背中に、汗が伝っていた。
 けれど、四肢を駆け抜けたのは蠢くような寒気。
 炎の中から此方を見ていた、
 あの視線と同じ。
 過酷な修行が見せた幻覚にしては、生々しい、あの視線。
 いつから?
 いつから、狭霧は変わった?
 いや、答えなどわかりきっている。
 近衛斎かのじょと、出会ってからだ。
「楽しいなら、良かった」
 狭霧がそう口にしたときには、先ほどまで感じていた視線の圧力はいつの間にか消え失せていた。そこにいるのは、眼鏡と長い前髪で視界を狭め、俯く男がひとりだけ。
「狭霧も、せっかくならもっと楽しめよ」
「吐かないことが、俺の第一目標⋯⋯、だから」
「それもそうか」軽く肩を叩く。「じゃあ、とりあえず、午後の競技はちゃんと取り組めよ」
「まあ、恥かかん程度に」
「恥って⋯⋯、その前に応援合戦でダンスしなきゃならねえの、忘れてねえか?」
「忘れてた」狭霧は少し眉根を寄せた。「最悪⋯⋯」
 やがて、午後の開催合図があり、吹奏楽部の演奏と共に部活動ごとの行進が始まった。行進が終わると部活動対抗リレーがあり、その間、応援合戦のために服を着替える。女子はグラウンド脇の会館で、男子は体育館傍の道場で着替えることになっていた。部活動リレーを横目に見ながらオレは狭霧と衣装に着替える。オレたちのブロックは良心的で、お揃いのEブロックオリジナルTシャツと制服のズボンを着るだけで良かったが、他のクラスでは赤い法被にサングラスをかけたり、男子が女装していたりする。
 グラウンドに戻ると、応援合戦が始まっていた。順番はランダムに決められたようで、トップバッターはFブロックだった。近衛さんのクラスがFブロックに振り分けられている。テントの下では、近衛さんがひとり、最後尾の椅子に座って応援合戦を眺めているのが見えた。
 何ブロックかの応援合戦が終わり、出番が迫る。入場門からグラウンドに入り、配置に向かいながら、狭霧の姿を確認した。渋々足を動かして配置についている。此方を見た狭霧に笑いかけてから、そういえばオレの顔は見えていないのだと思い出して、軽く手を上げてみせる。狭霧がわかりやすく口を歪めた。それが可笑しくて、狭霧には見えていないのに、また笑ってしまう。
 変わった。狭霧は、変わったと思う。
 十八年も隣にいた。いちばん近くにいたはずだ。大事な家族で、大事な仲間だ。この身を切り捨ててでも守らなければならない男だ。
 名護真崎という人間の、存在意義そのものだった。
 けれど、狭霧がこうしてまた表情を見せるようになったきっかけは、オレじゃない。
 オレではダメだった。オレには、なにもできなかった。
 オレにはオレの成すべきことがあると、姉は言っていたけれど。
 この身は、この命は、この人生は。
 生まれたときから、オレのものじゃない。
 家のものだ。
 大義。
 正義。
 そんなふざけたものが、握っている。
 スピーカから短いノイズがして、それから、低質の割れた音がグラウンドに鳴り響いた。最近よく耳にする流行りの曲。この曲に合わせて、踊る。指示されたとおり、指示された場所で踊るだけ。
 可笑しくて、笑っちまうくらい、無意味なことだらけだと思った。