第五章 寒露

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「おにぎりが好きなの?」
 真崎と近衛の会話を聞きながら、何個目かのおにぎりに手を伸ばしたところで、近衛に声をかけられた。
「あんまり好き嫌いの分かれる食べ物じゃないと思うけど、まあ、どちらかといえば」わかめが混ぜ込まれたおにぎりを掴む。「なんで?」
「先ほどから、ずっと食べているようだから」彼女は軽く微笑んだ。「それに、私に初めて食事を摂らせようとしたときも、貴方がおにぎりを提案したでしょう。だから、特別お好きなのかしらと思って」
「ああ⋯⋯」一瞬、手に持ったおにぎりに目を向ける。「なんやろ。まあたしかに、ちょっとした思い出くらいならあるけど」
「思い出?」真崎が言葉を繰り返した。
「たしか、小五のときやったかな。そのときも運動会で、こうやって皆で弁当囲んでたんやけど、そのとき食ったおにぎりがめちゃくちゃ美味くてさ。それで、真墨に⋯⋯、あ、真崎の姉さんにな、これめっちゃ美味いけど誰が作ったんやって訊いたら、誰が作ったかは教えられへんけど、なんで美味いかは教えたるって笑い始めて⋯⋯」
「そんなことあったっけ」真崎が唐揚げを摘まみながら言った。「姉貴、なんて?」
「あんたのこと思って作ったんやから、そら美味いやろって」
「へえ⋯⋯」真崎は曖昧に相槌を打った。「え、そんだけ?」
「そんだけ」
「誰が作ったのかは、結局わからずじまいかよ」
「いや、たぶん、兄貴やと思う」
「陽桐さまが?」
「あの場におらんかったのって、お前の親父さんと、俺の父さんと兄貴くらいやろ。その中で、わざわざ誰が作ったか隠したがるのは兄貴しかおらんかなって」
「貴方のお兄様は、運動会にいらっしゃらなかったの?」近衛が訊ねた。
「昔から、父さんも兄貴も、俺の行事とか見に来たことないねん」
 小学生の頃は、学校行事や授業参観が行われるたびに父や兄に連絡帳を渡し、見に来てほしいと何度も頼んだ。しかし、何度頼んだところで、翌日には不参加に丸がついた連絡帳が自分の手許に返ってくる。そんなやりとりを何年も続けて小学校五年生になった頃には、寂しさとやり場のない怒りを抱えながら、見に来てほしいと頼むことさえなくなった。連絡帳には、自分で不参加に丸をつけるようになった。
 とはいえ、その頃には父たちの仕事が忙しいことも、不定期なものであることもなんとなく理解していた。家族仲が悪いわけでもない。家に帰れば必ず「おかえり」と言葉をかけてくれたし、どんな話でも最後まで聞いてくれる。だからこそ、学校の行事に来てくれないことが不思議で、当時の自分は不満だった。
「たぶん、家を空けるわけにはいかなかったんだろ」真崎が補足した。
「父さんならわかるけど、兄貴まで来んのはおかしいやろ。やから俺、ずっと、兄貴から嫌われてるんやと思っとったわ」
「まあ、なに考えてんのかよくわかんねえとこあるもんな、陽桐さま」
「俺からしたら、皆、なに考えとるかよくわからんけど」
「大丈夫よ」近衛の歯切れ良い声が涼やかに響いた。「貴方のお兄様は、貴方を嫌ったことなどきっと一度もないわ」
 彼女のその断定的な口調に、思わず戸惑う。
 彼女と兄の間に、また自分の知らないなにかの存在を感じて、その僅かな不満は手にしていたおにぎりと共に嚥下した。
「たしか、狭霧の兄貴と会ったことあるんでしたっけ?」真崎が近衛に訊ねる。
「ええ。一度お会いしたことがあります。外見は久遠くんとそっくりだけれど、言動はかなり異なっていたと記憶しているわ」
「片や常に笑顔、片や常に仏頂面っすからねえ」
「兄貴と会ったのって、いつの話?」ふと疑問に思ったことを訊ねた。
「三年前よ」
「三年前ってことは⋯⋯、俺らが中三のとき?」
「貴方の視界が歪んだ日」意味ありげに彼女は目を細めた。
 先日彼女とした会話を思い出し、意味もなく頷く。三年前の七月一日に出会った、ということだろう。そういえば、自分が近衛と出会った日も七月一日だった。
 呪い。
 近衛は、俺と出会う、という呪いをかけられた。中学三年生だった俺の視界は歪み、処分直前だった彼女は研究施設を脱走して、そして出会った。
 そもそも、呪いとはなんなのか。
 自身にかけられた呪いのせいで、俺の視界が歪められたのだと近衛は言っていた。それはつまり、彼女と出会うために、俺の視界が歪まなければならなかったということだ。
 視界が歪んだ日のことを、自分は正確に記憶していない。真崎はなにか知っている様子だった。実家が俺の記憶を消した可能性がある、とも言っていた。なぜ記憶を封じなければならなかったのか。なぜ、俺と彼女が出会わないよう、実家は手を回さなければならなかったのか。
 俺と彼女が出会うことを、実家は望んでいなかった。
 久遠寺はこの国の魔術組織のひとつで、どういうわけか危険な組織に狙われている。
 その組織は近衛を生み出し、監禁していた。
 まとまらない。
 決定的に、情報が足りない。
 少し俯いたまま、横目で真崎を見た。弁当を食べながら近衛と言葉を交わしている。表情はわからない。肌色の渦に、髪の色が混ざっている。僅かな起伏と、時折覗く舌の色。今、真崎が此方を見た、かもしれない。それもわからない。もう、顔を思い出せなくなっている。十八年もの間、いちばん近くにいたはずなのに。十五年の間、ずっと見てきた顔なのに。
 生まれたときから、真崎はずっと傍にいた。それが当たり前だと思っていた。久遠の家に生まれた人間には、名護家の人間が常に付き添う。そういう慣習だった。そういうものだと思っていた。
 けれど、一度気づいてしまえば、奇妙だと思わずにはいられなくなってしまった。
 真崎は名護家の長男として、その奇妙な慣習のためだけに、自分の想像など簡単に超える過酷な修行と鍛錬を積み重ねてきたのだ。
 真崎の人生は、生まれたときから決まっていた。
 いつだって、真崎は俺の傍を離れられない。それがしきたりなのだ。それが、名護家の規律のひとつなのだ。
 実家のせいで。
 名護家のせいで。
 俺の、せいで。
 真崎は自由に進路を選ぶことさえできない。
 この規律のために、真崎は部活動に入部することもできなかった。俺と共に上京して、俺と同じ高校に進学しなければならなかった。その気になれば、スポーツ推薦で好きな大学に行けたはずだ。真崎にはそれだけの能力がある。それだけの才能がある。
 それを、実家が、名護家が、俺が、全て潰している。
 真崎の人生を縛りつけるだけの価値が俺にあるとは思わない。
 縛りつけていい理由なんて、きっとどこにもないはずなのに。
「狭霧?」真崎の声に、重たい頭を持ち上げる。「どうした。気分悪いか?」
「いや」いつもどおりの声音を装った。「この卵焼き、美味いなと思って」
「卵焼きなんて、いつも弁当に入れてるだろ?」
 笑いながら真崎が答える。
 弁当づくりも、毎日の料理も、真崎が「やりたい」と望んで始めたものではないのだ。
 それが無性に悔しかった。謝りたい、と思った。
 目眩がする。
 謝ったところでどうにもならないことは、よくわかっていた。