第五章 寒露

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 体育大会当日、マンションの玄関を開けると金木犀の香りが鼻を擽った。
 夏の暑さは既にない。秋を予感させる涼しい空気が肌を撫でる。マンションの無骨なコンクリートに遮られても尚、青空は高い。
「うわ、さぶ」玄関口に立った狭霧は、開口一番そう呟いた。
「いきなり秋って感じだよな」
 扉を開けたまま、狭霧が運動靴を履き終えるのを外廊下で待つ。今日は体操服での登下校が認められている。オレも狭霧も、半袖半ズボンだった。
 玄関の鍵を閉めて学校に向かう。教室でホームルームを終えたあと、荷物を持って各自グラウンドに集合する、という二度手間の流れだ。椅子は前日にグラウンドへ運び出し、既にテントの下に並べられている。
 活気溢れるグラウンドに向かいながら、狭霧はあからさまに眉根を寄せて睨みつけている。単に視界が不愉快なのか、体育大会という行事そのものが不愉快なのかは判別できない。自分の椅子に荷物を置いて待機している間も、狭霧は仏頂面のままだ。不機嫌なわけではないと理解はしているものの、やはり気分は少々落ち着かない。
 やがて開会式が行われ、吹奏楽部の演奏や選手宣誓、ラジオ体操を一通り終えて競技が始まった。午前の間に出場する競技はふたつ。原則全生徒が出場しなければならないブロック対抗の綱引きと、男子生徒が全員出場する騎馬戦だ。狭霧曰く、騎馬戦は視界が最悪の競技であるらしい。
 綱引きのためにグラウンドに入場しながらテントのほうへ目を向けると、ひとりだけ生徒が残っているのが見えた。Eブロックのテントの下に、長袖の濃紺のジャージを着た女子生徒。間違いなく近衛さんだろう。狭霧の脇を肘で軽く小突くと、狭霧はそちらを確認してからオレに頷いた。
 綱引き後、退場して一度自分の席に戻る。狭霧は自分のリュックから白いメッシュキャップを取り出した。体育の授業や野外活動で使用する学校指定の帽子だが、実際に使っている生徒を見たことはほとんどない。
 狭霧と並んで、近衛さんのところへ向かった。
 他の生徒たちは白い半袖なので、近衛さんの長袖のジャージはよく目立つ。下は、上と同じ色の半ズボンを履いており、髪型はポニーテール。彼女のヘアアレンジを見たのは、これが初めてだ。
 オレたちに気がついた彼女は、ポニーテールの毛先を揺らして此方を見た。少し驚いているのか、大きな目を何度か瞬かせている。
 しかし、近衛さんが声を発する前に、狭霧は白い帽子を彼女の頭に被せた。
「どうしたの?」両手で帽子に触れながら、彼女が心持ち小声で訊ねた。「この帽子は?」
「俺の」狭霧が低い声で答える。「熱中症なるぞ」
「今日の昼飯、オレらといっしょに食わねえかなって。誘いに来ました」
「ええ、それは良いのだけれど⋯⋯」そこで言葉を切り、彼女は目を動かして周りを見渡す。「貴方たち、随分注目されているわ」
「まあ、そっすね。オレならともかく、学年で一、二を争う無口な男が近衛さんと喋ってるってのは、やっぱり皆、気になるよな」
 狭霧は僅かに不服そうに口を歪めたが、そっぽを向いたままなにも言わない。
 極力他人と関わらないために無口で大人しい生徒を装ってはいるが、狭霧は元々、愛想も悪く初対面の印象があまりよろしくない。眼鏡や長めの前髪も相俟ってか、かなり近寄りがたい雰囲気が出ている。体格も悪くなく、身長もそこそこある男が常に仏頂面で睨みつけてくれば、当然避けられやすくもなるだろう。
「じゃあ、オレたちは戻ります」いくつかの視線を感じながら、小声で彼女に伝えた。「昼、いつものところで」
「ねえ、この帽子、お返ししたほうが⋯⋯」
「大丈夫っすよ。それ、正直一回も使ったことねえし。昨日、狭霧が初めて押入れの奥から引っ張り出してきたくらいで⋯⋯」そこで、狭霧にそこそこの力で肩を叩かれた。「なんで、まあ、今日一日は使ってください」
「そう」彼女は帽子を被り直しながら答えた。「ありがとう。使わせてもらうわ」
「またあとで」
 狭霧は無言のままだったが、少しだけ片手を持ち上げてみせた。彼女はそれに応えるように首を少し傾けて微笑む。
「近衛さんって、体操服持ってたんだな」自分たちのテントに戻りながら、狭霧に声をかけた。
「体育の授業みたいに、制服じゃなくて良かった」
「目立つもんなあ、アレ。いや、今でも充分目立つんだけど」
「まだマシ」
 テントの下、自分の席で騎馬戦の準備をし、グラウンドに設置された入退場門の傍で待機する。これが午前最後の競技だ。念のため、狭霧にビニル袋を持たせたが、昼食前の嘔吐はできれば避けてほしい。
 騎馬戦では、オレと狭霧は別の組に割り振られている。
 団体戦の開始後、混雑するグラウンドの中から狭霧の組は早々に離脱するところだった。狭霧がさっさと退場する様子を横目に確認してから、自分の立場に集中する。足を痛めたり怪我をしないよう、注意しながら歩を進めなければならなかった。
 その後、個人戦が行われた。そちらにはオレも狭霧も出場していないので、グラウンドで様子を見守り、退場して、午前の部が終わる。学校行事独特の騒がしさを聞きながら、狭霧と共に、校舎の四階に向かった。
 天文部の部室だった狭い教室の扉を開けると、窓際で近衛さんがパイプ椅子に腰かけていた。窓の外を見ていた彼女が此方を向くと、緩やかにポニーテールの毛先が揺れ動く。彼女の膝の上には、狭霧の帽子が置かれていた。
「騎馬戦、お疲れさま」彼女が言った。「ずっと見ていたけれど、どれが貴方たちなのかは最後までわからなかったわ」
「でしょうね」思わず笑いながら、教室の扉を閉める。「体調は大丈夫っすか」
「問題ありません。ありがとう」
「これ、弁当です。朝から狭霧といっぱい詰め込んできたんで。体育大会といえば、やっぱでけえ弁当だからな」リュックの中から弁当箱を取り出して、彼女に見せた。「近衛さんもどうぞ」
「本当に大きなお弁当箱ね」
 近衛さんは窓際に椅子を置いたままその場を離れ、デスクに着席した。自分たちも、デスクの中央に弁当を置いて腰かける。プラスチックの弁当容器の蓋を開けると、不揃いな大きさのおにぎりが真っ先に目に入る。中で偏らないようにと敷き詰めたおかずも、形が少し不恰好になっていた。
「ちなみに、弁当箱はもう一個あります」
「そんなに食べられるの?」
「余裕っすよ。本当はもっと作ろうと思ったんだけど、さすがに朝の時間が足りなくて⋯⋯、実家にいるときは、重箱みたいな弁当だったんだけど」
「方丈も入れたら大人数やったしな」狭霧が相槌を打った。
「豪華さじゃ負けるけど、味は結構自信あるんだぜ」
「楽しみね」近衛さんが笑顔を見せる。
 割り箸と紙皿を配り、三人で弁当を食べていく。近衛さんはようやく食べ慣れてきたというおにぎりをちまちまと口に運んでいたが、オレたちが何度も勧めたことで、初めて彼女に卵焼きを食べさせることに成功した。
「美味い?」彼女に訊ねる。
「ええ」近衛さんは揃えた指先で口許を隠しながら頷いた。「お料理、得意なの?」
「得意ってほどのモンではねえけど。まあ、生活のために仕方なくって感じ」
「ご実家でもされていたの?」
「手伝いくらいはな。でも、毎日三食作るようになったのはこっちに来てからですよ」
「大変だったのね」
 彼女の一言に、自分はなぜか、咄嗟に言葉を返すことができなかった。
 隣に座っている狭霧も、不思議そうに此方を向いている。その目の、どうしようもなくまっすぐな視線になにもかも見抜かれてしまいそうで、答えに詰まった理由もわからないままオレはそちらを見ることさえできなかった。