第五章 寒露

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 翌日の放課後、俺は近衛と天文部の部室にいた。窓からグラウンドが見下ろせる。そこに真崎がいるらしい。選抜リレーに向けた練習が、現在、グラウンドで行われていた。
 真崎は、体育大会の目玉であり最後を飾る競技であるスウェーデンリレーの選手に抜擢されている。それもアンカーだ。どの部活にも所属していない男が陸上部の人間を差し置いてアンカーを担当しても良いのだろうか、と一抹の不安を覚えたが、誰も文句を挟むことはなかった。
 本来ならば真崎の目が届く位置で見学するべきだが、真崎に無理を言って、教室で待たせてもらえることになった。真崎がこの教室に簡単な結界を張ったらしい。自分はまだ魔術の存在をうまく呑み込むことができておらず、真崎のように素早く順応はできないが、ようやくそういった単語に過剰な反応をせずに済むようになってきた。もっとも、結界は仏教用語としてもよく使われる言葉であり、自分の目にも歪んで視えることが判明したため比較的受け入れやすい。
「あまり結界を視ないほうがいいと思うわ」近衛は窓枠に肘を置いて頬杖をついている。
 俺は柱に背を預け、扉のほうに向けていた顔を正面に戻して彼女の横顔を見た。
 開けられた窓から弱い風が流れ込み、彼女の長い髪を僅かに揺らす。すぐに此方の視線に気づいた彼女は、頬杖をついたまま首を傾けて微笑んだ。
「ちなみに、あんまり視んほうがいい理由は、教えてくれるんか」
「そうね」近衛は一度空に視線を向けたが、緩やかに瞬き、此方に顔を戻す。「今の貴方を見ていると、なんだか、少し危うい感じがするだけよ。自傷を繰り返すことで痛みに慣れようとしているみたい」
「歯切れが悪いな」躰の右側を窓に押し当てるようにして預けた。「珍しい」
「私、魔術には詳しくないの」
「危ういのは、どっちかっていうとお前やと思う」
 近衛は少し笑ったが、視線を外すと、また窓の外に顔を向けてしまった。グラウンドから聞こえる遠い歓声が、狭い部室の静寂を引き立てている。
「魔術を使用するためには、意識の切り換えが必要だと名護くんから聞いたわ」
「ああ、あの、テレビのチャンネルみたいなやつ」
「貴方の目に映る歪みの正体が魔力、或いは魔そのものである以上、貴方のチャンネルは常に切り換えられたままだということよ」
「それって、前のチャンネルに戻れんくなるかもってこと?」
 近衛は此方を一瞥して頷いた。
「戻れるかどうか、そんな不確かなことを、貴方の視界を奪った原因のひとつである私が言及すべきではないのかもしれないけれど」
「なあ、それ⋯⋯」眉間に力が入る。「どういう意味なん」
「それって?」
「前も言うてたやん。俺の視界が歪んだのは自分のせいとかなんとかって。今も、原因は自分や、とかさ」
「私、呪いをかけられていたの」
「呪い?」
 近衛の髪が風に靡く。窓の外に広がる青空は抜けるように高い。澄んだ空気のためか、彼女の細い髪の一本一本まではっきりと見える。視界の隅に映り込む己の手とは比べ物にならないほど、彼女のエッジは鋭く、なによりも明瞭だった。
「事故だったのよ」彼女は靡く髪を軽く片手で押さえた。「処分日の直前、私は呪いをかけられたの。組織の⋯⋯、直継の悲願成就を阻む存在として目をつけられていた呪いの子にね。彼女の呪術は、かぎりなくゼロに近い可能性を確定させてしまう、いわば、絶対に起こり得ない事象を起こす呪い。運命干渉を可能にする悪魔のような力。もっとも、そのとき彼女の呪術は暴発状態にあって、彼女は呪う相手も、その内容もコントロールできる状態にはなかったわ」
「その呪いって、どんな?」
「貴方に出会うこと」
「え?」予想だにしない言葉に、俺は窓から躰を離した。「俺?」
「貴方のご実家は、とても優秀な魔術師たちが集まっておられるのね。私が貴方と出会うことがないよう、徹底的にその可能性を排除するため、さまざまな魔術的措置や物理的措置を執っていたのでしょう。それがいけなかった。可能性をゼロに近づければ近づけるほど、彼女の呪術はそれを確定してしまう。起こり得る事象であれば、彼女の呪いの力は及ばなかったでしょうに」
「え、待って、それじゃ、」唾を呑み込む。速度を増した鼓動を感じた。「俺とお前は、絶対、出会うはずがなかった?」
「ええ」彼女だけが、綺麗に微笑む。
「でもなんで俺の家が、そんな、出会わせんように邪魔する真似なんか⋯⋯」
「出会えば貴方たちが狙われるもの。当然の判断だと思うわ。現に、貴方たちは文化祭で狙われてしまったでしょう?」
「それは、そうやけど」
「貴方と私が出会う。その事象が確定してしまった瞬間、貴方の視界は歪まなければならなくなった。三年前の七月一日。それが、私に呪いがかけられた日。そして、貴方の視界が歪んだ日」
「でも、それはお前のせいじゃない。たしかに、お前に呪いがかけられたせいで俺の目がこんなんになってもたんかもしれんけど、でも、お前が責任を負わなあかん話じゃないやろ」
「そうでもないわ。彼女の呪いには、一度だけ、解呪できる機会があるの」近衛は窓枠から手を離し、俺と向かい合うようにして立った。「呪いをかけられてすぐ、私が自害する。その機会を逃せば、呪いが達成されるまで解放されることはない。私は、その場でこの命を断つべきでした。そうしなかった理由が、貴方にわかる?」
 手を伸ばしても、僅かに届かない距離。
 そこで、彼女は微笑んでいる。
 目を離すことができない。
 指先を動かすことさえままならない。
「私は、貴方を危険に晒すと理解した上で、貴方に出会うことを選んだのよ」身動ぎさえ許されない静寂を、しかし近衛は歯切れ良い発声で震わせた。「私の選択が、貴方の視界を歪めた。私の選択が、貴方の日常を奪ったの」
「たとえそうやったとしても、俺の気持ちは変わらんからな」
 俺の言葉に、近衛は笑顔をゆっくりと落とした。小さな唇は形良く結ばれ、此方をまっすぐに見据えたまま彼女は動かない。
「お前が生き延びてくれて良かったと思う。それは、お前からどんな話を聞かされたところで変わらん」俺はそれだけ伝えてから、テーブルに近づき、パイプ椅子を少し引いた。「嬢さん、座ったら」
「どうして?」
「お前、今そんなに調子良くないやろ」
「たとえば?」
「たとえば⋯⋯、頭痛とか」
「あら⋯⋯」近衛は一度瞬き、少し目を見開いた。「どうしてわかったの?」
「なんとなく元気がなかったから」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
 彼女がパイプ椅子に座る。俺がその隣に腰かけると、近衛はテーブルに両肘をついて緩く腕を組み、上体を前傾させた。腕に頬を乗せて、此方を見る。
「ありがとう」小さな声だった。「貴方のその言葉だけで、生きていけるわ」
「大袈裟な奴やな」
 近衛は微笑みを返すと、長い睫毛を幽かに震わせて、そのまま瞼を静かに閉じた。