第四章 白露

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 事情聴取が終わって、オレと狭霧は、病院の中にあるコンビニで買った弁当を食べた。近衛さんはときどき目を瞑っていたが、浅い眠りの直前といった様子で、眠れているわけではなさそうだった。
 冷蔵庫に入っていた水をグラスに入れて飲む。ベッドサイドに置かれているチェストに彼女のグラスを置くと、躰を起こしたいので手伝ってくれ、と頼まれた。ベッドと彼女の躰の隙間に片手を差し入れて背中を支えると、簡単に彼女の躰を起こすことができた。あまりにも軽い。もしかして、この軽さのおかげで、飛び降りても潰れなかったのではないか、と考えてしまうほどだった。
 近衛さんは上体を起こしてベッドに座り、先ほど置いたグラスを両手で持って水を一口飲んだ。入院患者用の病衣から、細い腕とガーゼが覗く。その白さが痛々しい。
「どうして、飛び降りたんですか」女性の刑事がしたのと同じ質問をする。
「私に残された時間はあと僅かです」彼女も同じ答えを繰り返した。しかし、先ほどとは異なり、さらに答えが続く。「私は発見され次第すぐに殺される予定でした。そして既に、私の居場所は特定されています。メンテナンスも行えず、肉体維持も限界を迎えていました。もう時間がなかったの」
「殺されるってのは、その、近衛さんがいたっていう研究施設の人間に?」
「私は処分当日に脱走した実験動物です。処分を急ぐのも当然でしょう」
「その、実験動物って言うの、やめてくれ」狭霧が低い声で言った。「事実そうやったとしても、お前が自分でそう名乗る必要はないやろ」
 近衛さんは狭霧の顔を見ると、弱々しく微笑んだ。それから、もう一度グラスに口をつけて、チェストにグラスを置いた。
「生きたまま、躰に穴を開けられるの」
「え?」
「切開されたまま、放置されたこともあるわ。私の細胞は特殊な作りをしているから、回復までの作用機序や、それに要する時間を確かめるための実験だった。そう⋯⋯、その程度なら、麻酔を使うこともない。どれほど悲鳴を上げても、どれほど悶絶してみせたとしても、彼らは顔色ひとつ変えない。暴れるな、とより強い力で取り押さえられるだけ。そのとき、私の隣で、生きたまま足の付け根から骨を抜かれた人間が息絶えたことをよく覚えています。別の日には、生きたまま、私の隣で胎児の首が切断されていたわ。首を切られても、手足はまだ少し動いているのよ。血も止まらない。けれど、彼らは脳を摘出するのに必死で、そんなものに見向きもしない。口が動いている間に脳を摘出しなければならないのですって。そう言って、摘出を実践しながら若い研究員に教えている人がいたわ」
「もういい」狭霧の声は震えていた。
「動かなくなった頃に、ようやくその胎児を、たくさんの胎児だったものが詰まった黒いビニル袋に投げ入れるの」
 狭霧が立ち上がる。
 大きな歩幅で彼女の傍までやってきたが、声を詰まらせて、ただその場に立ち竦んでいる。腕が震えるほど、手のひらに指を食いこませて拳を握っていた。
「貴方の目に私が歪まずに映る理由、知りたいでしょう?」
「もういい、近衛」
「私は、正しい生き物ではないのよ」
「お前は、」
「私は」近衛さんが、目を閉じる。「近衛斎ではありません」
 狭霧はなにも言わずに、唇を嚙み締めて俯く。オレも、言葉を発することができなかった。
 どの言葉も適切ではない、と思った。
「禁忌を破る儀式のため、直継の手によって生み出された依代の器です。私は、長く続いた実験の中で生まれた、初めての成功体だった。だから、処遇も特別でした。サンプル摘出のために殺されることもなかった。厳重に管理されて、生きることが許されていた。ひととおりの知識のインストールも行われた。けれど私は、私という自我を生み出してしまった。直継にとっては、それだけが想定外でした」
「器ってことは⋯⋯」声を出すと、乾いた喉に唾が引っかかった。「あんたの躰に、神様でも降ろすつもりだったのか?」
「ええ。神様ではなかったけれど」
「でもさっき、成功体だって言ってたよな」
「そうね」
「つまり、今、あんたの中に、誰かいるのか」
「もういないわ」彼女は呟くように答えた。「とても優しい人だった。私という自我が生まれていることを知ったときから、あの人は、私という自我を消滅させないために、絶対に表に出ることはなかった。私という自我を守るためだけに、あの人は消えてしまったのよ」
「あの人?」
「直継が求め続けていた人です。禁忌を侵す儀式のために必要だった人。この肉体に宿るはずだった意識。この器の持ち主のことよ」
「なあ、まさか、」
 一瞬にして情報の断片が繋がり、ひとつの意味を成す。
 心臓が突然、鼓動の速度を増した。
「オレらは、その儀式ってのに巻き込まれてんのか?」
 彼女が、目を開ける。
 狭霧とオレの姿を捉えた瞬間、彼女は眉根を寄せて顔を歪めると、その場に力なく崩れ落ちる。
「ごめんなさい」震えた声。「貴方たちを巻き込んだのは、私です」
 震える両手を持ち上げて彼女は顔を覆った。
 さらに俯く。長い髪が彼女を覆い隠し、黒い曲線のラインが、白いシーツを疎らに乱す。
「あの日、処分されておけばよかった」か細い声。洟を啜る、小さな音。「逃げ出したりしなければよかった」鼻にかかった声。「もっと早く、貴方を一目見た次の日に、飛び降りてしまえばよかった」
「嬢さん、」狭霧の声。
「私が、あと一日早く殺されていれば」今にも消えてしまいそうに、弱々しい呼吸。「貴方の視界が、歪むこともなかったのに」
「え?」オレと狭霧の声が重なる。
「お願い、許さないで、私を恨んで、憎んで、」
「嬢さん」 
「私が、貴方の幸せを奪ったの、」
 狭霧が大きく、息を吸う。
「私が貴方の日常を壊したの、」
 狭霧はベッドの縁に腰かけると、腕を伸ばした。
 一瞬、躊躇い、
 けれど彼女の背中に恐る恐る腕を回す。
「ごめん」そう呟いて、狭霧は近衛さんを抱き寄せた。「俺、なんにも知らんくて、めちゃくちゃ自分勝手やから、俺はお前が殺されんで良かったって思う」
「違うの、私が、」
「お前が逃げてくれて良かった。俺に声かけてくれて良かった。助かって良かった。間に合って良かった。こんな目になって、正直、めちゃくちゃしんどかったけど、ほんまに苦しかったけど、それでも、こんな目になったからお前を見つけだせたんやとしたら、良かった」
「ごめんなさい、私、私には、貴方に抱き締められる資格なんて、ないの」
「近衛、」
「なのに、今、温かくて、」彼女の声に、嗚咽が混ざった。「あと少し、もう少しだけって、いつも、」
「うん」狭霧は慣れない手つきで背中をさすっている。
「あと少しだけ、生きていることを、許されていたかった」
「近衛」背中を一度、そっと叩く。「生き延びてくれて、良かった」
 彼女は狭霧の肩に額を押しつけている。
 顔を埋めて、薄い躰を震わせていた。
「恨めって言うんやったら、俺のことも恨んでくれ。考えたら俺、この目のせいで人生めちゃくちゃになったとか⋯⋯、たとえほんまに、お前がこの目の原因やったとしても、お前に最低なこと言うたことには変わりない。挙句の果て思っくそ引っ叩いたし、いちばんに恨まれるべきはどう考えても俺やろ」狭霧は腕を解くと、しばらく俯きながら視線を彷徨わせていたが、やがて彼女の顔を覗きこんだ。「なあ、やから、泣かんといて」
「無理よ、」
「俺、どうしたらええかわからん」
「貴方のせいなのに、」
「うん」狭霧は頷いてから、困ったような笑みを見せた。
 どこか歪で不慣れな、けれど、それはたしかな笑みだった。