7/久遠狭霧
真崎の制止を無視して部屋から飛び出したものの、先に帰宅するわけにもいかず、フロアの専用ラウンジに足を運んだ。共有スペースのような場所だが、周囲は暗く誰もいない。昂った神経と目眩で覚束ない足取りのままカーペットに足を踏み入れると、軟らかい暖色の明かりが自動で点いた。
革張りのソファに腰を下ろし、背中を預けて目を瞑る。
右の手のひらは、まだ熱を孕んでいる。
昔から短気で、感情的になりやすい自覚はあったが、手が出たのは久しぶりだった。その上、意識が回復したばかりの彼女に手を上げるなど、子どもの頃よりも酷い。
手のひらに、痺れのような痛みが散るように走る。
彼女の言葉を思い出すと、怒りよりも脱力感に襲われた。
あんなにも、己の命を粗雑に扱う人間を見るのは初めてだった。誰もが皆、命の尊さを説く中で、彼女だけは違った。赤の他人のために、彼女は躊躇いもなく命を賭けた。当然のように、命に順列をつけようとする。
俺は、彼女に命を差し出される覚えはない。そんなことをしてほしいとも思わない。そうだ、そもそも、勝手に助けようとしているのは彼女のほうではないのか。それは、真崎に対しても言えることだ。
恐ろしいと思う。いとも容易く自らの命を差し出せてしまうあのふたりが恐い。理解ができない。許容もできない。なによりも、俺のため、という言葉が許せない。
守られることしかできない自分が悔しい。
俺は、誰にも死んでほしくない。
俺のためだと言うのなら、生きていてほしい。
今、彼女の冷たい体温を思い出しただけで鼓動が速まった。あまりにも弱い呼吸を思い出して、全身から血の気が引いた。俺の手を握り返した、そのあまりにも弱い力を思い出して、涙が出そうになった。
もう二度と、こんな思いはしたくない。
目を開けた。
両手の指を組む。力んだ手は、勝手に震えている。
ソファに腰かけたまま背中を丸めて、組んだ両手を額に押しつける。
しばらくそうしていると、いつの間にか真崎が目の前に立っていた。全身が重く感じられたが、無理やり頭を持ち上げる。真崎は握り込んだ右手で俺の頭を一度押さえつけてから、隣に勢いよく腰を下ろした。
「近衛さん、口の中切って出血してたぜ」手をポケットに入れたままソファに座った真崎は、足を広げて伸ばした。「どうするつもりだよ。謝って済むなら警察いらねえぞ」
「わかっとる」
「お前があんなにキレてんの、久しぶりに見た」
「俺も、自分があんなことするとは思ってなかった」
「やっぱりお前、最近、少しずつ昔のお前に戻ってきてんじゃねえの?」
「成長してないって言いたいんか」
「前に進むことだけが正しいってモンでもねえよ」真崎が、ソファの背に躰を預ける。「普通は、大人になることを成長っていうんだろうけど、大人になって失っちまうモンだってたくさんあるだろ」
「ようわからん」
「お前はさ、どうしたい?」
「なにを」
「うーん、そうだな」真崎は少し笑ったようだ。「これからってやつ?」
横を向いて、真崎の顔を見た。表情はわからない。大部分が肌色で、躰の中心に向かって強く巻いた渦の波形が、俺が知る真崎の顔。整った顔立ちの記憶は、もはや遠い。
けれど、俺はこうして、真崎を正面から見据えることができる。できるようになった。見知った顔が化物にしか見えなくなったあの日から、何度も泣いて、何度も叫んで、矛先を失った怒りを何度も撒き散らして、何度も何度も吐き戻して、そしてようやく、ここまできた。
目を潰さなくて良かった。
真崎が何度も止めてくれて、良かった。
海を見た。
空を見た。
歪まない少女をひとり、見ることができた。
あの頃の俺は、あんなにも美しい景色をもう一度見ることができるなんて、夢にも思ってもいなかった。
もしも彼女が歪んだとしても、きっと生きていけるだけの景色を貰った。
汚すことを躊躇って、彼女を助けられないのは、もう嫌だった。
立ち上がる。
真崎は座ったまま、此方を見上げている。
「俺は、知りたい」右手を、強く握り締める。「なにも知らんまま、守られるだけなんて絶対嫌や。俺はほんまのことを知りたい。俺にできることを知りたい。俺にできることを、したい」
「お前は、なにも知らずに守られることしかできないとしたら?」
「それで誰も犠牲にならずに済むんやったら、いくらでもそうしたるわ」
真崎は数秒ほど、なにも答えなかった。
やがて、息を静かに吐き出して、その場に立ち上がる。
「なあ。オレ、前言撤回するわ」
「は?」
「お前は、昔のお前からちっとも変わってねえよ」
「それ、やっぱり成長してないってことやん」
「いいんだって。それはお前の、核みたいなもんだ。核を守ってる周りの部分は成長していかねえとダメだけど、中心はそのままでいい」真崎は腕時計を確認した。「もうすぐ、警察が来る時間だな」
「もうそんな時間か⋯⋯」自分の腕時計を確認すると、夜の八時前だった。
「さすがに腹減りすぎて倒れそう」
「血ィ抜いたばっかりのお前が言うと洒落にならん」
「だから大丈夫だっつの。場を繋いだだけで、そう、献血みたいなもんだし」
いろいろと言いたいことはあったが、大人しく真崎の後ろをついて歩き、彼女の病室に戻る。病室というよりはマンションの一室に近い。マンションでいうところの玄関に当たるドアを開けると、自動で電気が点いた。警察が来るまで彼女を寝かせてやれ、と真崎が言ったので、リビングのソファで待つ。
八時を過ぎた頃、玄関が開き、院長とふたりの警察が入室した。五人で彼女の寝室に入る。彼らは彼女のベッドの前に立ち、俺と真崎は部屋の右手に置かれていた小さな丸いテーブルに着く。彼女の枕許には即席の氷嚢が置かれていたが、彼女はタオルでそっと隠してしまった。
「こんばんは、警察の者です」スーツを着た警察官のひとりが名乗る。女性の声だった。「ご気分はいかがですか?」
「問題ありません」彼女は寝転んだまま、歯切れよく答えた。
「今から少し時間をいただいて、お話を伺いますが、しんどくなったときは遠慮なく仰ってください」
「ええ」
「では、状況の確認から⋯⋯」女は手帳を取り出して言った。「まず、昨夜の午後八時半頃、高校の屋上から貴女が飛び降りた。連絡が取れないことを不審に思った彼らふたりが、貴女の家を訪ねたが不在。そこで学校に侵入し、貴女を見つけて救急に連絡をした。貴女は飛び降りた際、木の枝に引っかかったことで失速し、茂みに落下したことで一命を取り留めることができた。このとおりですね?」
「そうね」
「お話できる範囲で構いません。どうして飛び降りたのですか?」女の口調は軟らかだった。
「私に残された時間はあと僅かです」
「それは、どういう意味ですか?」
「そのままの意味よ。だから、自分で飛び降りることにした。それとも、他の理由が必要かしら?」
「いえ、それでかまいません」女は手帳にメモをとっている。「では、どのように学校に侵入したのか、その方法を教えていただけますか?」
「簡単なことです。ずっと学校にいました」
「侵入したのではなく、ずっと中にいたのですね?」
「ええ。屋上の前にいました。見回りの方も、そこまではご覧にならなかったの」
「屋上には、どのように?」
「鍵が開いていました」
「学校側は、封鎖しているとのことでしたが⋯⋯」
「看板はありました。でも開いていたわ。その理由は、私にはわかりません」
「わかりました」女が手帳を閉じる。
近衛が目を閉じたのを合図に、ふたりの警察官は病室をあとにした。