第四章 白露

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 その後、休憩室に訪ねてきた警察官ふたりの質問に答えてから、真崎と共に病院をあとにした。わざわざロビーまで見送りに院長からは、明日も病院に来るようにと念を押された。
 帰宅後、リビングでカツ丼を食べていると、兄から電話があり、俺たちは警察にした説明を繰り返す。
『向こうも、表沙汰にはできんはずや』どこから電話をかけているのか、潜めた声で兄が言った。『それ以上の説明はせんでいい。話の辻褄合わせも要らん。その説明だけを繰り返しといて』
「表沙汰にはできんって、また家が一枚嚙むつもりか?」テーブルの上に置いた携帯に向かって言った。
『いや、俺は今、ちょっと下手に動けんのよ⋯⋯、でも、俺らが手出しせんでも、どうせそうなる。安心しい。それより、真崎くんは? 体調はどう?』
「あ、オレは大丈夫です」真崎が答える。「場を繋いだだけなので、そんなに抜かれてませんし、躰は丈夫なんで」
『少しでも異変があったら、遠慮せんと、すぐ病院に行くんやで』
「狭霧と同じこと言ってますね」
『明日も病院行くんやったっけ?』
「そうです」
『わかった⋯⋯、斎ちゃんの意識が戻ったら、また教えて』
「了解しました」電話が切れると、真崎が遠慮がちに此方を向いた。「陽桐さまに、なにか訊かなくて良かったのか」
「俺、もっぺんシャワー浴びてくる」半分も食べていないカツ丼に蓋をする。「お前も早よ寝て、休めよ」
 自室に戻って着替えを用意し、シャワーを浴びる。自分の両手は、もうすっかり、いつもどおりの歪み方をしていた。
 彼女の血に濡れている間だけは、歪まなかった。
 彼女の血を一瞬でも美しいと感じてしまった自分が後ろめたくて、血が出そうなほど自分の手を擦り続けた。しかし、その鮮明な映像は、目の奥にこびりついたまま薄れる気配を一向に見せなかった。
 真崎と次に顔を合わせたのは朝だった。制服に着替えて登校し、授業を受ける。家で休めと一度止めたのだが、真崎が弁当作りをサボることで俺が折れた形だ。
 放課後は、学校から総合病院に直接向かった。真崎の診察を終えて待合室のソファに座っていると、昨日と同じ医者がロビーまで出迎えにきた。今日は、別の棟の部屋に通される。部屋の内装は昨日の会議室と似ているが、より重厚な色合いで、カーペットも毛足が長い。
 医者は、部屋に入ると扉の鍵を閉める。彼は、この病院の院長だった。
「近衛斎さんの容体ですが、まだ意識は戻っていません」中央の大きなテーブルを挟んで席に着くと、院長はゆっくりとした口調で話し始めた。「しかし、危機は無事に脱することができました。間に合って良かった。昨日は本当にありがとうございました。経過も問題ないようで、安心しました」
「お気遣いありがとうございます」椅子に腰かけたまま、真崎が頭を下げる。
「本日は、この病院について、ご説明をしなければなりません。それから、彼女についての検査結果についても、お話できればと考えています」
 部屋の奥の扉がノックされ、事務員が現れた。テーブルの上に緑茶と和菓子が用意される。扉が閉まると、院長は再び口を開いた。
「単刀直入に申し上げますと、此処は日本の魔術組織に所属する病院です」院長は手を差し出した。「どうぞ、召し上がってください」
「その、魔術組織というのは?」真崎が訊ねる。
「たとえば、貴方たち久遠寺が、日本の魔術組織の中でも特に古い歴史をお持ちのように、他にもさまざまな組織があります。日本は大陸とは異なり、閉鎖的かつ独自の魔術体系を確立してきました。魔術にも、多くの派閥や種類があります。そうですね、たとえば、宗教という括りの中でも、キリスト教や仏教、イスラム教や神道など、さまざまな種類があり、その中でもさらに派閥が存在しますね。それと、構造はよく似ています。魔術組織は、そういった宗派ごとの教会や寺院にあたるもの、とお考えいただければ」
「宗教と魔術には、なにか関係があるのですか?」
「いえ⋯⋯、必ずしも、宗教組織が魔術組織である、と言えるわけではありません。逆も然りです。しかし、密接な関係にあることもまた事実です。相性が良いのでしょう」
「なるほど」真崎は茶を一口飲んでから頷いた。「そういえば、私の父も、そのように申しておりました」
 真崎はときどき、別人のような言葉遣いをする。自分も厳しく注意されてきたが、ここまで見事に切り換えることはできない。
「我々は中立であることを条件に、魔術に関する研究を行っています。とはいえ、魔術の存在を知る人間は上層部に紛れ込んでいる程度の、比較的小さな規模の組織です」
「あの、それで⋯⋯」口を挟むと、院長が此方を見た。「昨日仰っていた、彼女を匿う、というのは?」
「日本には今、或る魔術組織が潜伏し、活動しています。ごく少人数にも関わらず、西洋魔術の中でも異端と呼ばれる組織で、その影響力は計り知れません。危険視されています。先日お伺いしましたが、貴方たちも、襲撃されたとか⋯⋯」
「あの集団ですか」文化祭の日に現れた、黒いスーツの男たちを思い出す。
「西洋魔術とはいえ、トップは日本人でしてね。その組織は、直継と呼ばれています。近衛斎さんは、そこからの脱走者です」
「え?」
「脱走?」真崎も、驚いたように目を見開いていた。「じゃあ、近衛さんも、その直継とかいう組織の一員だったのか?」
「いえ⋯⋯」院長は躊躇いがちに言った。「研究者という立場からより正確に申し上げますと、彼女は⋯⋯、直継の研究施設から脱走した、実験動物です」
「じ、実験動物って⋯⋯」テーブルに手をつき、勢いよく立ち上がる。「ちょお待ってください、そんな言い方、さすがに⋯⋯」
「お気持ちはお察しします」
「若。お座りください」真崎の口調は、既に切り換わっていた。
 院長を睨みながら、その場に座り直す。
「実験動物って、どういうことですか」
「直継は、異端の組織です。彼らは、科学技術に魔術を組み込むことで、科学のみではいまだ辿り着くことができない生命の神秘に到達し、生命倫理を脅かしています。つまり、その⋯⋯、彼女は人工的に産み出された生命です」
「でも、それでも、人間であることに変わりはないはずです」
「もっとも、あの組織では、母胎を介さずに生命を産み出すことなど日常茶飯事です。ただし、彼女は、さらに人の手を加えられており⋯⋯、遺伝子組換え、という言葉はお聞きになったことがあるかと思いますが、そういった遺伝子操作により生まれた生命は、この世に存在しない遺伝情報を持っています。その流出は生態系を脅かすものとして、一切の流出がないよう、厳重に取り扱うことが義務付けられています」
「そんな、いくらなんでも、話が突然すぎて⋯⋯」
「国家の目を掻い潜って生み出された、異端の魔術組織による完全人工生命体⋯⋯、ええ、理解が追いつかないのも無理はありません。ですが、これが事実です。それにしても、まさかあの近衛家に匿われていたとは、私も驚きました」
「本当にそれだけですか?」真崎が訊ねた。「もちろん、その事実だけでも充分に重大な情報です。しかし、それだけで、彼女を匿わなければならない理由になりますか?」
「彼女の存在自体が、国家にとって容認しがたい存在であることは事実です」院長が頷いた。「組織としても、脱走した実験動物は急ぎ確保し、処分しなければなりません。そういった双方から匿うことができるのは、近衛家や、我々のような中立組織だと、久遠寺は判断されたのでしょう」
「失礼します⋯⋯」奥の扉がノックされ、再び事務員が姿を見せた。「院長。近衛さんの意識が戻りました」