4/名護真崎
近衛さんが運び込まれたあとも、しばらく救急車は裏門で停車していた。救急車を呼んだあとで、裏門の鍵を解錠しておいたのだ。外からは開けられないが、パスワードがわかれば中から開けることができる。一度、先生の指を盗み見たことがあり、簡単な語呂合わせになっていたので覚えていた。
救急車の傍に佇む狭霧に傘をさしてやるものの、既に狭霧はシャワーでも浴びたように濡れそぼっており、服も完全に変色している。両手は昏い色をした血に塗れていた。
「総合病院に向かっていただけますか」タオルを渡しに来た救急隊員に、突然、狭霧が口を開いた。
「総合病院?」オレは狭霧に訊ね返す。「もしかして、例の病院、見つかってたのか」
狭霧は無言で頷いた。
「総合病院が受け入れてくださるどうかは、まだ連絡していませんが⋯⋯」救急隊員が、少々訝しげな様子を見せながら言った。
「大丈夫だと思います。あの、ちょっと特殊な事情があって⋯⋯」狭霧の代わりに自分が答える。「他の病院では、受け入れてもらえないと思うので」
「わかりました」救急隊員が頷いた。「彼女の身元が確認できるものや、血液型などはご存知ですか?」
「血液型はわかりません。身分証明書も⋯⋯、久遠と言っていただければ通じると思いますが」
「彼女の名前は?」
「近衛です。近衛斎といいます」
「では、久遠というのは?」
「俺です」狭霧が口を開いた。
「同乗していただけますか?」救急隊員が強い口調で言った。「一刻を争います」
警察を待たなくていいのか、と不安が過ったものの、すぐにふたりで乗り込んだ。できるだけ端に躰を寄せて座るが、救急車の中はかなり狭い。
まもなく救急車はサイレンを鳴らして出発した。
狭霧は固く両手の指を組んでいる。雨と混ざった血が、狭霧の手に滲んでいた。
規則的な電子音。
慌ただしい指示が飛び交う車内。
「病院捜しが間に合ったのが、不幸中の幸いだったな」狭霧に小声で話しかける。「いつ連絡があったんだ?」
「夏休みが明けて⋯⋯、始業式のあとくらい」さらに潜めた低い声で狭霧が答えた。「近衛には、連れていくことになるまで、勝手に病院を捜したことは黙っとこうと思って⋯⋯」
「正解だったと思うぜ」
「でも、なんで、こんな」狭霧は額を、組んだ両手に押し当てた。「俺のためって、なんなん、どういうことなん」
救急車は何度も大きく揺れながらも病院に到着し、彼女は真っ先に救急治療室に運ばれた。
入れ違いに、医師のひとりが此方に近づいてくる。
「久遠さんですね?」眼鏡をかけた、あまり医師らしくない雰囲気を纏った男性だった。
「はい。久遠狭霧です」
「ご心配でしょうが、ひとまず、此方へ」
医師に案内されたのは、不透明なガラスの壁に囲まれた無機質な小部屋だった。会議室のようなデスクと椅子が部屋の面積のほとんどを占めている。
グレィのカーペットが、狭霧やオレの躰を滑り落ちた雨の雫で、ところどころ変色していた。
「すみません、こんな、びしょ濡れで⋯⋯」狭霧は慌ててタオルで手を拭いたが、すぐに事務員らしい女性が新しいタオルとウェットティッシュを持ってきた。
「ただいま、血液検査を行いながら輸血の準備を進めています」オレたちの向かいに腰かけた医師は、両手をデスクの上で組んだ。「彼女の事情については、既に把握しています。お約束どおり、我々が匿いましょう」
「匿う、ですか?」狭霧がタオルで頭を拭きながら、怪訝そうに訊ねた。
「既にご存知のことと思いますが、この病院は⋯⋯」
「失礼します!」激しいノック音。続けて、扉が勢いよく開けられる。「すみません、先ほどの救急の患者ですが、血液型が⋯⋯」
「まさか、ABO血液型判定が?」医師は僅かに腰を浮かせた。
「結果が一致しません。現在、不規則抗体のスクリーニングを行っています」
「Rh Dは?」
「マイナスです」
「考慮はしていましたが、まさか本当に⋯⋯、今すぐ切り換えて、Rh Dマイナスを輸血するしか⋯⋯」
「しかし、院長、今から要請していては間に合わない可能性が⋯⋯」
「オレ、O型のRhマイナスです」
オレの言葉に、医師は弾かれたように顔を上げた。
「その血液型は正確ですか?」
「たぶん。父も姉も、同じ血液型です」
「輸血を受けた経験は?」
「ありません」
「成功するかどうかは五分五分です。しかし、迅速に輸血を行わなければ、助かる可能性はありません。我々はなによりも、救命を優先したいと考えています」
「助かる可能性が少しでもあるなら、そちらに賭けます」
「ご協力に感謝します」医師が立ち上がった。「君、同意書の手配も急ぐよう、伝えてください」
「わかりました」部屋の入口に立っていた医者は、力強く頷くと、部屋から一歩外に出た。「それでは、此方に」
立ち上がり、医者の後ろをついていく。
「真崎⋯⋯」狭霧の声に振り返ると、驚いた顔をして此方を見ていた。
「なんか、ガッツリ食える夜食、用意しといて」
狭霧が顔を歪めながら頭を下げたのを見てから、オレはその場を離れた。
そこからは、怒涛のようにさまざまなことが起こった。
彼女の血液検査や輸血試験を行いながら、発注した血液が到着するまで血を抜かれた。しばらく安静に過ごすようにと休憩室のような個室に案内され、簡易ベッドに寝転ぶと、すぐに狭霧が姿を見せる。大きなビニル袋と紙束を持っていた。
「まさか、血を抜くことになるとは思ってなかった」
寝転んだまま笑いながらそう言えば、狭霧はますます眉を顰めた。
「ほんまに大丈夫か。無理して元気なふりとかせんでええからな」
「オレそんなことする奴だと思われてんの?」
「実際そうやん」
「その紙は?」
「同意書」ビニル袋を傍のテーブルに置き、狭霧は見えるように紙を持ち上げた。「まあ、俺ら未成年やし、近衛の事情が特殊やから、ほぼ形式上みたいなもんらしいけど」
「同意書なんて、大体そんなもんだろ。そんで、そっちの袋は?」
「下の売店で買ってきたカツ丼」
「は?」予想外の単語だった。「カツ丼?」
「え、ガッツリ食える夜食って言うとったから⋯⋯」
ビニル袋から本当に特大サイズのカツ丼がふたつ登場し、オレは咽せるように噴き出して笑った。狭霧はどんどん眉を顰めながら視線を逸らしていく。
「そんな、労る気ゼロの食事、」笑いすぎて、頭の隅がじんじんと痺れ始めた。「お前ってほんと、変なとこ抜けてんだよな。いや、食べる食べる。なんならお前の分も食えるから。任しといて」
「ごめん⋯⋯」
「気にすんなって。もうちょっと休んでから、ありがたくいただくし。だから、先に食べてていいぜ」
「いや、俺は⋯⋯」
「近衛さんなら、大丈夫だ」
狭霧は近くの椅子に腰かけると、目を閉じて、両手で顔を覆った。いつの間にか、両手の血は跡形もなく拭われていた。
「最悪の事態は免れたってよ」ベッドの上で横になり、狭霧のほうに顔を向ける。「あとは⋯⋯、近衛さんの、気力次第だな」
「お前がおらんかったら、絶対助けられんかった。俺ひとりじゃなんもできんかった。真崎がおってくれて、ほんまに、良かった」
それは此方のセリフだ、と思ったが、それを正直に口にすることはできなかった。彼女を助けないことが、オレが考えた最善手だったのだと狭霧に知られてしまうことだけは、どうしてか避けたかった。