第四章 白露

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 急いで服を着替えて外に出る。傘をさしたが、雨が激しく、あまり意味はなさそうだった。雨の嫌な匂いと湿度が纏わりつくのを振り払いながら、真崎と走って羽張神社に向かう。到着した頃には、汗と雨で、服が躰に張りついていた。
 真崎がインターホンを何度か鳴らす。すぐに顔を出した女性は、しかし真崎の問いかけに対し、ただ頭を横に振るだけだった。
「近衛さんはどこにいるんですか?」
 真崎の四回目の質問に、やはり女性は頭を振る。
「お答えできません」
「だから、答えられないって、どういうことなんですか」
「久遠しょうせつさまには、まもなく此方から連絡を入れるとお伝えください」
「父さん?」自分の父の名前に、思わず反応する。
「オレたちに答える気はねえってか」真崎の指先が僅かに揺れた。
「申し訳ありません」
「なあ、家の中におるんか? せめてそれくらいは教えてくれたってええやろ。それとも⋯⋯」
「狭霧」真崎が、一歩下がって耳打ちした。「こうなったら、オレらが自力で捜すしかない」
「でも、手がかりもなんもないのに、どうやって」
「わからない。でも、今日は学校の前で別れたのが最後だから⋯⋯、家に戻ってないんなら、一か八か、学校を捜してみるしかない」
「家におらんって、なんでわかるねん」
「靴がないだろ」
 真崎の指摘に、俺は慌てて玄関に視線を向けた。真崎に顔を戻して、一度、大きく深呼吸をする。
「ごめん。ちょっとテンパった」
「そりゃ焦るさ」真崎は俺の肩を軽く叩いた。「行こう」
 戸口に立っていた女性は、俺たちを引き止めることはしなかった。
 再び走り、学校に到着する。前髪を滑り落ちた水滴が、汗なのか、雨なのかがわからない。もしも眼鏡をかけていたら、もっと鬱陶しかっただろう。
 正門も裏門も閉まっていたが、裏に回り、自転車置き場から校内に侵入した。この辺りだけは高いフェンスがなく、ブロック塀を乗り越えて、自転車置き場のトタンの屋根から飛び降りることができた。
「来てみたはいいけど、仮に学校にいたとして、どこにいるんだろうな」真崎は周辺を素早く見渡しながら言った。
「校舎の中くらいしか、思いつかへん」塀を登る前に投げ入れていた傘を拾う。「でも、答えられへんってわざわざ隠すほどのことか?」
「一応、不法侵入だけどな」
「とりあえず、どっかから校舎の中に入られへんか、探してみるか」
 傘をさし直して、真崎と校舎の周りを早足で歩いた。予想はしていたが、校舎内に侵入できそうな入口はない。
 雨は弱まる気配を見せず、辺りは真っ暗だった。携帯のライトを使わなければ、なにも見えない。
 窓を割るしかないか、と口にしかけて、校舎にライトを向けた。
 窓の手前には、低い植込みがある。
 そこから、
 白い腕が見えた。
「え?」
 歪んでいない。
 それに気づいた瞬間、傘を投げ捨てて、俺はそちらに走った。
「狭霧!」真崎がすぐに後ろを追いかけてくる。
 植込みを回り、
 窓の下、
 近衛がいた。
「嬢さん!」その場に膝をつく。ぬかるんだ感触がした。「おい、嬢さん、大丈夫か!」
 近衛の顔は、暗闇の中に浮かび上がるほど青白い。雨に濡れた前髪が額に張りついている。目は閉じられたまま。唇は力なく、僅かに隙間が開いている。
 動かない。
 息を吸い込んだ一瞬、鉄の匂いがした。
「おい、これ⋯⋯」真崎が地面にライトを向けた。「血じゃねえのか」
「血?」自分の足許を見る。
 泥だと思っていたぬかるみ。
 これは、血だ。
「近衛、」
 地面に両手をつき、彼女の顔に耳を近づけた。呼吸をたしかめようとして、けれど、自分の心臓の音が邪魔をして、うまく聞き取れない。
 もしくは、既に、呼吸がないのか。
 一瞬、躰の芯が凍りついた。
 鼓動は、さらに激しさを増す。寒気と暑さが同時に躰を襲い、手足が徐々に震え始める。
 真崎は、救急に電話をかけている。
 もう一度、彼女の呼吸をたしかめようと顔を近づけると、血の匂いがかなり充満していることにようやく気がついた。そういえば、どこから出血しているのだろう。顔には、小さな擦り傷があるだけだ。ライトを翳す。破れた制服から覗く、腹と腕からの出血を確認する。
 思わず、彼女の腹を手で押さえた。
 無意識だった。
「近衛、」初めて、彼女の躰に触れた。「頼む、嬢さん、」触れた場所が歪む。歪んで、揺れていく。「目ェ覚ましてくれ、嬢さん!」
 呆気なく、歪んで、揺れていく。
 けれど、
 俺はもう、
 彼女の手を掴んで、支えることすらできないのは、嫌だった。
 彼女が目を覚ましてくれるなら、
 歪んでもかまわない。
 だから、
「近衛!」
 彼女の唇が、蠢いた。
「嬢さん、」そう呼びかければ、彼女の瞼が、震えながら僅かに持ち上げられる。「大丈夫、もうちょっとだけ気張れよ、もうすぐ救急車が来るから、」
「だめ、⋯⋯」
「え?」
「救急車は、よばないで、」彼女の声は簡単に、雨音に掻き消された。
「お前、自分がなに言うとるか、わかっとんのか?」
 近衛は返事をしなかった。とても返事ができる状態ではなかった。けれど、彼女は薄く瞼を開けて、此方を見て、弱々しく唇を震わせた。
「あなたの、ために、とびおりたのに」
「は?」
「くお、くん」
「もうええ。口開くな」
「おねがい、」
「なんでお前が死ななあかんねん!」
 俺の叫び声に、真崎の声が一瞬止まった。
 自分の鼓動が煩い。
 雨の音が、煩い。
「俺のためってなんやねん。意味わからん、絶対、絶対お前を助ける」
「おねがい、このまま、」
 近衛は今にも泣きそうだった。
 意味が、わからなかった。
「煩い、黙っとけ、絶対に許さんからな」意味のない止血だとわかっていても、押さえる手の力を強めずにはいられなかった。「絶対に助ける、絶対に死なせへん。そんな嘘聞いてやるほど、俺は優しくない」
 彼女の口が動いたが、声は出ていない。
 真崎の走る音。
 雨の音。
 躰が痺れて、耳鳴りがする。
 自分の、荒い呼吸音。
 両膝をつき、両手で彼女の腹部と腕を圧迫しながら、少しでも彼女に雨が当たらないように躰を乗り出した。
 熱を持った手のひらから伝わる、彼女の、冷たい温度。
 雨に冷え切っている。
「くそ、」彼女の呼吸は弱い。「くそッ⋯⋯」
 なにもできない。
 それが腹立たしくて、悔しくて、
 耳鳴りが激しさを増す。
 躰が痺れて、熱を持って、
 全身を打ちつける雨。
 目眩。
「あなたの⋯⋯」彼女の幽かな笑い声。「さいご、あなたを、みているの?」
「悪いけど、夢ちゃうぞ」声を張り上げて、「最後にするつもりもない」何度も何度も、呼びかけて、「もうちょっと、もうちょっとだけ頑張ってくれ」彼女の血に濡れた手で、彼女の手を握り締める。
 投げ出された彼女の手を、折ってしまいそうになっても尚、両手で強く。
 足音が聞こえる。
 慌てたような声が聞こえる。
「生きろよ、近衛」
 彼女の手が、一瞬だけ、ほんの少し、俺の手を握り返した。