第四章 白露

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 狭霧が近くのトイレに入っている間、オレと近衛さんは、人がふたり座れる程度のスペースを開けて、並んでベンチに腰かけていた。此処からは、先ほどよりも少し遠くに海が見える。
「貴方たち、本当に仲が良いのね」近衛さんが、海を見ながらゆっくりと口を開いた。
「仲が良いというより、距離が近いんじゃないすか」自分の膝に肘を置き、前屈みに座り直す。「なんて言えばいいんすかね。友達っていうより、家族って感じ、というか」
「私も、誰かといっしょに授業を抜け出してみたかったわ」
「今、抜け出してますよ」彼女のほうに顔を向けた。「しかも、授業どころか学校」
「でも、久遠くんのときと私とじゃ、貴方がいっしょに抜け出した理由はまるで異なるでしょう?」
「そりゃあ、オレたち、まだ出会って二ヶ月ほどしか経ってねえからな」笑い声を混ぜて、軽い口調を装った。「それに、ほら。狭霧があんたのことを警戒してない分、オレが警戒しとかないといけなくてさ」
「正しい判断ね」彼女は他人事のように微笑んだ。
「オレ、あんたが海に飛び込むつもりじゃねえかと思ってたんすよ」
「あの人が、空よりも海が好きだと答えていたら、そうしたかも」
「後味悪いんで、やめてくださいよ」
 彼女は此方を見ると、ぱちりと瞬いて、それから悪戯そうに微笑んだ。
 その後、すぐに狭霧が戻ってきた。ベンチの前に立った狭霧は、オレたちを見下ろしながら怪訝そうに眉を寄せる。
「なんの話、しとったん」
「あら。貴方も私と、内緒話がしたかった?」
「べつに」視線を逸らして、狭霧が答えた。「もう帰るんか?」
「そうだな。近衛さんが満足したんなら、帰るか」
「付き合ってくださってありがとう」
「どういたしまして」ベンチから立ち上がり、背中を伸ばす。「近衛さんも、学校の最寄駅がいちばん家に近いよな?」
 彼女は頷いてから、静かに立ち上がる。軽くスカートを払うと、鞄を持ってオレたちと並んだ。
 途中、自動販売機で飲み物を買いながら、来た道を戻っていく。近衛さんには、小さなペットボトルに入ったスポーツドリンクを半ば無理やりに持たせた。一口飲んだのを確認してから、オレは炭酸を、狭霧は烏龍茶を買ってその場でほとんどを飲み干した。
 駅に戻り、帰りの電車に乗り込む。家に着くのは、ちょうど昼飯の頃合いになるだろう。冷蔵庫の中身を思い出しながら昼飯を考えていたが、面倒になってきたので、ファストフードで済ませよう、と決めた。実家にいた頃は、あまり口にする機会がなかったのだ。
 狭霧と近衛さんは、それぞれオレの隣に座っていた。狭霧はオレの右隣。近衛さんは、オレの左隣である。狭霧は少し足を投げ出して、窓の外を眺めていた。近衛さんは姿勢良く腰かけたまま、口許を小さく引き締めている。
 学校の最寄駅に到着し、駅を出て、学校の前まで近衛さんと並んで歩いた。
「今日、近くの店で食って帰ろうと思ってるんですけど、近衛さんもどうですか?」校門の前で立ち止まり、彼女に訊ねた。
「私は遠慮しておきます。お誘いありがとう」
「え、弁当は?」狭霧が少し驚いたような表情で此方を見た。
「いやあ、それが実はさ、今日はちょっと面倒くさくて作らなかったんだよな。なのに、朝コンビニに寄るのも忘れちまって、まあ食堂でいっか、とか思ってたんだけど」
「珍しいな」
 オレが弁当を作らなかったことなのか、それともコンビニに寄ることを忘れていたことか、どちらが狭霧にとって珍しいと感じられたのかはわからない。
「オレ、今はハンバーガ食いたい気分。昼飯、それでもいいか?」
「うん」狭霧は近衛さんを盗み見た。「俺はいいけど」
「私も、此処でかまいません」近衛さんは、狭霧に笑みを向けた。「おふたりでどうぞ」
「じゃあ、オレらはそろそろ⋯⋯」答えない狭霧の代わりに、近衛さんに声をかける。
「ええ」綺麗な微笑みだった。「今日はありがとう」
 少し歩いてから、オレは後ろを振り返った。校門の前に立ったまま小さく手を振る彼女に、軽く手を上げる。狭霧も遅れて振り返り、一度足を止めたが、同じように手を上げただけだった。
 店に立ち寄って昼飯を食べたあと、近所のスーパーで食料品を買ってから家に戻った。慣れない潮風の匂いを洗い流すため、すぐにシャワーを浴び、スウェットに着替える。
 リビングに出ると、先にシャワーを浴び終えていた狭霧がテレビゲームの電源を点けていたので、オレも参戦することにした。
 狭霧は実家でも、寝ているか、外の景色をぼんやり眺めているか、テレビゲームをしているかのどれかだった。昔はテレビゲームよりも、オレたちといっしょに山の中を駆け回ることを楽しんでいたはずなのに、或る日突然、貯金を崩してゲームを買い始めたのだ。当時はその理由がよくわからなかったが、武器を持つ手が映し出されている画面を見て、これは、狭霧の目にも歪まずに見える人間の躰なのだと今になってようやく気づく。
「お前も苦労してんだな」
「え、なに、喧嘩売っとる?」狭霧は画面から目を離さずに答えた。
「お前に喧嘩なんか売るかよ」コントローラを握り直す。「オレ、小学生のときにお前と一回本気で殴り合いの喧嘩したとき、もうちょっとで鼻の骨が折れるところだったんだぞ」
「それはこっちのセリフや。俺かて歯ァ真っ赤になっとったわ」
「今ならお前に勝てると思う」
「俺も、今ならお前に負けると思う」
「大体さあ、殴り合いの喧嘩は良いけど授業サボるのは許さねえって、どっちかっていうと普通逆じゃねえ?」
「授業も修行のうちってことやろ」
「今のダジャレ?」
「違う」画面の中では、狭霧が放った一撃を受けた敵が沈んでいくところだった。「そういえば、あのとき、なんで喧嘩したんやっけ」
「クソどうでもいいことで喧嘩した気がする」
「俺もあんまり覚えてないけど、でも、あの喧嘩のおかげで仲良くなったというか、吹っ切れたところはあるよな」
 しばらくテレビゲームをしたあと、夕食の準備をしようとゲームの電源を切ったところで、窓を叩く雨音が聞こえ始めた。オレたちは慌ててベランダに干していた洗濯物を取り込む。窓を閉めた頃にはさらに激しくなっており、雨粒が窓に打ちつけられる重たい音が雨足の強さを物語っていた。
「さっきまで、あんなに天気良かったのに⋯⋯」狭霧は洗濯物を畳みながら、窓を見て呟いた。
「台風とか近づいてたっけ?」冷蔵庫を開けて、食材を手に取る。「今日、海に行ったのが嘘みたいだな」
「そういえば、結局、近衛はなんで海に行こうとか言い出したんやろ」
「さあ⋯⋯」そのとき、携帯の通知音が鳴った。「あれ、珍しいな。陽桐さまからメッセージだ」
 狭霧が此方を振り返る。一度狭霧に目を合わせてから、メッセージを開いた。たった一行。その言葉の意味を認識した瞬間、オレは狭霧に説明することも忘れて、近衛さんに電話をかける。
 徐々に、息が浅くなっていく。
 心臓の音が速い。
 近衛さんの携帯からは、コール音すらしなかった。
 電源が切られているのだ。
「真崎?」オレの様子にか、狭霧は立ち上がり、傍まで来ていた。「どうしたん」
「近衛さんと連絡がつかねえ」
「え?」
「まずいかも」此方からかけた電話を切り、先ほど出した食材を冷蔵庫に戻す。
「なに、どういう意味⋯⋯」
 狭霧に携帯の画面を見せる。久遠陽桐から『斎ちゃんと連絡が取れん』とだけ送られてきたメッセージ画面を、狭霧は十秒ほど見つめていたが、困惑した表情のまま顔を上げた。
「とにかく、近衛さんの家に行ってみねえか」
 オレの提案に、狭霧は眉を顰めて頷いた。