第四章 白露

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「海に行きたいの」そう口にしてから、彼女は一拍遅れて微笑んだ。
 二限目の授業を終えた休憩時間。三年六組の教室に、近衛が姿を見せたのは、夏休みが明けた九月のことだった。
 開け放たれたままの扉から教室を見渡していた彼女は、自分と目が合うと、微笑みを見せてからその場を離れた。思わせぶりなその行動に、立ち上がり、真崎と共に後を追う。近衛は廊下の突き当たり、屋上に繋がる階段の前に立っていた。
「海?」真崎が訊ねる。「放課後に寄りたいってことですか?」
「いいえ。今から」
「え、今から?」数人の生徒が階段を利用していたが、装うことも忘れて問い返した。「さすがに、十分休憩の間に行って帰ってくる距離ちゃう⋯⋯、距離じゃない、と思うけど」
「今から学校を抜け出して、海を見に行きたいの」
「え、いや⋯⋯、なんで?」
「駄目?」
「オレはべつに良いけど」
「良くはないだろ」真崎の答えに、思わず頭を抱えてしまった。
 しかし、真崎が許可を出してしまった以上、今さら俺が断ることもできない。近衛がわざわざ自分たちを誘った。それが気にかからないはずがなく、真崎がわざと率先して誘いに乗ってみせたのもわかる。とはいえ、その程度のことは、彼女も気づいているだろう。
「じゃあ、学校の最寄駅に集合で⋯⋯」
 溜息混じりに呟けば、彼女は一度瞬いて、綺麗な微笑みを見せた。
 その場で別れて教室に戻り、渋々鞄を手に取って教室を出る。真崎は近くにいたクラスメイトに、「気分悪いから早退したって、先生に伝えといて」と朗らかに声をかけていた。
 校門を出て最寄りの駅に着き、近衛が来るのを待った。五分ほど待ち、ようやく彼女が姿を見せる。もともとそこまで活気のない駅だが、時間帯も相俟ってか、駅の案内音声だけがホームに響き渡っている。彼女のために切符を買い、ほどなくして到着した電車に乗り込んだ。乗客はほとんどいなかったが、制服姿の高校生が三人も並んでいれば、少なからず目立つ。
 座席は、長いソファ型の席が向かい合わせに配置されている。横並びで腰かけ、自分は向かいの窓を次々と滑っていく景色を眺めていた。真崎は、荷物棚の辺りに貼られた広告でも見ているようだ。
「電車って、初めて」揺れる電車の音に混じって、囁くように近衛が呟いた。
「なんでもかんでも初めてやな、お前」
「でも、トラックには乗ったことがあるわ」
「トラック?」助手席に座る近衛を想像してみたが、どうもしっくりこない。違和感がある、とさえ言える。「もしかして、海も初めてか?」
「ええ」
「じゃあ、山も?」
「そうね」
「どこなら行ったことがあるん?」
「平野かしら」
 これが彼女なりの冗談だったということに気づいたのは、目的地のひとつ前の駅に停車したときだった。
 開け放たれたドア越しに見える風景は、地元よりも静かなのではないか、と思われるほど閑散としていた。関東といえども、どこにでもビルが建ち並んでいたり、人間でごった返していたりするわけではない、と初めて知ったときはかなり驚いた記憶がある。
 ドアが閉まる。窓の向こうで平穏に広がる、明るい青空。
 まだ、昼前なのだ。
 午前中だということさえ忘れていた。
「俺ら、学校抜けてきたんやな」
「親父に知られたらどつき回されるぜ、これ」真崎が笑いながら言った。
「貴方たちも、初めて?」近衛は首を傾げた。長い髪の、細い束が肩を滑り落ちる。
「学校サボったのは、さすがに初めて」
「昔、お前とふたりでなんかの授業サボったことあるよな。なんだっけ、アレ」
「家庭科」
「あ、そうそう、調理実習だ」
「あのときは、他人が触ったところが視えるのが無理で、気持ち悪くて絶対食べられへんと思って⋯⋯、保健室に行くふりして抜けようと思ったら、お前がいっしょにサボってくれたんやろ」
「家帰ってから、鬼ってこの世に存在するんだなってくらい怒られたやつね」
「真蔵さんの説教が長すぎて、こっちは足痺れて立てんくなっとるっちゅうのに、お前にめちゃくちゃ足いらわれたのは覚えとる」
「めちゃくちゃ根に持ってんじゃん。ごめんって⋯⋯」アナウンスが流れると、真崎は近衛のほうに顔を向けた。「あ、この駅で降りますよ」
 電車が停まり、ホームに降り立つ。見慣れない景色が広がっている。階段を降りて改札を抜け、案内板に従って少し歩くと、道路の向こうに狭い海岸が見えた。一気に磯の香りが鼻の奥に届く。実家は山の中だったせいか、あまり海には慣れていない。
 お世辞にも綺麗な海とは言えないが、穏やかな空と海の青色は心地が良い。
 道路を渡り、低い塀を超えて砂を踏みしめる。
「コンクリートのブロックとか、無いんやな」
「ああ、あの四本足の⋯⋯」真崎は俺の斜め後ろに立ち、ゆっくりと海を見渡していた。「あれ、なんのためにあんの?」
「さあ⋯⋯」曖昧に返事をしつつ、隣に立つ近衛を見る。「それで、嬢さんのご希望どおり、海に来たわけやけど」
「ええ」
 近衛の長い髪が、潮風に揺らされていた。
 片手で柔く髪を押さえながら、彼女は海を映していた瞳を此方に向ける。
 墨色の瞳に、一瞬、青色が反射した。
「貴方は?」
「え?」
「貴方、よく空を見ているから⋯⋯」彼女は顔を少し上に向けた。
 釣られて、自分も空を見る。
「そうなんかな。あんまり、自覚はなかったけど」
「空は、誰のものにもならないでしょう」近衛は顔を海へと戻しながら、僅かに目を伏せる。「海も同じ。誰のものにもならないわ」
 空。海。砂浜。そこに立つ、彼女。
 今だけは、どこを見ても、歪まない。歪まない景色が広がっていた。奇跡のような世界だった。
 誰のものにもならない世界だ。
 空も、海も、砂浜も。そこに立つ、彼女も。
 誰のものにもならない。
 だから歪まない。
 誰かに触れられてしまえば、全てが誰かのものになってしまえば、それだけで、たちまち歪み始める。
 それはつまり、
 彼女も?
「貴方は、海が好き?」近衛が此方を向いた。
 細い髪に埋もれ、絡まる、細い指。
 海の波とよく似た軌跡を描く、彼女の黒い髪。
 空に染まる瞳。
 この世でいちばん静かな世界が、今、目の前に在る。
 けれど、
 視界の端を掠める己の躰だけが、不要だった。
 魔術が存在しなければ。
 魔力が存在しなければ。
 こんな醜さを、知らずに済んだかもしれないのに。
 空が存在しなければ。
 海が存在しなければ。
 こんなにも思い知らされることは、なかったかもしれないのに。
「俺は、」
 彼女の躰が揺れた。
 突然、糸が切られた人形のように。
 咄嗟に手を伸ばして、
 腕を掴む?
 彼女に触れる?
 この、醜い手で?
「近衛さん!」真崎が、彼女の腕を掴む。
 俺の手は、なにも掴めないまま。
 こんなときでさえ、自分は彼女に触れることができずにいた。
「大丈夫⋯⋯、少しよろけただけよ」
「それは、大丈夫とは言わねえんすよ」真崎は彼女の肩を支えながら言った。「少し、向こうで休みますか?」
「かまわないわ」
「でも⋯⋯」
「久遠くん」彼女に呼ばれて、けれど、返事もできないまま。「気にしないで。私に触れることを躊躇ったのは、貴方にとって、当然の感情よ」
 近衛は何事もなかったかのように、自分の足で立っていた。
 真崎が触れた場所も、もう歪んではいない。真っ先にそれを確認している自分が、やはり、いちばん醜いのではないかと思われた。