第三章 処暑

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 近衛斎の目の前には、ひとりの幼女がいた。帳に囲まれた立方体の中、板敷に乗せられた畳の上で、その幼女は怠惰に寝転んでいる。
「彼らの情報を、つぎに流したわね」
 近衛斎が温度のない鋭い声を少女に向けると、幼女は緩慢に彼女を見上げ、躰を起こしてその場に座る。
 畳を取り囲むように立てられた柱が、四方を覆う絹の帳を支えている。帳は箱状に形成されているが、正面だけは捲し上げられており、並べられた二枚の畳の上に座る幼女の姿を覗かせていた。
 黒い髪、白い肌、赤い唇。
 ふたりに共通点は多い。しかし、近衛斎を西洋人形と喩えるとき、幼女は日本人形のようだと表現される。彼女たちの目許が、ふたりの印象を決定的に別のものにしているのだ。
 近衛斎は、一瞬、周囲の様子を横目で伺った。それから、もう一度、近衛家当主の姿を正面から睨みつける。
わしが流さずとも、いずれ知られていた」幼女は、その視線を受け止めながら淀みなく言った。「なにせ相手は、久遠の次男坊に、既に目星をつけていたのだからな。奴らにとって儂の言葉は、あくまで確信を補強する程度でしかなかった」
 不釣り合いな口調は、しかし、幼女の外見のためか、違和感よりも恐怖を感じさせた。
「私の全てを差し出す代わりに、彼らの情報だけは流さないようにと、私は申し上げたはずです」
「中立の立場を守るためには、致し方ないことだ。いや、どちらかといえば、儂は本来、国家側に属するべき立場であって、もしやすると、直継を贔屓せねばならんかもしれんぞ」
「国家が彼らを容認するとお考えですか?」
「まさか」幼女は鼻を鳴らして笑った。「だが、国に取り入るためとはいえ、こうして儂の躰を維持する技術を惜しみなく提供した組織を無碍にもできん。それしきのことは、儂に言われずとも、お前ならば容易く理解できよう」
「理解はします」近衛斎は冷たく答えた。
 幼女は常に笑みを滲ませて目を細めていたが、彼女の言葉に、さらに目を細めた。その瞼の僅かな隙間から、濃い闇色を孕んだ瞳が彼女を睨むように捉えている。
 幼女の外見は六、七歳程度。艶やかな長い黒髪は、畳の上で緩やかに波打ち、軟らかな毛束ごとに渦模様を作り上げている。白い着物から覗く四肢は、着物と連続しているのではと錯覚するほど白く、百合の茎のように細い。
 幼女が身動ぐと、四肢に嵌められた鈍色の拘束具が重たい光を放った。拘束具からは、長い鎖が四方に伸びている。
「酷な物言いをするがな、最早、お前にそれだけの価値が残されていない、ということだ。むしろ、よくぞ此処まで粘ったものよ」
「だから、情報を明け渡したと仰るのですか?」
「それが中立たるゆえんであり、儂が生かされておる全てだ。久遠の倅には悪いがな」
「どこまで流したの?」
「ほんの一握り、金も混じらぬ砂一粒⋯⋯」幼女は妖艶に唇を釣り上げた。「久遠を狙えば、お前が動く。そう言った」
 近衛斎は、驚いたように一瞬目を大きく見開いた。やがて目を閉じると、彼女はその場に指を揃えて、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「時間稼ぎにしかならんぞ」
「充分です」彼女は頭を下げたままま答えた。「もっと、最悪のケースを想定していました。ですが、襲撃の狙いがあくまで私だったのならば、チャンスはあります。あの人をこれ以上、巻き込まずに済む。僅かな時間稼ぎであったとしても、喜ばしいことです」
「斎」幼女の呼びかけに、彼女は顔を上げた。一瞬の間。「お前はなぜ、そこまでしてあの男に心を砕く?」
「私に、砕く心などありません。それは貴女がいちばんよくご存知のはずでは?」
「ああ⋯⋯」幼女は脇息に肘を預けて頬杖をつく。「そうか、お前は、待ち望んだ男の目に映ることで、それが証明されたと考えている」
「考えるもなにも、それが事実です」
「今、儂がなんと言おうとしたかわかるか?」
「構造が破綻している」
「自覚があるとは」幼女はクツクツと喉を鳴らして笑った。「厄介なこと極まりない」
「お話は以上ですか?」
「ひとつ」幼女は糸で釣られるように、ゆっくりと腕を持ち上げて伸ばすと、蝶の羽ばたきのような手招きをした。「なに、年寄りのお節介だと思って、聞いていけ」
「貴女の言葉を、そのように処理したことは一度もありません」彼女は立ち上がると、幼女の前に座り直して躰を寄せた。
 幼女の指先が動かされる。
 冷たい鎖の音。
 頬に触れた。
 その接点を移動させるようにして、幼女は、繊細な手つきで皮膚をなぞる。
「一度くらい、素直にならんか」
 彼女は五秒間、幼女の不敵な笑みを見た。
 目を閉じる。
「仰る意味が理解できません」
「いずれ理解する」
「残念ですけれど⋯⋯」彼女は目を開くと、左右対称に口角を持ち上げてみせた。「少し、時間が足りないわ」
「そうか」幼女は腕を下ろす。「ならば、お前の望みどおり、久遠には此方から伝えておこう」
「ありがとうございます」
 近衛斎は立ち上がり、背後の出入り口から部屋をあとにした。廊下には、幼女に付き従う侍女のひとりが立っている、彼女が部屋から出てきたのを確認すると、待機していた若い女は頭を下げて入れ替わりに部屋の中へ消えていった。
 屋敷を出て、待ち構えていた車に乗り、羽張神社まで戻る。敷地の端に建てられた家に入ると、屋敷の廊下ですれ違った侍女とよく似た女が出迎えに現れた。
「お帰りなさいませ、お嬢さま」手には一通の手紙が握られている。「此方が届いておりました」
 手紙を受け取る。真っ白な封筒だった。表にも裏にも名前は書かれていない。切手も貼られていなかった。
 手紙を持って自室に入り、封を開ける。
 中からは、一枚の紙。
 まるで、招待状のような手紙だった。印字と見間違うほど無駄に凝った装飾のアルファベットが、中央揃いに整然と並んでいる。フランス語だ。心当たりはひとりしかいない。
 日時の指定。その一文を読んだ次の瞬間、彼女は手紙と封筒を床に投げ捨てた。
 あの男に殺されるくらいならば、自分でこの命を断つ。そう言った。たしかにそう言った。けれど、そう宣言したところで、日時も、場所も、方法も、全てが相手に取り決められている。腹立たしかった。一度だって、自由など、自分の人生には有り得なかった。
 荒い呼吸を自覚した途端に、彼女はその場に崩れ落ちる。
 蹲るようにフローリングに座り込み、傍のベッドに上体を俯せに預けた。思わず頭を押さえるが、痛みがますます強く感じられるだけだった。
 シーツを握り込む。
 携帯の通知音が、無機質に鳴り響いた。
 彼女は鈍い動作で頭を持ち上げる。既に通知音は消えていたが、ベッドのヘッドボードで充電をしていた携帯の画面が光っていた。彼女は立ち上がり、携帯を手に取る。見知らぬ電話番号からの、ショートメッセージ。
 端的な文章。実際の口調よりも、癖のない文体。
 彼女は目を閉じて、静かに息を吐き出して、それから、瞼を持ち上げる。もう、乱れた息はどこにもない。
 大丈夫。
 あの人のためなら、私は、私の自由を簡単に捨てられる。
 返事をした。
 携帯を手に持ったまま、ベッドに横になった。シーツが皺になろうが、制服が皺になろうがどうでも良かった。
 すぐに返事が届いた。
 返事を読んで、電源を落とす。
 あの人の電話番号は、最後まで忘れられないだろう、と思った。