第三章 処暑

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 ようやく気分が落ち着いてきたので、少しだけ水分を口に含むことができた。
 リビングにはクーラが設置されている。冷房が効いていて快適だった。先ほど、部屋を出る前にカーテンと窓を開けてきたが、あのとき窓の外に充満していた眩しい暑さを忘れさせる。
 俺の隣では、真崎が何度も、夕飯を食べていかないかと近衛に訊ねていた。だが、彼女は微笑みながらも、首を縦に振ることはない。
「今日は狭霧の分が余りそうなんで、ちょっとでも食べてもらえたらと思ったんですけど」
「ごめんなさい。このあと、少し寄るところがあるの」
「寄るところ?」思わず、彼女の言葉を繰り返した。「なんか、珍しいな」
「珍しいのかしら」近衛は口許に指先を添えて微笑んだ。
「どこ行くんですか?」真崎が訊ねる。「なんなら、送っていきますよ」
「迎えが来ます。ご心配なく」
「車ですか?」
「ええ」
「嬢さん、今からそんな遠いところ行くんか?」
「私の居住地を管理されているお家の方に用があるの」肩にかかった髪を片手で柔く払いながら近衛が言った。「これで、納得していただけた?」
「いや、その、ちゃうねん、問い詰めるつもりとかじゃなくて⋯⋯」慌てて言い訳を並べるが、彼女の横顔を見ているうちに、なにも言えなくなった。
 ごめん、と消え入るような声を絞り出せば、彼女は小さく息を吐いた。そして、此方を見て、困ったように眉を少しだけ下げる。
「貴方が謝ることではないわ」彼女はそう言って、音もなく立ち上がった。「そろそろ、私はお暇します。貴方たちの時間を、これ以上、気まずいものにするわけにはいかないものね」
「嬢さん、」
「お大事に」
 彼女はそのまま、振り返ることもなく、簡単に玄関から出て行ってしまった。真崎は扉がしまってからも、しばらくそちらを見ていたが、やがて素早く息を吐くと、彼女の前に置かれていた、ほとんど麦茶が残されたままのグラスを持って立ち上がった。
 いつも、こんなことばかり繰り返している気がする。
 テーブルに額を押しつけて項垂れる。テーブルといっても、座敷机なので高さは低い。あぐらをかいたまま天板に頭を乗せていると、麦茶が流しに捨てられる音がした。
 わけもわからず、無性に悲しくなった。
「俺、あいつの機嫌損ねるの、上手いんかな⋯⋯」
「今日は、とにかくゆっくり休め」真崎はグラスを洗いながら言った。「多分、お前、結構参ってんだよ。いきなり襲われたってのに、理由はわからねえし、実家はなんにも教えてくれない。オレたちになにができるわけでもないから対策もできない。前にも後ろにも進めない状況だから、参っちまうのも仕方ないんだけどさ」
「それ、お前も参っとるってことやろ」躰を少し起こして、横を向く。「いや、多分、俺よりお前のほうがキツいと思う」
「そんなこと⋯⋯」
「実家を離れたくて、今年はもうこっちに戻ろうとか言い出したんか?」
 蛇口を捻る音がした。水が止まると、途端に部屋が静まり返る。真崎は無言のまま、玄関のほうへ歩いていくと、音を立てずに僅かにドアを開けた。隙間から外を観察している。
 近衛の姿を追っているのだろう、と思った。或いは、迎えの車を確認しているのかもしれない。
 三十秒ほど経過してから、真崎は再び音を立てずにドアを閉めた。此方に向かってくると、リビングに置かれたテーブルの前に座る。
「どうやった?」
「黒塗りのレクサス」真崎は肩を竦めて言った。「さすがにあからさますぎて、どうかと思うけど」
「センチュリィじゃなくて良かった」
「笑えねえ冗談だな」
「それで、さっきの話やけど⋯⋯」
「こっちに戻ってきたのは、嫌な予感がしたからだ」低い声で、真崎はすぐに答えた。静かな声だ。
「具体的には?」
「お前の記憶が、消されてるかもしれない」
「記憶?」勢いよく飛び起きた。「まさか⋯⋯」
「あくまで、オレの勘だけど」
 そう注釈を付け加えてはいるが、真崎の言葉からは、確信的な、妙な自信を感じた。
「なんの記憶を?」
「今のところ可能性があるのは、お前の視界が歪んだ日の記憶だな」
「たしかに、覚えてない」先日の真崎との会話を思い出しながら頷く。「でも、なんでそんな⋯⋯」
「お前のその目が魔力を視てるのはほぼ確定した。そうなると、オレらの実家がお前の目に関与していないと考えるほうが不自然だ」
「お前、まさか嬢さんに訊いたんか?」
「訊いた」真崎は顔を逸らし、俯きながらそう答えたが、すぐに顔を上げる。「やっぱり、オレらの予想どおり、魔臓が無いんだとよ。必要な臓器がひとつ無いわけだから、もしかしたら、体調不良の原因もそれかもしれねえ。まあ⋯⋯、どれも、近衛さんの言ってることが本当なら、の話だけどな」
「あいつ、なんでもかんでも隠すけど、嘘は吐かへんと思う」
「近衛さんのことも、歪んで視えるようになったのか?」笑った吐息を混ぜながら、真崎が言う。この男らしくない冗談だった。
「歪み、か⋯⋯」
 この目に映る歪みとは、やはり、魔臓が生み出すという魔力なのだろうか。
 歪み方というものは、それぞれで大きく異なる。もしも歪みが魔力であるとすれば、それは、魔力の個人差と言い換えることが可能だろう。しかし、揺れ方には一定の法則があるのだ。これは、数年にわたって蓄積された経験による仮説だった。
「魔術って、感情の動きと関係あったりする?」
 此方の質問に、真崎は少し唸りながら腕を組んだ。
「親父からは特にそんな話は聞いてねえな。でも、なんで?」
「歪みの揺れ方は、多分、感情の激しさとか、そういうのに関係してると思うねん」
「激しさっていうのは、たとえば、いきなり泣き始めるとか、逆ギレするとか、そういうこと?」
「そういうときは、突然、一気に燃え上がる火ィみたいな揺れ方になる。でも、哀しいときよりは、怒ってるときのほうが揺れ方が激しいというか⋯⋯、それこそ、真崎がほとんど揺れたりせえへんのは、そういうことかなって思っとったんやけど」
「そういうことって、どういうことだよ」
「感情の起伏がないというか、常に精神統一状態、みたいな感じがするというか」次は、自分が腕を組んで唸る番になった。「あ、でも、こないだの保健室では指先が揺れとった」
「お前が今まで見てきた中で、いちばん揺れてなかったのって誰?」
「真墨」俺は即答した。「近衛を除けば」
「姉貴か⋯⋯」真崎は口のあたりに指を添えた。「なんとなく、お前の言いたいことがわかった」
「歪みの揺れ方は、少なからず感情に結びついてると思う。だから、もしこの歪みが魔力なんやったとしたら、魔術と感情⋯⋯、もしくは、欲望とか衝動とか、そういうのと関係あるんかな、と思ったんやけど」
「うーん、結構気になるな。親父に問い詰めるリストに突っ込んどく」真崎は片腕を持ち上げると、こめかみに指を刺すような仕草を見せた。
「記憶⋯⋯」
「うん?」
「いや⋯⋯、お前の言うとおり、歪んだ日のこととか、きっかけとか、全然覚えてないな、と思って」
「ただ単に、ショッキングな出来事だったから脳が忘れさせてるだけかも。オレから言っといてなんだけど、疑心暗鬼になりすぎるのも良くないから、それとなく気にする、程度にしとこうぜ」
「善処する」
「それにしても、近衛さん呼んで正解だったな」真崎の声が少し高くなった。意地悪く笑っているようだ。「お前の気分が落ち着くまで、過去最速」
「近衛のおかげかどうかは、わからんけど⋯⋯」
 そうは言ったものの、恐らく彼女のおかげなのだろう。感謝を伝え損ねたな、と思う。やはりあのとき、妙な意地を張らずに、連絡先を訊ねておけば良かった。
 また、眉根が少し寄っていくのを感じる。
「あのさ」
「ん?」
「嬢さんの連絡先、教えて」