第三章 処暑

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 狭霧の部屋から出てきた近衛さんを引き止め、リビングのクッションに座らせた。リビングと言っても、無地のカーペットと足の短いテーブルを置いただけの空間である。いつも自分たちは、カーペットの上に座り、そこで食事を摂っていた。
 テーブルに麦茶を入れたグラスを置き、向かいに座る。夏休みにも関わらず、彼女は制服を着ている。
 近衛さんは微笑むと、両手でグラスを持ち上げて、一口だけグラスに口をつけた。
「狭霧、なんか言ってました?」
「早く出ていけと言われてしまったわ」グラスをテーブルに音もなく置くと、近衛さんは僅かに首を傾けた。「それにしても、随分と早いお帰りだったのね。帰省はもうよろしいの?」
「寺ってさ、お盆の時期、めちゃくちゃ忙しいんすよね。帰省してから、オレは毎日、親父から魔術ってモンについていろいろと教えてもらってたんすけど、親父も忙しくなって、それもしばらくは無理そうだし。それならべつに、実家にいなくてもいいかな、と思って」あらかじめ用意していた理由を述べる。
「そう」彼女はそれきり、なにも追求してこなかった。
 オレは彼女に、魔術について簡単に説明した。話している間、彼女は表情もなく口を閉ざしていたが、説明を終えると、一度瞬いてから口角を持ち上げた。
「プログラミングのようね」
「プログラミング?」
「ええ」彼女は頷いた。「コンピュータへの指示を、プログラミング言語を用いて順番に記述したものです。独自の言語を用いて、望んだ結果を弾き出し、具現化する。言語を知らない人間には、意味のない文字の羅列にしか見えないわ。けれど、その言語を知っている人間には、ひとつひとつに意味があることを理解できる。一文字間違えただけで、それが正しい結果を生み出さない、意味をなさないセンテンスになってしまうこともね」
「オレらでいうところの、梵字とか経典が、そのプログラミング言語に当たるってことですか?」
「そう。コンピュータは、この世界ね」
「世界?」
「現実世界に対して指示をし、その結果を出力させるのでしょう?」
「あ、うーん、そっか。ちょっと混乱してきたけど、なんとなくわかったような気がします」
「でも、どうして魔術のお話を私になさったの?」
「近衛さんは、その魔臓ってのを持ってないんじゃないか、と思って」
 彼女は少し目を見開いた。すぐに表情を取り繕ったが、その対応が、先ほどの表情が演技ではなかったことを物語っている。
「よく、それだけの情報でその推察ができたわね?」
「勘だけは自信があるんで」テーブルの上で腕を組み、彼女の顔を正面から見据えた。「当たりですか?」
「たしかに、私には魔臓と呼ばれる臓器がありません。でも、先天性の臓器欠損は、まったく起こり得ない現象というわけではないわ。つまり、私以外にも、あの人の目に歪まずに映る人間がこの世には存在する可能性がある、ということね」
「でも、心臓がなけりゃ生きていけませんよ」
 近衛さんは、返事の代わりに、微笑みを見せただけだった。オレは素早く息を吐き、テーブルに肘をついて体勢を崩す。
「じゃあ、やっぱり狭霧は、魔力を視てるってことになんのかな」
「その説が最も有力かしら」
「自分に魔臓が無いこと、知ってたんすね」
「ええ⋯⋯」彼女は曖昧に頷いた。
「狭霧の目には、自分が歪まずに視えることも、知ってたんですよね?」
 長い睫毛の影から、影よりも濃い色をした瞳が此方を捉えた。彼女はなにも答えない。表情から、なにかを読み取ることもできなかった。
「あんた、オレの実家とグルなんですか?」
「利害関係にあることはたしかです」彼女は目を細めた。笑みの形を維持したまま、睨んでいるようにも見えた。「でも、私は初めから、貴方たちのことは信じていません。けれどそれは、貴方たちが私のことを信用なさっていないように、それと同じことです」
「貴方たちって、誰のことですか?」
「ご実家で、なにかあったのね」
「質問に答えてくれ」睨み返して、身を乗り出した。「狭霧はあんたを信用してる。あんたは、どうなんすか。その貴方たちの中に、狭霧が含まれているのか?」
「私と貴方のご実家は、あの人の安全、ただその一点で繋がっています。私と貴方たちでは、やり方も、彼を守りたいと思うその理由も異なるでしょう。ですが、その目的だけは同じです。私は久遠くんを、信じたことも、疑ったこともありません。私はあの人を受け入れています。ただそれだけです」
「狭霧は、何者だ?」気がつけば、そんな質問をしていた。
「その答えこそが、彼が狙われた理由であり、貴方たちが彼を守ろうとする理由です。でも、彼が何者か、それを決めるのは彼以外の人間だけれど、あの人はあの人だけのものよ。それだけは、覚えていてね」
「よくわからねえ」大きく息を吐き出して、座り直す。
「それが正常だと思います」近衛さんは両手でグラスを持ち上げて、もう一度口をつけた。「このお話をするために、私をお呼びになったの?」
「あれ、もしかして、バレてます?」
「私が久遠くんに部屋から追い出されることも、貴方は想定済みだったのね?」
「うーん、いや、さすがにそこまで想定できてたわけじゃないんすけど⋯⋯」そう答えながら、頬杖をつく。「狭霧抜きであんたと話すには、良い機会だと思ったんで」
「私には、貴方が考えている以上に価値がありません。貴方の望む情報も持たない。ご実家に滞在して、情報を集められたほうがよろしくてよ」
「まあ、そうなんすけど⋯⋯」
 彼女が不思議そうに首を傾げたのと、狭霧がドアを開けて姿を見せたのは同時だった。近衛さんが後ろを振り返る。狭霧は濃いグレィ色をした半袖のスウェット姿で、少し寝癖もついている。眼鏡はかけていない。そもそも、眼鏡をかけている姿のほうが、自分にとっては珍しい。
「ごめんなさい、すぐにお暇するつもりだったのだけど」
 そう言って立ち上がろうとした近衛さんを、狭霧が慌てて制した。彼女がもう一度座り直したところで、狭霧は眉根を寄せると、何度か口を開きながら視線を彷徨わせる。近衛さんは狭霧を見上げていた。
 しばらくして、狭霧はようやくその場に腰を下ろしたが、俯いたまま、彼女と視線を合わそうとはしない。
「気分は?」狭霧に訊ねてみる。
「ちょっと落ち着いた。えっと⋯⋯」狭霧は目を瞑った。「その、ごめん。あんな言い方するつもりじゃなくて⋯⋯、というか、あんな、八つ当たりみたいなこと言うつもりじゃなくて、それを、謝りたくて⋯⋯」
「なに言われたんすか?」
 近衛さんに訊ねると、彼女は思いついたように笑った。
「なんのことかしら? 心当たりがないわね」
「いやほら、俺、早く出ていけって⋯⋯」
「覚えていないわ。だからお気になさらないで」
 狭霧は顔を上げると、近衛さんを数秒ほど見つめていたが、次第にきつく眉根を寄せて再び視線を逸らせた。
 近衛さんが困ったように此方を向いて微笑んだので、オレは、これが狭霧なりの照れ隠しであることを伝えたのだが、狭霧に勢いよく頭を叩かれた。これも、この男の厄介な照れ隠しのひとつである。