第三章 処暑

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 珍しいことに、今年は八月の半ばで帰省を終えた。しかし、実家をあとにしてマンションに帰宅した翌日、自分の視界に耐えられなくなってしまった俺は、なにをすることもできず、自室のベッドの上でうつ伏せになっていた。
「そろそろ顔をお上げになったら?」扇風機の音だけが支配していた静かな部屋に、突如、涼やかな女の声が上品に響いた。「息が苦しいのではなくて?」
「お前しか見れんくなるから嫌」
「あら。情熱的ね」
 目を瞑って顔を枕に押し付けたまま、大袈裟に息を吐き出す。
 帰省から戻った次の日、俺は鏡に映った自分の顔を視て吐き戻した。駆けつけた真崎に、促すように背中をさすられたことで吐き切り、一旦嘔吐が落ち着くと、真崎は俺の部屋から文房具を回収した。昔、ペンや鋏で目を突き刺そうとした前科が何度かあるからだ。
 こうなってしまうと、自然に落ち着くまで酔いを耐えるしかない。そう考え、ベッドの上でずっと目を閉じていたのだが、なにを思ったのか、真崎は近衛に連絡をし、彼女はわざわざマンションまでやってきたのである。
「連絡先、いつの間に⋯⋯」
「お前の兄貴にダメもとで訊いてみたら、教えてくれた」
「なんやねん、あのクソ兄貴、知っとるんやったら俺にも教えてくれたって良かったやん⋯⋯」
「ごめんなさい」近衛は悪びれもなく言った。「でも、貴方からは、一度も連絡先を訊ねられなかったから」
 腹が立って、そこから先の会話は全て無視した。
 その後、真崎が近衛を俺の部屋に置き去りにし、数十分の沈黙を経て、最初にした会話が、先ほどのやりとりである。
「頼むから、部屋から出てってくれ」
「どうして?」
「お前に怒鳴り散らすのは、さすがに、気が引ける」
「それで貴方の気分が少しでも楽になるのら、私は構わないけれど」
「ならへんから、出てってくれって言うとんやろ」
「私にできることはなにもない?」
「早く」
「わかりました」近衛が立ち上がった気配がした。「お邪魔してごめんなさいね」
 彼女は部屋を出ると、丁寧に扉を閉めた。
 途端に、喉の痒さを思い出す。枕の傍に置いていた洗面器を手繰り寄せ、顔をその中に突っ込んでみるが、幽かに痛む頭は重く、脳が鈍く揺さぶられているように感じられた。
 目を閉じているのに、目眩がする。
 意味のない呻き声を零しながら、一度、彼女以外のことを考えよう、と思った。
 そもそも、例年通りであれば、自分たちは八月の終わりまで実家で過ごしているはずだった。しかし、今年は真崎の提案で、帰省を途中で切り上げている。理由はわからない。あとで説明する、と真崎に言われていたが、それを聞く前にこうなってしまった。
 結局、新たな情報が手に入ることはなかった。得られたものといえば、父との会話で生まれた新たな謎くらいなものだ。
 父に指定された場所に赴き、加持祈祷の後、少しだけふたりで話をした。父と腰を据えて話ができる機会はそう多くない。僧侶という職業は、意外と忙しいものらしい。
「魔術が存在するってことは、仏さんも、ほんまにおるってこと?」左腕をさすりながら父に訊ねた。「昨日、ちょうど、真崎とそんな話をしとったんやけど⋯⋯」
「私は仏の存在を信じている。だが、それは魔術とは関係のない話だ」父はゆっくりと、低い声を響かせた。「魔術など、化学反応や物理現象とさほど変わりはない。手を離せば物体は落下する。物質は特定の条件下でいかような反応をするか。それと同じだ。一方で、仏とは、この世の真理を意味する。その真理には、魔術という現象も含まれよう。しかし、魔術では説明できない、より神秘的な力というものはたしかにある。私は何度もこの目で見た。だから信じられる、というだけだ。お前が疑念を抱くのも無理はない。とはいえ、なに、この世の全てが解明されることはない。何事にも例外はある。そんなものもあるかもしれない、と許容することができればそれで良かろう」
「そんなもんかな」
「お前には、少し難しいかもしれないな」父は少し笑ったようだった。「昔からそうだった。自分が納得できるまで受け入れられない。もちろん、それは悪いことではない。お前はそういう人間だ、というだけの話だ」
「じゃあ、父さんらと対立しとるっていう魔術組織は、研究所みたいなもんか?」
「ほう⋯⋯」父は一度、静かに息を吐き出した。「ひとつだけ、訂正しておくが、あの外道の組織と敵対するのは私たちだけではない。むしろ、この日本に在る組織のほとんどは彼らと相対する立場だ。より平和な世界を望む者であれば、彼らを許すことはできまい。しかし、外道にはそれを上回る外道を以て臨まなければならん。より正しい道をと望むお前にとっては受け入れがたい話だろう。だが、正しさというものもまた、簡単に変わりうるものだ。絶対的な正しさがあるとすれば、それこそ、人理を超越した次元に在る。私たちがそれを目にし、胸に抱くことは難しい」
「せめて、なんで俺らが狙われたんかくらいは、教えてほしいんやけど」
「お前は彼女と出会った」父が言った。
「彼女って⋯⋯、近衛のことか?」声を張り上げてしまい、咄嗟に眉根を寄せた。「でも、じゃあ、それが狙われた理由ってこと?」
「彼女はお前と出会うことを選び、お前もまた、それを選びとった。全てが仕組まれたことであったとしても、全てが必然であったとしても、お前たちが選んだ、という事実は揺るがない。私にはどうすることもできなかった。だからこそ、私は、お前を魔の手から守り抜きたいのだ。わかってくれ、狭霧。私たちはお前を守りたい。それこそ、揺るがない事実だ。長く続いたしがらみは此処で断ち切る。そのために、私たちは此処にいる」
 薄く目を開ける。
 それでも、俺は彼女を否定できずにいる。
 初めて出会ったあの日から、ずっとそうだ。誰よりも怪しく、何者かもわからない。そう、最も警戒すべき相手であるはずなのに、自分は彼女を疑うことさえできないでいる。
 ただひとり、歪まないから?
 本当にそれだけなのだろうか。
 緩く、目眩がした。
 目を閉じる。
 真崎は彼女を警戒している。それが正しい。きっと彼女自身も、それが正しいと言うだろう。
 それでも。
 彼女の姿を捉えるたび、俺は安堵して、けれど次の瞬間には不安に襲われている。そしてまた、彼女の姿を追う。その繰り返し。
 手を伸ばして、彼女の手を掴めたら良かった。
 良かった?
 自分は今、なにを後悔している?
 後悔?
「あかん、気持ちわる⋯⋯」
 洗面器から顔を上げて、再び枕に額を押しつける。声を出して呟いたところで、返事をしてくれる人はいない。無性に喚きたくなった。暴れて、手当たり次第に物を投げつけて、壊して、なにかを喪失してしまいたかった。
 そんなことをしたところで、誰も返事はしてくれないのに。
 それでも、なにか、自分の中に、激しい衝動がある。
 きっと、俺はなにもできないから。
 それが悔しい。
 それが、どうしようもなく腹立たしい。
 まるで子どもだ。
 微睡の中、自覚して、自嘲した。
 目が覚めたら、どうにかして彼女に謝ろう、と思った。