第三章 処暑

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 翌日、父にいくつか質問を投げかけてみたが、どれも明確な答えを得ることはできなかった。父の主張は常に、確かなことが言えないから、の一点張りだった。
「ほとんどが我々の推測だ。不確定な要素も多い。もちろん、確定的な情報もあるが、それらはおいそれと開示できるものではない。いわば、これは一種の情報戦だ。まず、相手の手札について、どれだけの情報を集められるか。そして、此方の切札をどのようにして伏せ続けるのか。かつて我々は、そもそも切札など持っていない、と主張し、その証拠をばら撒くことで相手の警戒を緩め、脅威を回避してきた。相手にとっては、我々の呪法そのものが未知なのだ。しかし、ついに、隠し通すことができなくなった。それが⋯⋯」
「それが、先代のときってわけか」
「いつかは必ず綻びが生まれる。それは仕方のないことだ」父はオレの言葉に頷きながら、そう言った。「しかし、先代は命を賭して守りを強化した。我々には隠している切札が他にもある。相手がそちらの切札を把握した上でお前たちを襲ったのかどうかはまだわからない。これがブラフの可能性もある。つまり、切札の存在を予測した相手方が、さも情報を握ったかのように振る舞うことで、相手は既に切札について知っているのかもしれない、と我々に思わせる。そうして、此方の隙を狙って、情報を探るというわけだ」
「その切札って、狭霧のことか?」
 父はそれ以降、何も答えなかった。
 小屋をあとにしたオレは、早くシャワーを浴びたかったが、庫裡には戻らずに山の裏手に向かった。標高が少々高いからといって涼しいわけではない。鬱蒼とした森の中では、むしろ、息苦しささえ感じる。
 少し登って、小径を抜けたところに、その蔵は在った。
 蔵の前に立つ。
 開けた場所に建っているが、周囲に人はいない。蔵の四隅には金剛杵が杭のように埋め込まれている。四方結界だ。開かずの蔵と呼ばれたその建物は、しかし、中学三年の夏に一度だけ開いたことがあった。現在は厳重に閉ざされ、再び開くことのない蔵となっている。
 昔は、この開けた場所が自分たちの遊び場のひとつだった。狭霧と蹴り飛ばして遊んでいた結界石が、先ほど通ってきた小径の脇に置かれている。
 中学三年の夏。狭霧はこの蔵の前で倒れた。
 あの日から狭霧は変わった。自分も変わらざるを得なかった。オレたちの転換点は、まさしくこの場所だった。
 あの日、なにが起こったのかは、今でもわからない。
 オレたちは此処で遊んでいた。狭霧がオレを追いかけていた。敬もいた。同じ年頃の、方丈の子どもたちがいた。狭霧は、オレたちを追いかけている最中に、突然この蔵の前で鼻血を出したのだ。
 振り返ると、狭霧は蔵の前に立ち止まって俯いている。
 狭霧の名を呼びながら、駆け寄った。
 狭霧が顔を上げて、
 鼻血が、落ちて、
 その瞬間、
 開かずの蔵は、音もなく開いた。
 思い出す。
 その場にしゃがみ、蔵の入口を確かめた。ちょうど狭霧が立っていた場所だ。戸前には一段だけ、石でできた段差がある。その石には小さな窪みが彫られていた。よく見ると、窪みの溝が僅かに黒ずんでいる。狭霧の血が此処に落ちた可能性は高い。
 四方結界。血。開かずの蔵。
 頭の奥が幽かに痛む。
 狭霧は以前、気がついたら視界が歪んでいた、と言っていた。あのときは自分も、衝撃的な告白の内容に気を取られていたが、今となっては、どう考えても、此処で起きたあの日の出来事が狭霧の視界を歪めたとしか思えない。
 あの出来事を、狭霧は覚えていない?
 否、狭霧は、開かずの蔵が開いたことは覚えていた。自分があの日、倒れたことだけが記憶になかったのだ。しかし、そんなことが有り得るのだろうか。
 オレは、あの喧騒まで思い出せる。
 大人たちが叫びながら、その場を取り囲んでいた。父の怒鳴り声が響き渡っていた。狭霧の兄が、倒れたままの狭霧の許に駆け寄っていった。自分たちは突っ立っていただけだ。なにもできなかった。なにが起こっているのかもわからなかった。
 目覚めてから、狭霧は突然、何度も吐き戻した。オレはそんな狭霧に声をかけることもできないまま、父に連れられて修行の日々を過ごした。次に狭霧と顔を合わせることができたのは数週間後のことで、そのときにはもう、すっかり人相が変わってしまっていた。部屋に閉じこもり、ろくに食べることもできず、泣きながら嘔吐する日々。
 もちろん、狭霧には生物が歪んで視えていたとは誰も知らなかっただろう。
 知らないはず、なのだが。
 なにせ、オレたちに魔術の「ま」の字も見せず、徹底的に情報を伏せていた家だ。
 父は、既に知っているのではないか?
 狭霧の父である現当主も、狭霧の兄も。深も、敬も、方丈の男たち皆が知っている可能性だってある。
 知っていて、知らないふりをしている?
 オレは知らなかった。三年前の夏、狭霧が嘔吐を繰り返していた原因も。怯え、叫び、狂ったように顔を毟り、目を抉ろうとした理由も。知らなかった。視界が変わり、生物が歪み、よく知った顔が異様に変形して、自分の顔さえ原型を留めずに揺れ動いていたからだなんて、本当に知らなかったのだ。
 だが、もしも。
 父は、皆は、それを知っていたのだとしたら?
 何度も吐き戻しながら、泣いていた狭霧を。オレが何度止めても、鋏を握り締め、眼球に突き刺そうとした狭霧を。性格を無理に変えてしまうほど、苦しんでいた狭霧を。
 助けなかったのはなぜだ?
 手を差し伸べることさえしなかったのはなぜだ?
 なぜ、狭霧ひとりで抱え込ませて放置した?
 そこまで考えて、一度頭を振った。
 自分は今、推測だけで決めつけようとしている。
 その場に立ち上がった。
 一度、目を閉じて、呼吸を意識する。
 目を開けた。
 ひとつ、思いついた仮説がある。この家は狭霧の視界のことを知っていて、さらに、この開かずの蔵の前での出来事について狭霧の記憶を封じているのではないか、という推測だ。
 突拍子もない自覚はある。だが、魔術という存在を知ってしまった今、記憶の操作、という単語さえ現実味を帯びてきた。
 そして、わざわざ視界が歪んだ日の記憶に手を加えたということは、狭霧の視界の変化について、この家はなにかを知っている可能性が高くなる、ということだ。
 もちろん、これも推測だ。推測の上に推測を積み重ねている。自分は論理的な思考というものにあまり向いていない。どちらかといえば、狭霧のほうが適任だ。
 その代わり、感覚的にしか物事を捉えられない分、直感には自信があった。
 きっと、切札とは狭霧のことだ。これも直感であり、ただの推測だった。けれど、予感がする。なにより、そう仮定すれば、狭霧が襲われた理由の筋が通る。
 思わず舌を打つ。
 嫌な予感しかしなかった。