3/名護真崎
「魔術とは、読んで字のごとく、魔を用いた術のことを指す。魔というのは、そうだな⋯⋯、エネルギィのようなものだ。全ての運動には、或いは状態を維持するためにさえ、常にエネルギィを必要とする。物理の授業でやっただろう」
「知らねえ」
「我々の呪法について説明をする前に、小学生の理科をやり直したほうが良いかもしれんな」父はあからさまに顔を顰めて溜息を吐いた。「魔術、という現象を起こすために必要なエネルギィだと理解しておけ。嚙み砕いて言えば、原動力、もしくは材料だ」
「材料?」
「魔術の規模が大きくなるほど、材料、すなわち魔が大量に必要になる。しかし、魔に触れ、これを扱うためには、術者自身が魔を保有していなければならない。これが魔を操るためのエネルギィとなる。つまり、魔力と呼ばれるものだ」
「聞けば聞くほど、漫画みたいだな」
「だが、魔力自体は、この現代に生きる人間であれば誰でも保有している」
「え?」
「魔臓、と呼ばれる臓器がある。心臓や膵臓、脾臓と同じように、臓器のひとつとしてな。これは魔を生成する臓器だ。魔臓は、魔術を行使できる人間でなければ視ることはできない」
「でも、魔力ってのがあれば、魔術は使えるんだろ? もしかして、本当は、誰でも魔術を使えるってことか? そうなると、その魔臓ってのも世間一般に知られてそうなもんだけど」
「たしかに、進化の過程で、魔臓を持たない人種は淘汰されたと言われている。だが、だからといって、全ての人間が魔術を行使できるわけではない。もうひとつの条件をクリアする必要がある」父は一度、素早く息を吐いた。「それが、視界だ」
視界、という言葉に、思わず反応してしまう。真っ先に狭霧を思い浮かべた。
「視界というのは、視点を変え、物の見方を変えることができるかどうか、ということだ。たとえば、真言がそうだ。真言など、なにも知らなければただの文字列でしかない。だが、我々はそれが仏という法そのもの、真実のお言葉であり、菩薩による秘密のお言葉であることを知っている。我々は、この世に溢れる音の全てに力があることを知っているのだ。だからこそ、音そのものに込められた、圧倒的な、全てを超越した力を感じることができる。そういった発想の転換こそが、魔術を使うにあたって、もっとも重要な条件だ」
「なんとなく、わかったような、わからないような」
「仕方あるまい。それこそ、仏の真実のお言葉と同じく、人間の言語活動で正しく全てを表現することなどできん」
「じゃあ、魔術を使えるのは、魔臓があって、視点を変えられる人間ってことか? でも、やっぱり、それなら姉貴だって⋯⋯」
「真墨は、恐らく、視界を切り換えることができないのだろう。真言を意味のない文字の羅列と捉えることができない。つまり、あの子は初めから、恐ろしいことに、教えられることなく、その真言が意味する法を知っている、ということだ」
「視界の切り換えって、うーん、テレビのチャンネルを切り換える、みたいな?」
「なるほど⋯⋯」父は腕を組み、小さく唸った。「魔術を使用できない一般人は、現実世界のチャンネルにしか合わせられない。我々は、その現実世界のチャンネルに加えて、真言や宗教を通して、もうひとつのチャンネルに切り換えることができる。しかし真墨は、もうひとつのチャンネルにしか合わせられない、というわけだな。真墨については、あくまで、我々の推測でしかないのだが」
「じゃあオレは、その視界ってのを切り換えて、真言を唱えりゃ魔法が使えるってこと?」
「魔法ではなく、あくまで魔術だ。法、すなわち真理そのものに介入することはできんからな。魔法使い、というのはフィクションにおける俗称だ。実際にそんな者はおらん」呆れたような溜息を吐きながら、父が言った。「しかし、流れとしてはそうだ。呪法であれば、意識を切り換えて真言を唱え、印を結び、正しい手順を踏む。勿論、唱える真言は、一文字のミスも許されない」
「真言の音を間違えちゃ、元も子もねえってこったろ」
「そうだ」父は重々しく頷いた。「それと、お前はまだ、意図して魔術を行使することはできないはずだ。今後はまず、そこを重点的に修行することになる」
「わかった」
「鍛錬は、これからも疎かにしないように」
父はそう言い残してその場をあとにした。自分もすぐに立ち上がり、密室から外に出る。肌に触れた僅かな風が心地よく感じられた。
山を下り、縁側から自室に戻る。シャワーを浴びて作務衣からTシャツに着替え、廊下を歩いていると、姉と鉢合わせた。
姉の姿を捉えた瞬間、オレは縁側から飛び降りて逃亡しようとしたが、姉に襟を掴まれて阻止される。
「おい、やめろ、首絞まる、」
「あんた今朝、あたしの部屋の前の雑巾がけサボったわね」
姉は襟から手を離すと、腕を組んで此方を睨んだ。タンクトップの上から作務衣を雑に着崩したラフな恰好で、いつもどおり、明るい茶髪を後ろで適当に束ねている。
「あったりまえだろ、なんでオレが姉貴の部屋の前の廊下まで掃除しなきゃなんねえんだよ。自分でしろ、自分で」舌を出してみせてから、姉が口を開く前に、すかさず別の話題を持ちかける。「なあ、狭霧見てねえか?」
「若さまなら、あっちの庭で子どもたちと遊んでたけど」親指で後ろを示しながら姉が答えた。「そういえば、若さまって、なにかあった?」
「なにかって何」
「少し雰囲気が変わった気がするのよね。悪い意味じゃなくて⋯⋯」姉が僅かに目を細める。「前よりも、感情が表に出やすくなってる感じ」
「ああ、多分、近衛さんのおかげじゃねえの」
「近衛さん?」突然、姉の声が鋭くなった。「誰? それ。え、まさか、若さま、」
「あ、いや、ちげえって、そうじゃなくて⋯⋯」驚いたことに、彼女のことをまったく知らない反応だった。しかし、考えてみれば、今まで狭霧の兄や深たちが彼女の存在を知っていたことのほうが可笑しいのだ。「なあ、この話、内緒にしてくれるか」
「いいけど」姉はあっさりと承諾した。
「実は狭霧の奴、中学の途中から、人間がダメになったっていうか⋯⋯」
「中学?」一瞬、姉は眉を顰めた。「ああ⋯⋯、あのゲロゲロ吐いてた時期ね」
「言い方ってもんがあるだろ。そのとおりなんだけどさ」
「嘔吐の理由、人間アレルギィだったの?」
「まあ、人間アレルギィっていうか、生き物アレルギィって感じ」
「ふぅん。難儀なもんね」
「難儀どころの話ではねえけどな」
「あ、わかった、近衛さんって子は大丈夫なんだ」
「そういうこと」
「だから、あんたは少し凹んでるわけね」
「はあ?」次は、自分が思いきり眉を顰める番だった。「いきなりなんの話だよ」
「あまり気にしないことね。そりゃあ、若さまを変えるきっかけはあんたじゃなかったかもしれないけど、あんたにはあんたが成すべきことがあるわよ。お父さまたちが仰るようなことじゃなくて、もっと、あんただけの、なんていうのかしら⋯⋯、精神的なもの。うん、そっちを頑張りなさい」
姉は一方的に話を終わらせると、此方の返事も聞かずに歩き出した。振り返ったときには、その背中が廊下の曲がり角に消える直前だった。
明日から、姉の部屋の前の廊下は水浸しの雑巾で拭いてやろう、と心に決めた。