第三章 処暑

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 甲高い声と、謎の衝撃で目が覚めた。
 重い瞼を慌てて持ち上げると、目に入ってきたのは、見慣れた自室の天井と明るい障子。そして、自分の周りを取り囲む作務衣姿の三人の子ども。しかも、ひとりは腹の上に乗っている。三人は、此方を覗きこむようにして身を乗り出していた。
「狭霧にいちゃん、やっと起きた」手足をばたつかせながら、子どものひとりが腹の上からずり落ちる。
「もう掃除終わったで」
「なあ、起きて」横から手を引っ張られた。「いっしょに遊んでくれるんやろ」
「その声、誰や⋯⋯、えっと⋯⋯」目を擦りながら上体を起こす。「れんか?」
「蓮ちゃう、みのるやし!」
「若さま、俺らのこと覚えてへんの?」
「蓮は俺やで」
「いっぺんに喋んな、やかましい⋯⋯」硬くなっていた背中を伸ばすと音が鳴った。畳に寝転がっていたせいか、節々が痛い。「ちょっと目ェ悪なって、誰かわからんかっただけや」
 とはいえ、彼ら三人に血の繋がりはなく、外見もそれぞれ全く異なっている。だが、自分の目では見事に区別がつかない。この寺には方丈と名のつく者が数多くいるが、彼らは皆、この山に捨てられていたか、運営する孤児院から寺に引き取られた者ばかりだ。子どもたちも、今は方丈の姓を名乗っている。
「こんだけ近づいてもわからんの?」実は頭突きしかねない勢いで顔を寄せた。
「もうわかったって」
「うそや」蓮が笑う。「なあ、早よ遊ぼうや」
「兄貴のとこ行ったら遊んだるから、先行っといて⋯⋯」
「すぐな、ほんまやで!」
 騒がしく三人が部屋から出て行ったあと、自分もその場に立ち上がり、回り廊下に出た。庭に下りてサンダルを履き、砂利の上を歩く。今日は朝から、お盆に向けて掃除や仏具磨きが行われており、居住空間である庫裡くりはいつも以上に人気がない。真崎もどこかに連れていかれてしまったため、俺はひとりで時間を潰していたのだが、気がつけば自室の畳の上で眠っていた。子どもたちの襲撃で目は覚めたものの、瞼は重く、欠伸もしばらく止まる気配がない。
 石畳みの階段を使って山を少し下り、寺の境内を進む。参拝に立ち寄ったのか、本堂の周りには疎らに人がいた。Tシャツとハーフパンツを着て、サンダルで歩く自分の姿は、少々場違いかもしれない。
「狭霧?」突然、背後から声をかけられる。振り返ると、法衣姿の兄がいた。「どないしたん。珍しいやん、こっち下りてくるなんて」
 兄は、黒い法衣に加えて、伸ばした髪を後ろでひとつに束ねた暑苦しい出立ちをしていた。坊主のくせにわざわざ髪を伸ばす理由はよくわからない。昔は、今の自分よりも短かったはずだ。
「なんかあった?」兄が再度訊ねた。
「いや。兄貴に用があっただけ」
「あ、俺? ええよ、今なら少し時間あるし」兄が歩き出したので、後ろをついて歩く。どうやら、本堂の中に入るらしい。「いやあ、昨日の晩もな、自分らのこと出迎えたろ思てたのに、急に法要入ってもうてなあ。寂しい思いさせてすまんな」
「誰が寂しがるか」兄に向かってわざと顔を顰めてみせたが、兄は此方を向いたまま、しかしなにも答えなかった。
 本堂に入り、しばらく廊下を歩く。裏道のような通路を進み、客間に通された。本堂とは違った人工的な涼しさに切り換わる。法事の際に使用される大人数向けの客間ではなく、かなり小ぢんまりとした一室だった。窓は障子になっていたが、壁は明るい色をした板張りになっていて、畳ではなく絨毯が敷かれている。足の短い机とソファもあり、あまり和室らしくない。
 ソファに腰かけると、作務衣を着た寺男が入室し、机の上に湯呑みを置いてすぐにその場を離れた。
「そんで、俺に用って何?」向かいのソファに座る兄は、茶を一口飲んでから湯呑みを机に戻した。
「とぼけんな。いろいろ俺に説明せなあかんことがあるやろ」
「いっぱいある」兄は可笑しそうに言った。「けど、今はそれが本題ちゃうやろ? もしそれが目当てやったら、真崎くんといっしょに聞きに来ると思うけど。わざわざひとりで来たんや、なんかあるんやろ」
「じゃあ、単刀直入に言うけど」
「うん」
「陽桐にぃなら、近衛が通院できる病院、紹介できるよな」
 兄は珍しく、本当に驚いたような反応を見せた。しかし、すぐに息を吐き出して笑うと、腕を組んでソファの背にゆっくりともたれる。
「その、頼みごとするときだけ陽桐にぃって呼ぶの、わざと?」
「わざと」
「うわあ、怖い男に育ったもんやで」
「茶化すなや」躰を起こし、自分の膝に肘をついて前傾した姿勢をとる。「なあ。俺は、金まで払え、とか言うてへんぞ。まさか、病院の紹介すらできひん、なんて言わんよな?」
「うーん、困ったなあ」だが、兄の声はどこか楽しんでいるようにも聞こえた。
 兄の輪郭は一定に揺れている。装うのが上手いのか、兄の言葉は、嘘かどうかいまいちよくわからない。そういえば、昔から、わざとらしい愛想笑いばかり浮かべている男だった。
「できるか、できんか、どっち?」
「一個だけ訊いていい?」兄は組んでいた腕を広げ、肘をソファの背もたれに置いた。「それ、お前になんのメリットがあるん?」
「は?」
「せやから、斎ちゃんが通院できるようになったとして、お前になんの得があるわけ? お前がそこまで面倒見る義理なんて、ないやろ」
「それ、本気で言うとんか」思わず、目を細めて睨みつけた。「躰が弱いって聞かされたら、普通、気にするやろ。体育も出られへん、ちょっと走っただけでぶっ倒れて、食事もしたことないとか抜かすんやぞ。そんなん、どう考えても心配にならんほうが可笑しいやんけ」
「心配する気持ちはわかるけど」
「けど、何? 俺にできることがあるならしてやりたいって思うことのなにが可笑しいねん。俺の損得とか、義理とか、そういう話じゃないし⋯⋯、そうや、そもそも、俺が兄貴を説得できたら通院できるかも、って近衛は言うとったけど、それってつまり、兄貴らは、やろうと思えばできるけど、してやる義理がないからせんかったっちゅうことやろ。悪いけど俺は、そっちのほうが意味わからん」
「そうか」兄は呟くように言った。「まあ⋯⋯、お前の顔つきまで変えてまうんやもんな」
「顔?」
「できるかどうか、今はまだ断言できん」兄はソファに座り直すと、少し低い声で話を戻した。「やけど、いくつか当たりはつけてある。そこには俺から連絡する。病院の返答次第。それでええか」
「わかった」
「まったく⋯⋯、俺の領分ちゃうんやけどな」
「ありがとう」
「棒読みやないか」兄は苦笑しながら言った。一気に茶を飲み干すと、湯呑みを置いて立ち上がる。「ま、ええよ。どのみち、俺の一存じゃ病院にも連れて行けんかったし。でもまあ、そもそも、あの子が素直に病院に行くとは思わんけど⋯⋯、そこまで俺は面倒見んからな」
「病院が決まったあとは、俺の責任か」横を通り過ぎた兄を振り返る。
「当たり前やん。お前は俺に、関東に手ェ伸ばせって言うたんや。病院に圧力かけて口止めするとか、やっとること、ヤのつく奴らと変わらんで。せやから、お前にも、そのくらいは覚悟してもらわんと」
「近衛って、要人かなんかか?」
「そうやなあ」兄は襖に手をかけて、此方を振り返った。「国も金出して捜すくらいの大物ではあるかな」