第二章 大暑

     7

 ノックをすると、近衛は少しだけ扉を開けて、隙間から覗くようにして顔を見せた。
「焼きおにぎり持ってきました」近衛が口を開く前に、真崎が皿を差し出して言った。「せっかくだし、食べませんか?」
「ごめんなさい、いただけないわ」近衛は緩く首を横に振った。
「もしかして、なにかの病気ですか?」真崎が訊ねる。
「アレルギィはありません。食事制限を必要とする類の疾病もないわ」
「食べたことがないだけ?」
「今まで、口にしたことがないものだから⋯⋯」
「ちょっと怖い?」真崎は少し腰を屈めた。
「そうね」近衛は微笑んだが、いつもより弱い笑みに見えた。
「うーん、あ、じゃあ、塩むすびにします? 米と塩だけだし、いちばん抵抗がないかも」
「でも⋯⋯」
「どうしたん?」
 そう訊ねると、彼女は一度此方に目を向けたが、瞬きののち、静かに視線を外した。細い髪が彼女の目許を覆ってしまい、あまり表情が伺えない。
 やがて、彼女は小さく息を吐き出した。
「私はまだ、あの人たちに、顔を合わせるわけにはいかないの」非常に小さな声だった。
「あの人たちって⋯⋯、まさか、深と敬のことか?」予想外の答えに、僅かに眉を顰めてしまう。「ていうか、自分、俺の兄貴とも知り合いちゃうんか。今さら、顔を合わす合わさんとか、そない気にするような⋯⋯」
「狭霧、落ち着けって」真崎が苦笑混じりに言った。「あの二人なら、もう帰りましたよ」
「え?」近衛は驚いたように顔を上げた。
「近くに泊まるって。明日、終業式のあと、オレたちは実家に帰ることになったんですけど、そのときに迎えに来ます、だってさ」
「そう⋯⋯」
「どうします? 今はオレらしかいないし、近衛さんの分の食事も用意してあるみたいっすよ。なんなら、食べなくてもいいから、もし体調が悪くなければ、リビングで少し話でもしませんか? こう見えて狭霧のやつ、すげえ心配してるんだぜ」
「いや、あのさ⋯⋯」彼女の様子を伺うが、目が合わず、自分も視線を彷徨わせてしまう。「ごめん、その、詮索するつもりはないって言うたのに、早速してもうて⋯⋯、話したくないことは話さんでいいし、無理には訊かん。けど、ただ、ずっと部屋から出てこんのは心配になるというか⋯⋯」
「わかりました」彼女は伏し目がちに返事をした。「お話できることは、できるだけお話します」
 近衛は、ベッドサイドに置かれていたグラスを取りに、一度部屋の中に戻った。その間、入口から彼女の部屋を見渡す。なにもない。カーペットすら敷かれておらず、確認できるのはベッドと簡素なデスクのみ。ベッドのシーツもほとんど皺はなく、机の上も異様に片付いていた。
「お前の部屋みたい」小声で真崎に話しかける。
「さすがにもう少し生活感あるっての」
「まあ、たしかに⋯⋯」
「言っとくけど、オレの部屋、あれでも意外と物あるぜ」
 近衛がグラスを持って戻ってきたので、会話はそこで途切れた。彼女からグラスを受け取る。水は半分まで減っていた。
「体調は大丈夫ですか?」真崎が訊ねた。
「もう落ち着きました。ありがとう」
 真崎と近衛の背中を見ながら、二人の後ろを歩く。階段を下りてリビングに入り、テーブルに座った。近衛は、俺と真崎の向かい側に腰かける。彼女はそのまま動かなかったので、ひとまず、自分たちだけで焼きおにぎりを食べることにした。少し冷めてしまっていたが、充分に美味い。
 その間も、近衛は俺たちの食事の様子をじっと観察しているようだった。
「どうしました?」
 真崎が声をかけると、近衛は不意に微笑んだ。
「やっぱり、私は遠慮しておきます。私の分もどうぞ」
「わかりました」真崎が近衛から皿を受け取る。「でも、なにか胃に入れときませんか? やっぱり、サプリメントだけは無理があると思うんすよね」
「そうやな」自分も賛同する。「嬢さん、躰弱いんやろ。それやったら尚更、ちゃんと食ったほうがいい」
「それに、初めて飯に挑戦するなら、ひとりのときより、誰かといるのときのほうが良いっしょ」
「それは、そうだけど⋯⋯」困ったような薄い笑みを浮かべて、近衛は首を幽かに傾けた。
「オレが作りますよ。まずは、ほら、お粥とか」
「たしかに、最初はそのくらいの料理のほうが胃もびっくりせんでええかもしれんけど、お粥って正直、美味いか?」
「うーん、そう言われると微妙⋯⋯」真崎は腕を組んで呟いた。「雑炊でもいいんだけど、さすがにそんな材料まで買ってきてねえだろうし」
「塩むすびでええんちゃうん」
「そうだな。近衛さんはそれでいいか? 量は少なめにしておくから、一個だけ、挑戦してみる?」
「ええ⋯⋯」
「よし、決まり」真崎は歯を見せて笑った。「めちゃくちゃ美味いおにぎり握っちゃる」
「真崎の飯は美味いから、大丈夫やと思う」
 近衛にそう声をかけると、彼女は曖昧に微笑んで頷いた。
「まだしんどそうやな」
「大丈夫よ」
「無理せんと、病院に行ったほうが⋯⋯」
「私、病院には行けないの」
「え?」
「でも、そうね。貴方がお兄様を説得してくださるなら、通院できるようになるかもしれないけれど」
 そこでようやく、彼女は少し悪戯っぽく笑った。しかし、言外に無理だと言われているような気がして、つい口許が不機嫌に歪む。
「やっぱり、兄貴と知り合いなんか」
「貴方のお兄様とは、一度だけ会ったことがあるわ。そのときに久遠寺のことをお聞きしました。それと、貴方たちのことも」
「オレも?」真崎が自分の顔を指さした。
「ええ。貴方のお名前までは知らなかったけれど」
「俺の目のことは? しかも、なんでお前は歪まへんってわかったんや」そこまで訊ねて、以前、屋上で交わした会話を思い出した。「あ、いや、それは話せへんのやっけ⋯⋯」
「貴方たちは、もうこれ以上、巻き込まれるべきではないもの」
「充分巻き込まれとる気がするけど」
「そうね」彼女はあっさりと頷いた。「あの男たちが、貴方を捕らえるつもりだったのか、攻撃するつもりだったのかはわからないけれど⋯⋯」
「男っていえばさ」真崎は一瞬言い淀んだが、すぐに口を開いた。「あれ、誰だったんすか」
 三階から飛び降りてきた、あの謎の男のことだ。
 そう気づき、僅かに身構える。
「誰なのかしら」しかし、近衛は軽い返事を寄越すと、肩を竦めた。「ストーカみたいなものよ。正直、彼が何者かだなんて、私にもよくわからないわ。一度名乗られたような気がするけれど、興味もありません。けれど、そう⋯⋯、お兄様の言葉を借りるなら、彼も魔法使いだということかしら」
「じゃあ、オレたちを襲ってきた奴らの仲間?」
「仲間ではないと思うわ。彼は無所属だから⋯⋯、かといって、貴方たちの仲間でもないことは確かだけれど」
「所属って⋯⋯、なにか、対立してるんすか?」
「ええ」
「ちょっと待って、そんなことより、ストーカってお前⋯⋯、それはあかんやろ」男の容姿はわからないが、あの強烈な歪みと、異様な揺らぎ方は嫌でも思い出せる。「あの男は、絶対危ない」
「貴方の目にはそう映ったの?」
「危ないっていうか、あんなん、どう見ても異常や。俺と同じくらい酷い歪み方しとる奴なんて、今まで見たことないで」
「でも、それだとお前も危ない男ってことになるよな」真崎が言った。
「あ、いや、うん⋯⋯、たしかに、俺がいちばん酷いんやけど⋯⋯」
「冗談だって」真崎は笑いながら、皿を持って立ち上がった。知らぬ間に、近衛から受け取った分も平らげていたらしい。「そんじゃ、オレはそろそろ、気合い入れておにぎり作ってくるわ」
「わざわざごめんなさい。ありがとう」
「飯はちゃんと食わねえとな」
 真崎は空になっていた俺の皿も回収すると、近衛に一度笑いかけてから、キッチンのほうへ向かった。