第二章 大暑

     6

 静かに扉を開けた近衛は、制服姿のままだった。
「体調どない?」
「大丈夫。お気遣いなく」
「水持ってきた」グラスを差し出すと、彼女は両手で受け取った。
「お話は終わったの?」
「一応な」腕を組み、近衛の部屋のドア枠に寄りかかる。「でも、もうしばらくおるみたいやけど。それと、キッチンも借りると思う」
「ええ。お好きにどうぞ」
「おいこら、ドアを閉めようとすんな。俺を挟む気か」
「何?」
「嬢さん、」
「もう少し休ませて」
 近衛は少し俯いたまま、此方を見上げた。笑みはない。彼女の唇は軽く引き締められている。
 勿論、訊きたいことは山ほどあった。気にならないといえば嘘になる。けれど、それを訊きにきたわけではない。無理に訊きだすつもりもなかった。
 それでも今、彼女は、間違いなく拒絶している。
 そうだ。
 俺が心配したところで、彼女の体調が良くなるわけではない。結局のところ、心配など、自分勝手な行動でしかないのだ。
 躰を起こす。少しずつ苛立ちが募っていくことにさえ腹が立ち、唇の端を嚙んだ。できるだけそれを表に出さないように静かに歩いて部屋をあとにする。しばらくして、背後で扉の閉まる音がした。
 階段を下りてリビングに入ると、深と真崎がお互いの近況を話し合っていたが、此方の表情を見てか、真崎が驚いたようにその場に立ち上がった。
「え、なに、どうした?」
「ちょっと和室で寝転がってくる」
「ご気分が優れませんか?」深も立ち上がろうとしたが、手を持ち上げてそれを制する。
「大丈夫。ちょっと眠いだけやから」
 返事を待たずに背中を向け、和室に向かった。
 襖を閉めて部屋の奥に進み、壁にもたれて座り込む。真新しい藺草の匂い。四畳ほどのスペースだが、極端に物が少ないので実際よりも広く感じられた。
 足を折り曲げて抱える。膝に顔を埋めて、目を瞑った。
 彼女は、自分を利用しろと言った。
 俺にとって、彼女は間違いなく特別だ。歪まない。この視界の中で唯一。なによりも異質で、特異な存在。
 けれど、彼女にとって、自分は何者でもない。
 当たり前のことを、今さら思い知った。不公平だ、と思った。そんなことを思う自分に、また腹が立つ。
 わかっていたはずなのに。
 きっと、非現実的な出来事や、衝撃的な事実の数々に滅入ってしまっているのだ。先ほどの話を、はいそうですかと素直に受け止めることは到底できない。素直に受け止めた振りをすることすらできない性質であることは、自分がいちばんよくわかっている。
 そうしてしばらく項垂れているうちに、本当に眠っていたらしい。真崎に揺すられて目を覚ますと、空腹を刺激する香ばしい匂いが漂っていた。
「そんな隅で、座ったまま寝てたのかよ」真崎は自分の前にしゃがみこんでいる。
「何時?」全身に幽かな痛みを感じて、慎重に躰を伸ばしながら訊ねた。
「夕方の四時前」
「これ、焼きおにぎりの匂い?」
「美味そうだろ。今、敬が焼いてるとこ」真崎はその場に座って胡座を掻いた。「食べられそうか? 気分は?」
「大丈夫。むしろ腹減った。気分も悪くない」
「良かった」歯を見せて笑ったようだ。「そういや、近衛さんの様子はどうだった?」
 真崎の質問に答えようとして、彼女との短いやりとりを思い出してしまい、思わず顔が歪む。すぐに誤魔化そうとしたが、既に一拍、言葉に詰まってしまっていたのがまずかった。
「どうした?」真崎が見逃すはずもなく、不思議そうに首を傾げた。「さっきも思ったけど、なんかあったのか」
「まあ、その⋯⋯、追い出された」
「追い出された? 出ていけって言われたのか?」
「早く部屋から出てってほしい、って感じやったから⋯⋯」
「だから落ち込んでんの?」
「落ち込んでるわけじゃないけど」両手で顔を覆う。「いや、落ち込んでんのかな、これ⋯⋯」
「ま、普通にショックだよな」真崎は軽い口調で言った。「そんで? お前はどうしたいの」
「今の、ちょっと真墨っぽい」
「最悪」真崎が短く息を吐き出して笑った。「姉貴と似てるとか、なんも嬉しくねえ」
「べつに、どうにかしたいわけじゃないねんけど」
「うん」
「俺って、なんにもできひんのやなって、改めて思い知っただけというか」手を下ろしながら横を向く。「お前と深の会話を聞いとってもそうや。俺はなんも知らんくて、蚊帳の外で⋯⋯、お前みたいになにかができるわけでもない。なんか、無力やなって⋯⋯」
「狭霧」
 真剣な声音に、思わずそちらに顔を向けた。
 表情はわからない。けれど、真崎がまっすぐ此方を見ていることだけはよくわかった。
「お前が攻撃の方向を教えてくれなきゃ、今頃オレはあの男たちにボコボコにされてる。お前がいなかったら、オレは摩利支天のことだって思い出せなかった。相手の攻撃も見えないままだったと思う。それってつまり、狭霧がいてくれたから、オレたちは今、こうして無事に逃げおおせたってことだろ。それは、お前にもできることがあって、無力なんかじゃねえっていう証拠になると、オレは思うけど」
「そうなんかな」
「天上天下唯我独尊、ってお釈迦さまも言ってるし」
「はあ」
「それにほら、身自らこれをくるに代わる者あることなし、って言うだろ」
「それは知らん」
「誰も、お前の人生を肩代わりしちゃくれねえってこった」
 真崎は俺の肩を軽く叩くと、その場に立ち上がり、此方に手を差し伸べてきた。
 手を掴めば、力強く握り返される。
 真崎の歪んだ手と、酷く歪み揺れる自分の手が混ざり合う。
 真崎に引っ張られて立ち上がった。
 手を離す。
「また部屋に行ったら、さすがに怒られるかな」
「かもな」真崎は軽快に笑った。
「でも、ほんまにしんどいんやったら、どんだけ迷惑がられても、病院に連れていったほうがいいと思う」真崎と並んで歩き、部屋を出る。「それに⋯⋯、さっきはなにも言えんかったから、ちゃんと伝えときたいねん」
「伝えるって、なにを?」
「飯はちゃんと食え」
「それはオレも言い聞かせたい」
「なんか事情があるんかもしれんけど⋯⋯」
「じゃあ、焼きおにぎり持っていっしょに行くか?」
「ますます怒られそうやん」
「うん? そりゃあ、仕方ねえだろ。心配するのも、お前がなにかしてやりたいって思うのも、結局全部、自分勝手で、お前の自己満足なんだからよ」真崎は普段通りの口調で言った。「だけど、ちゃんとそれを自覚してるなら、べつにいいんじゃねえの。良い反応を求めるから不安になるんだろ。なら、見返りを求めなきゃいい。どうせ、受け取るかどうかは相手に任せるしかねえんだ。お布施みたいなもんだよ」
「俺が近衛に焼きおにぎりを持っていくのはお布施なんか」
「そのくらいのほうが、気が楽だろ?」
 リビングに戻ると、長方形の皿の上に焼きおにぎりと沢庵が盛りつけられていた。夕方とはいえ、外はまだ明るい。昼食代わりの軽食だと思うことにした。
「敬たちは食べねえのか?」真崎が訊ねた。
「お気遣いなく。まだ腹も減ってませんしね⋯⋯」
「我々は、近くに宿を取りました」深が言った。「明日の朝、お二人をお迎えにあがります」
「迎え?」
「一度、お戻りになるようにとのご命令です」
「学校にどう説明したかは知らんけど、せめて終業式には出席したほうが良くないか」つい口を挟む。
「終業式はいつですか?」
「明日。大掃除して、そのあと」
「承知しました。では、終業式が終わり次第、我々がお迎えにあがります」
「今日の夜と、明日の朝食用に、弁当と、少し食料品も買い足しておきました」敬が言った。「近衛さまの分もご用意してありますので」
「ありがとう」
「なにかありましたら、私か敬の携帯にご連絡ください」
 そう言い残して、二人は早々にこの家から退出してしまった。扉が閉まる直前、敬がこっそりと振り返り、此方に向かって小さく手を振った。
 彼らは本当に、わざわざ説明するためだけに新幹線に乗って、此処までやって来たのだ。そう思うと、妙に気持ちが落ち着かない。
「なんか、大人になったな」
「誰が?」俺の独り言に、真崎が反応した。
「昔はいっしょに遊んどったのに」
「敬のことか?」
 返事はしなかった。
 もちろん、敬のことだ。けれど、敬だけではない。真崎だってそうだ。知らぬ間に大人になっていた。知らぬ間に組織に組み込まれた二人は、命令通りに動いている。意見や感情は押し殺し、己のことは二の次にする。それが大人になる、ということなら、大人になりたくないとさえ思うのは、自分がまだ、子供のままだからだろうか。
 変わったのは俺ではない。
 敬のほうだ。
 真崎の、ほうなのだ。
「近衛さんとこ、行くんだろ」
 真崎の声に振り返る。真崎は一人分の皿と箸を持っていた。
 頷いて、俺は再び近衛の部屋に向かった。