第二章 大暑

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 実家である久遠寺は、関西の、都会から少し離れた山奥にあるそこそこ大きな寺だ。
 何百年と続く古いだけの寺ではあるが、田舎ということもあり、敷地は広く、周辺の家のほとんどが檀家で地域との距離も近い。寺院の運営はお布施だけではなく、麓の土地を貸して得た収益や、幼稚園や施設の経営によって切り盛りされている。要は地主だ。
 そしてさらに、久遠寺には、もうひとつの側面があった。
「門外不出の呪術を受け継ぐあの寺に、この世ならざる力を求めて、国家転覆を企てる反勢力、反社会的組織、そして時の政府までもが力を得んと、寺を侵略するために攻めてきたのです。それらに対抗するため、必然的に僧侶たちは僧兵となり、より閉鎖的に、より強固な護りを築き上げました。また、物理的な力だけでなく、この地域に根ざすことで権力をも得、今日この日まで侵略を免れてきたのです」
「その名残で、今でも地域の治安維持のために間を取り持っとるっちゅう話に繋がるんか」父に何度も聞かされた話を思い出しながら相槌を打つ。「昔からよく狙われとったんや、とは聞いとったけど⋯⋯」
「魔法だか呪法だか知らねえけど、そんなもんが絡んでる話なら、そりゃあ親父たちも、そんなふんわりした説明になるよな」真崎は緑茶を一口飲むと、不意に思いついたように言葉を続けた。「でもさ、寺を侵略できたからって、その門外不出の力っていうのを手にできるわけじゃねえよな。巻物でも残ってるならわかるけど、あれ、完全に口伝だろ。しかもこちとら、命懸けの修行させられたんだぜ。仮に坊主を吐かせることができても、それを知ったからって、自分たちがいきなり自由に操れるようなもんなのか? 金のために国宝の仏像を盗むって言われたほうがわかりやすい気がするけど」
「おっしゃる通りです。ええ、力を得るための宝がある、と言えるかもしれません」深の言葉はそこで途切れた。
「オレらに話せるのはそこまでってことか?」真崎が訊ねる。
「はい。私たち方丈の名が、それ以上を知ることは許されておりません」深が答えた。「若を狙った者たちは、我々の呪法、或いはなんらかの宝を求める魔術師である、との見解が濃厚です」
「俺を狙う理由がわからん」腕を組み、顔を顰めた。「大体、それやったらなんで俺らをわざわざ上京させたんや。地元で進学したほうがよっぽど良かったやろ」
「若を狙った者たちを仮に魔術組織と呼びますが、当時、彼らが久遠寺をマークしておりました」
「だから俺らを逃した?」
「はい」深が頷く。「しかし、我々の想定よりも早く、居場所を嗅ぎつけられてしまい⋯⋯」
「だから、なんで俺なんや」
 沈黙が降りた。
 深と敬の躰、その縁の揺らめきが、一瞬激しさを増す。動揺。どう見ても、知っている反応だった。
 やはり彼らは、まだ、なにかを隠している。
「狭霧」真崎が顔を寄せて囁いた。「やめとけ。今のところ、これ以上は話を引き出せねえ」
 真崎の言葉に小さく頷き、目を閉じる。腕を組んだまま、椅子の背にもたれて力を抜いた。目を瞑っていても、揺れる視界の感触は残っている。深たちの揺らぎは、僅かに落ち着いたようだった。
「若。申し訳ありません」目を開ける。深が頭を下げていた。「真崎さま。今から数珠の修復を行いますが、このような事態ですので、結界の張り方を僭越ながらご教授いたします。先ほど、陽桐さまがご指示された真言は、あくまで応急措置ですので」
「了解っす」
「ところで、若、左腕に痛みはありませんか」
「左?」思わず左腕に触れる。二の腕を覆っているサポータがTシャツの袖から少し出ていた。「いや、特に」
「そちらの護符も、数珠と同じく、お護りするためのものです。痛みや異変があれば、すぐにお知らせください」
「わかった」
「あっちの和室、使わせてもらってもいいっすか」真崎は立ち上がって、扉の側に立っていた女性に向かって声をかけた。
 女性は真崎の言葉に頷くと、真崎と深を連れて和室に向かった。
 三人の姿が見えなくなってから、緑茶を一口飲む。
 湯呑みを机に置いた瞬間、一度も口を開くことなく斜め向かいに座っていた敬が、意味のない唸り声を上げながら勢いよく机に伏せた。
「なんやねんいきなり。行儀悪いぞ」
「だって、深さんの隣って、めちゃくちゃ緊張するんですよ」敬が答えた。「もう、移動中もずっと気ィ張りっぱなしで⋯⋯、よくやく着いたと思たら若は怖いし⋯⋯」
「歳下のガキ怖がってどないすんねん」
「そらもう、さすが、次の久遠組の頭ですから」
「関係ない」
「僕と若、言うて五つ違いですよ」敬はようやく躰を起こした。「でも、若も真崎さまも息災でなによりです。しばらく見ん間に、えらい変わらはりましたね。いやあ、それにしても、ほんまに怖かった」
「そっちは元気か」
「はい、変わりなく」
「良かった。あ、そうそう、真崎から買い物の連絡って受けた?」
「買い物ですか?」
「うん。焼きおにぎり食いたいって。でもこの家、米もなんもないらしくて⋯⋯、俺らは家から出るなって言われたから、来る途中に買ってきてもらおかっちゅう話になったんやけど。いやでも、二人来るとは聞いとったけど、自分らが来るって知らんかったし、頼もうにも頼めんか」
「ほんなら、今から買うてきますよ」
「その恰好でか?」
「肉や酒を買うのは躊躇われますけどね。白米と調味料買うだけなら、べつにええかなって」
「そういうもんか」
「他に欲しいもんあります?」
「いや、俺は特に。おにぎり貰うわ」
「ほなちょっと行ってきますね。すぐ戻ってきます」
 玄関まで敬を見送り、再び着席する。お茶を飲み終えた頃に、真崎と深がリビングに戻ってきた。
「敬はどちらに?」深が訊ねた。
「お使い頼んだ」
「なにかご入用でしたか?」
「焼きおにぎりに必要な材料」
「ナイス、狭霧」真崎は俺の背中を一度叩くと、数珠を手渡してきた。「ほいこれ。修復完了」
「ありがとう」
「先ほどもお話したように、それは結界の要ですので、肌身離さずお持ちください」
「わかった」左腕に数珠を通す。「そういえば、此処は大丈夫なん?」
「それ、オレもさっき深に訊いたんだけど、この神社にも結界が張ってあるんだとよ」真崎が隣の席に腰かけながら言った。「此処、今は無人で寂れてるけど、日本の魔術界隈では結構有名な家の管轄下らしいぜ。だから、オレらの実家と同じ、おいそれと手が出せねえってこった」
「じゃあ、近衛って、その家の出ってこと?」
「ま、その辺の事情は、本人が教えてくれるのを待ったほうが良さそうだな」真崎はお茶を煽り、残りを一気に飲み干した。
「俺、ちょっと、近衛の様子見てくるわ」
「おう。オレは此処で待っとく。あ、水でも持っていってやれば?」
「そうする」
 食器棚からガラスのコップを拝借し、キッチンで水道水を注いだ。リビングを出て、廊下を歩いていた女性に部屋の場所を訊ねる。
 グラスを持って、階段を上る。
 二階、廊下の突き当たり。最奥の部屋をノックした。