第二章 大暑

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 緑茶を飲みながら、真崎が持ち帰っていたホットドッグを食べた。いつの間に回収していたのか、相変わらず抜け目がない。真崎は食べかけだったチュロスを二口ほどで食べ終えると、女中らしき例の女性に声をかけられてシャワーを浴びにいった。その後、十分もしないうちに戻ってきた真崎と入れ替わりにシャワー室へ向かう。途中で、女性から紙袋を受け取った。袋の中には、新品の着替えが一式用意されている。
 汗を流して頭を洗い、真新しい下着とルームウェアに着替える。グレーのTシャツと、細身の黒いスウェットパンツだった。たしか、真崎も似たような恰好をしていた。
 用意されていたスリッパを履き、リビングに戻る。着ていた制服は真崎のものとまとめて袋に入れた。眼鏡は自分の鞄の中に放り込む。数珠入りのビニル袋は、制服のズボンから取り出して、とりあえず、スウェットのポケットに入れておいた。
「しっかし、家から出るなって言われてもなあ」真崎が呟く。黒いTシャツにグレーのスウェットパンツ姿だった。「さっきから腹減ってしょうがねえ」
「お前、あんだけ食べたくせに⋯⋯」時間を確認すると、一時少し前だった。「たしかに、俺も腹減ってきたけど」
「ごめんなさい。なにも用意できなくて⋯⋯」近衛が控えめに微笑む。
「あ、いや、そういうつもりじゃない」慌てて手を振って否定した。
「もうすぐこっちに二人来るんなら、なんか頼むか」真崎が携帯を触りながら言った。「なに食べたい? オレ、さっきからずっと焼きおにぎり食いたくってさ。完全にその口になってら」
「微妙に難しい注文やな」
「たしかに、店で捜すより、自分で作ったほうが早いかも」
「キッチンなら、好きに使ってもらってかまわないわ」近衛が言った。「もっとも、お米も食材もないけれど」
「冷蔵庫の中は?」真崎が訊ねる。
「なにも入れていません。コンセントも差していないの」
「お前、ほんまに此処に住んどる?」ずっと疑問に思っていたことを訊ねた。
「困ったわ。どうすれば信じていただけるのかしら」彼女は口許に手を添えたが、あまり困ったようには見えない。
「冷蔵庫も使わずに、食事はどうしてるんすか?」
「ご心配なく。生命維持に必須の栄養素は最低限摂取しています」
「なんか、怪しい言い方っすね⋯⋯」真崎の声が少し低くなった。「まさかそれ、錠剤だったりしねえよな?」
 近衛は答えない。笑顔のまま、可愛らしく小首を傾げている。つまり、それが答えだった。
「ちょっと、嘘だろ」
「あら。なにか可笑しくて?」
「待って、飯食ったことあります?」
「いいえ」近衛はそれだけ答えると、椅子から立ち上がった。「ごめんなさい。私は少し、自室で休むわ。他の部屋はご自由にお使いになって。もちろん、キッチンも」
 声をかける間もなく、彼女は廊下の奥へと姿を消してしまった。階段を上る幽かな足音を聞きながら、真崎と顔を合わす。
「どういうこと?」
「知らん。俺かて聞きたいわ」
「飯食わずに今まで生きてきたってこと? それって、生き物として有り得るわけ?」
「点滴だけで生きてるみたいなもんちゃうん」
「そんなことあるかよ」真崎は珍しく、顔を顰めたようだった。
 ほどなくして、インターホンが鳴らされた。真崎が玄関を開けると、門扉の前に二人の僧侶が立っていた。
「お久しぶりです」俺たちの姿を見て、一人が頭を下げる。「ご無事でなによりでございました」
しんけいだ」真崎が俺に耳打ちした。顔が見えず判断できなかったので、正直、とても助かった。どちらも似た坊主頭で、同じ法衣を着用している。かなり年齢差があるはずだが、自分の視界では全く区別がつかない。
 二人をリビングに案内すると、女性が再び姿を現した。すぐに、四人分の緑茶が用意される。
「お怪我はありませんか?」低く落ち着いた声だった。恐らく、此方がほうじょう深だろう。
「俺は大丈夫やったけど、真崎が⋯⋯」
「脇腹に一発喰らっただけだ。問題ねえよ」
「のちほど確認します」深が頷く。「わか。数珠はお持ちですか?」
「あ、うん。でも今朝、千切れてもうて⋯⋯」スウェットのポケットから取り出して見せた。
「お預かりさせてもろても?」
「かまわんけど」深にビニル袋を渡す。「これ、そない大事なもんなんか?」
「はい」深はゆっくりと息を吐き出した。「結界の要ですから」
「結界?」その言葉に反応したのは真崎だった。「いや、可笑しくねえか。結界つっても、外と内を分けるための線引きみたいなもんだろ? 結界石じゃあるまいし⋯⋯」
「結界石って?」
「ほら、紐で縛ってあってさ⋯⋯、昔、いっしょに蹴り飛ばして遊んでたらオレの親父に一日中叱られたときのアレ」
「あの石、そんな名前やったんか」
「仏教用語としての結界であれば、真崎さまの仰るとおりです。せやけど、この結界はさらに、密教的な、と申しますか⋯⋯」
「呪術的な?」真崎が訊ねた。
「その通りです」深が頷く。「より呪法的な側面を含みます。物理的な境界線としての結界ではなく、さらに印を結び、真言を唱えることで、魔と呼ばれるものの侵入を防ぐのです」
「だとしても、そもそも、動き続ける個人に結界を張って護るとか、そんな、漫画みたいな⋯⋯」
「その理解でよろしいかと」
「よろしいってお前⋯⋯」思わず口を挟んだ。「まさか、ほんまにおるとか言い出さんよな」この単語を声に出すことさえ、抵抗があった。「魔法使い、とか」
「若の隣にも、おられますよ」
「は?」真崎と声が被った。
 隣を見る。
 勿論、そこに座っているのは真崎だ。真崎も顔を此方に向けている。
「え、なに、お前、魔法使いなん?」
「んなわけねえだろ!」わざと明るい口調を装って、真崎は否定する。「深って、そういう冗談言うタイプだったっけ、珍しい⋯⋯」
 しかし、深も敬も黙ったまま。肯定もしないが、否定もしない。
「マジ?」真崎が恐る恐る訊ねた。
「正確に申し上げますと、魔法使い、という総称は用いられません。西洋では、魔術師、或いは呪術師と呼ばれるようですが、我々の宗派であるざん真言宗は、真言密教の中でも独自の、閉鎖的な呪術体系を継承してきました。その継承者のひとりが、真崎さまです」
「いやそんな、いきなり言われても⋯⋯」珍しく、真崎が戸惑ったような声を零した。「あ、待てよ、まさか継承って、あのときの修行か?」
「真崎さまが中学三年生のときに行われた修行かと」
「思い出したくもねえ」真崎が舌を出して見せた。
「ちょお待ってくれ」思わずその場に立ち上がった。「そんなん、いきなり信じられるわけないやろ。大体、それってつまり、真崎の父さんも、俺の父さんも、まさか兄貴も、自分らも⋯⋯」
「その通りです。とはいえ、呪法の全てを受け継ぐことができるのは、久遠と名護の名を継ぐ者に限られますから、あくまで我々は一部を知るのみですが」
「オレの姉貴もか?」真崎が訊ねた。
「いいえ。すみさまは、魔術適正が全くない、非常に稀な体質のお方でしたので」
「じゃあ、狭霧は?」
「もうええ」半ば無意識に舌打ちをしてから、椅子に座り直した。「どうせ話す気あらへんくせに」
「申し訳ありません。我々の一存ではなんとも⋯⋯」深が頭を下げる。「ですが、若を狙って奇襲を仕掛けてきたことは事実です。数珠の結界が切れたことで、居場所が特定されたのではないかと⋯⋯、ああ、そちらの説明もせんとあきませんね。私がお話しできる範囲で、ではまず、ちょっとした昔話から⋯⋯」