第二章 大暑

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 保健室へ向かう前に、自分と真崎の鞄を持ったまま隣の教室に入った。三年五組の教室では、真崎が言っていたとおり、焼きおにぎりと飲み物の販売を行っていたが、先ほどの騒ぎの影響か活気はなく、居心地の悪い空気が漂っている。
 入口にいた女子生徒の制止の声を無視して、パーテーションで区切られた教室の奥へと突き進み、押し込むようにして積み上げられた鞄や荷物の前に立った。
 先ほどの出来事で、ひとつ、わかったことがある。
 意識的に歪みを視る、という感覚だ。
 今まで自分は、視界の歪みに対して、できるだけ視ないようにすることだけを考えていた。それを正面から、しかも歪み方が変化する瞬間を意識して直視したせいだろう。歪みに対して過敏になっている、と言ったほうが正しいかもしれない。
 目を細めたくなるのを堪えて、鞄の持ち手をひとつずつ確認していく。
 持ち手が歪んでいない鞄を手に取った。
 学校指定のスクールバッグ。アクセサリ類は無し。
 念のため、残りの持ち手も確認したが、全く歪んでいなかったのはこれだけだ。
 恐らく、近衛の鞄のはず。
 教室を出て、階段を下りながら少しだけ鞄を開けた。やけに軽いとは思っていたが、ほとんどなにも入っていない。名前が確認できるものもなさそうだった。
 保健室に入ると、近衛がソファに座っているのが見えた。真崎はソファの前で、腕を組んで立っている。
「鞄、持ってきた」鞄を少しだけ持ち上げてみせた。
「今朝の数珠、今、持ってるよな?」
「え?」
「たしか、袋に入れたあと、鞄に投げ込んでただろ」
「あるけど⋯⋯」自分の鞄の中から、ビニル袋を取り出す。
「ちょっと借りるぜ」
「ええけど、どうしたん?」
「さっきの電話でな」しかし、真崎はそれ以上、なにも答えなかった。
 数珠が入ったビニル袋を持って、真崎はいちばん手前のベッドのカーテンを閉めた。しばらくして、こもった声が幽かに聞こえ始める。経のようだ。先ほどの電話で、そうするようにと兄から指示があったのだろうが、正直なところ、この非常事態に、と不思議には思う。
 携帯でタクシー会社に連絡をしてから、ソファの前に立ち、近衛の様子を伺った。
「大丈夫か」腰を屈めて声をかけると、近衛はゆっくりと頭を持ち上げた。「この鞄が嬢さんので合っとるかだけ、確認してほしいねんけど」
 彼女は小さく頷いた。鞄を見せる。中も開けてみせると、彼女は薄く微笑んだまま、もう一度頷いた。
「なあ、ほんまに大丈夫か、お前⋯⋯」鞄をソファの端に置いてから、彼女の隣に腰かける。想像よりも硬いソファだった。
「体力がないだけよ」ときどき、苦しそうな息の音が混ざる。「それなのに、階段を駆け下りて、走ったりしてしまったから⋯⋯」
「それだけでこないなるか、普通」だが、彼女が体育の授業を見学していたことを思い出し、自分の言葉の浅はかさに遅れて気づく。「いや、ごめん。今のは忘れて。とにかく、しばらくゆっくりしといたほうがいい」
「ありがとう」
 彼女は首を傾けながら伏し目がちに下を向くと、静かに此方を見上げた。緩やかな瞬きが、目許に落ちた長い睫毛の影を幽かに揺らす。いつもより鈍い一挙一動は、此方の視線をますます彼女に釘付けにした。
「飲み物、いる?」横に座っている彼女から、無理やり顔を逸らして訊ねた。「すぐ、そこの自販機で買ってこれるけど⋯⋯」
「家に着いてからで構わないわ」
 彼女の返事に頷いてから、窓越しに空を見上げる。嘘みたいに穏やかな青空だった。聞き心地の良い真崎の声に混じって、遠くから、少し賑わいを取り戻した生徒たちの声も聞こえてくる。
「訊きたいこと、また山ほど増えてもうた」
 俺の言葉に、彼女は静かに息を零して笑った。
「今、お訊きにならないの?」
「訊いたところで、どうせお前も俺には話さんのやろ」体勢を崩し、腕を持ち上げて頭の後ろで手を組む。
「お前も?」
「そう」
「どなたのこと?」
「実家の連中。いつも、俺には肝心なこと教えへんから。なんか隠しとることくらい、さすがにわかる」
「貴方のことが大切なのよ」
「どうかな。どっちか言うたら、俺だけ遠ざけられとるみたいな気がするけど。大体、あれは大事っちゅうより⋯⋯」
「私は、違うわ」
 俺の言葉を遮って、彼女が言い放った。
 思わずそちらに顔を向けると、いつの間にか近衛は、いつも通りの笑顔の形を口許に浮かべていた。もうそこに、か弱さはない。どこか現実離れした、整いすぎた笑みだけが残されていた。
「違うって、なにが?」
「そろそろ出発するみたいね」
 また話を逸らされる。追求する気にもなれなかった。自分も少し、疲れているのかもしれない。
 直後、カーテンを開けて姿を見せた真崎から、袋に入ったままの数珠を受け取った。ズボンのポケットに入れ、自分と近衛の鞄を持つ。真崎は近衛に手を差し出して、彼女の手を握ってその場に立たせた。
「校門まで、歩けますか?」真崎が訊ねた。
 近衛が頷いたのを見て、真崎は鞄を肩にかけると、近衛の歩幅に合わせて歩き始めた。二人の後ろをついて歩き、校舎の中を通って正門に出る。到着していたタクシーに乗り込み、真崎は近衛の手を支えて乗車を手伝ってから、助手席に座って運転手に行き先を告げた。
 羽張神社には、すぐに着いた。真崎は代金を支払うと、タクシーを降りて後部座席の扉を外から開け、再び近衛の手を支えて降車を手伝う。
「結構ちゃんとした神社っすね」真崎が鳥居を見上げながら言った。「途中、路地裏に入っていったときはちょっとびっくりしましたけど」
「普段は無人の神社なのだけどね」近衛は小さく肩を竦める。
 鳥居から少し左に逸れて奥に進むと、一軒の家があった。表札はない。近衛は玄関を開けると、俺たちを中に招き入れた。
 玄関に入ってすぐ、明るいリビングが広がっていた。天井は高く、全て板張りの内装である。しかし、一瞬、此処が彼女の家だとは認識できなかった。モデルルームだと説明されたほうがよほど納得できる。それほど、この小綺麗な家からは、生活感というものが完全に欠落していた。
「お帰りなさいませ」突然、奥から人が出てきた。
 白い服を着た女性のようだが、妙に歪み方が強く、それ以上のことはわからない。視界はまだ、過敏なままのようだった。
 どうにも、真崎と近衛という、歪みが静止した稀有な男と、全く歪まない奇跡のような女が傍にいると、ときどき、自分の本来の視界を忘れてしまいそうになる。
「急で悪いのだけれど、お茶を用意してくださる?」
「かしこまりました」
「それと、二人にシャワーをお貸ししたいの」
「お着替えの用意は、少々時間がかかります」
「わかりました。そちらは急ぎません」
 女性は一度頭を下げて、キッチンに向かった。
 近衛の案内でリビング中央の机に座った俺たちは、真崎の携帯で兄に連絡を入れた。真崎はスピーカにすると、机に携帯を置く。
『無事に着いた?』
「はい」真崎は少し躰を乗り出すと、携帯に向かって答えた。「不審な人物も、今のところ見当たりません」
『斎ちゃんの様子は?』
「私なら元気よ」向かい側に座っていた近衛が口を開く。「お気遣い、どうも」
『あれ、これスピーカ? 狭霧もおるんか?』
「おるけど」わざと不機嫌な声を出すと、兄は少しだけ笑った。
『そない不貞腐れんなや。ビデオ電話にしたろか?』
「せんでええ。それより、とっとと説明せんかい」
『今、新幹線でそっちに向かわせとる。説明は、その二人が到着してからかな。少なくともそれまでは、その家から出んように』
「新幹線? え、今?」
『もう二、三時間で着くと思う』
「なあ。俺らを襲ったのって、いったい、なんなん」
 一瞬、リビングが静まり返る。湯の沸く音がしていることに、初めて気がついた。
『魔法使い、かな』