第二章 大暑

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 中庭に着地した人間を直視した瞬間、一気に吐き気が込み上げた。咄嗟に俯くが、すぐに耐えられなくなり、膝をついて蹲る。
「狭霧!」
「シャクジョウ? っていうの? 君のだっけ。はい、どうぞ」場違いな明るい声が近づいてくる。男だ。「あ、ちょっと、そんな怖い顔で睨まないでくれる? 持っていけって言ったの、コノエちゃんだから」
 膝をついた俺の前に、真崎の錫杖袋が投げ落とされる。真崎はひったくるようにして袋を掴むと、急いで中身を取り出した。
 吐き気をどうにか飲み込めたところで、男を視界に入れないようにして少し顔を上げる。真崎は此方に背を向けており、錫杖は既に組み上がっていた。
「大丈夫か、狭霧」
 三階の窓をもう一度見上げると、一瞬、近衛の姿が見えた。すぐに近衛は窓から離れたようだったが、窓から飛び降りた男と近衛の関係もわからず、ますます気分が悪くなっていく。
「狭霧。攻撃どっちから来るか、言えるか」
「大丈夫⋯⋯、言える」
 傍にあったパイプを手に取り、その場に立ち上がる。息をゆっくり吐き出して、もう一度、黒い集団と正面から向き合った。真崎は錫杖を構え、男たちは腕を突き出すようにして構えている。
 捩じ切られるように歪んだそれが、再び勢いよく放出された。
 真崎にその方向を叫びながら、自分もパイプを握りしめて構えつつ、どうにか攻撃を避ける。攻撃の隙に、真崎はすかさず相手の腹に膝を入れ、横から飛び出してきた男の動きを錫杖で封じた。
 先端の輪がぶつかり合って、甲高い音が何度も響く。
「やっぱ、オレに視えねえってのは不利だよな!」相手の攻撃を捌きながら、真崎が此方に振り向いた。
「いやそうやけど、」横から伸びてきた手を力任せにパイプで殴った。「ちょお、前、前に集中せんかい!」
「親父のやつ、なんて言ってたっけな、」
「真崎、左!」
「ッ、こう⋯⋯、守るっていうか、悪霊退散じゃねえ、」
「正面と二時方向、」
「必勝祈願みてえな、さ!」
 攻撃を避け切った真崎は、相手に蹴りを入れて反撃した。
 必勝祈願。
 どこかで聞いた。つい最近だ。
 必死に記憶を遡る。
 思い出せ。
 一瞬、
 真崎の手が脳裏を過ぎる。
 印を結んでいた、
 俺には形が判らなくて、
「陽炎!」
「急になんだよ、今そんなこと言ってる場合じゃ、」真崎は悪態を吐いたが、すぐに気づいたのか、相手を思い切り突き飛ばしてから、錫杖を脇に挟む。「ごめんそれだわ、お前の正解!」
 しかし、印を結ぼうと腕を構えかけたところで、真崎は突然舌打ちをした。
「くそッ、法衣じゃないの忘れてた」
 苛立ちを隠さずにそう吐き捨てると、素早く錫杖を両手で持ち直す。すぐに再開された攻撃を躱しながら、真崎はぶつぶつと何かを呟き始めた。恐らく、陽炎の女神とやらの真言だ。相手にもその声が聞こえているのか、先ほどよりも攻撃に躊躇いが伺える。
 だが、奥にいた男が真崎に向けて手を伸ばし、
 次の瞬間、
 俺が声をあげる間もなく、衝撃波が真崎を襲う。
 しかし、真崎はそれを見事に躱した。
「え?」誰よりも驚いていたのは真崎だった。「なに? オレ、もしかして中二病ってヤツ?」
「み、視えるんか、お前」
「視えた」真崎は短く息を吐き出して笑った。「視えりゃこっちのもん、ってな!」
 真崎が一歩、強く踏み込む。
 相手の男の一人がしめたとばかりに真崎の錫杖に掴みかかるが、次の瞬間、その男は見事に投げ回されていた。すかさず男の腹を錫杖で突く。斜め後ろから襲ってきた男には、逆側の先端で躰を突いた。
 呻き声に混じって、遠くから、慌ただしい足音が聞こえてきた。人だかりが割れ、そこから誰かが走ってくる。警察官の制服のようだった。
 男たちはなにかを囁き合ったあと、警察官から逃げるようにして、散り散りに走り去っていった。
 スーツの集団や、追いかけていった警察官の姿が見えなくなったのを確認して、握りしめていたパイプを投げ捨てた。真崎は錫杖を地面に突き立てて持ったまま、辺りを警戒している。
 周囲が少しずつ騒めきを取り戻す。
 先ほどまでの出来事が、今になって、ますます理解できなくなった。
「狭霧」
 真崎に呼ばれてそちらに顔を向けると、近衛がいた。校舎から走ってきたのか、かなり息が上がっている。
 傍まで来ると、突然、彼女は膝から崩れ落ちた。
 咄嗟に手を伸ばしかけたが、視界に入った己の手を見た途端、躰が動かなくなる。
 初めて出会った日のことを思い出した。
 この手で触れることはできない。あのときも、同じことを考えた。
 手を伸ばすことも、下ろすこともできないまま。
 なによりも、この状況でさえ尚、彼女に触れることを躊躇う自分に嫌悪感を抱いた。
「おっと、あぶね⋯⋯」真崎が片腕で彼女を抱き止める。「大丈夫か?」
 彼女の声は、電話の通知音で掻き消された。
 自分の携帯だった。画面には、兄の名前が表示されている。普段、どうでもいいメッセージはときどき送られてくるものの、兄から電話がかかってくることはない。先ほどの出来事に関係があるとしか思えなかった。
 耳に携帯を当てた瞬間、普段とはかけ離れた、焦った声が破裂した。
『狭霧! 無事か!』
「俺も真崎も、無事やけど⋯⋯」真崎を見ると、近衛を支えたまま此方に近づいてきた。「なあ、どういうことやねん、これ」
『良かった。すまんけど、説明は後や』兄はそこで、声を潜めた。『斎ちゃん、そこにおる?』
「え?」つい、彼女を見た。近衛は依然として、真崎の腕に力なく寄りかかっている。「ちょお待って、いや、なんで⋯⋯」
『おるんやな? ほんなら、まずは、その子連れてばり神社に向かってくれ。その子の家がある』
「兄貴、」
『先生にも警察にも、なんも話さんでいい。こっちから話つけるから、とにかく、今すぐ場所を移動すること。それと、真崎くんに電話代わって⋯⋯』
「陽桐にぃ!」
『後で絶対に説明する』電話越しに、慌ただしい足音や指示の声が聞こえていた。『頼む。今は言う通りに動いてくれ』
 兄の言葉には返事をせず、真崎に携帯を渡した。汗ばんでいた掌をズボンに擦りつける。力を入れすぎたのか、指が僅かに震え始めた。
「ただいま代わりました。はい、⋯⋯はい、あります。え? 真言? はい⋯⋯、はい。わかりました。覚えています、大丈夫です。到着次第、此方から連絡します。失礼します」
 電話を切ると、真崎は携帯を俺に返してから、近衛をその場に座らせた。持っていたままの錫杖を分解し、袋に入れて、彼女を両腕で抱え直す。
「狭霧。悪いんだけど、教室から鞄持ってきて、保健室に来てくれねえか。そのあとで、神社に向かう」
「わかった」
 校舎の三階を見上げる。
 気がついたときには、あの得体の知れない人間の姿はもうどこにもなかった。