第一章 小暑

 
     9

 チャイムが鳴った数分後、真崎が制服を二着抱えて戻ってきた。俺たちが着替え終わってからも、近衛は開けたままの窓の傍に立っており、横目で外を見ている。ときどきゆったりと顔を此方に向けたが、口を開くことはない。
 制服に着替え、ベッドに腰かけると、スプリングの音が大きく鳴った。
「ったく⋯⋯、近衛さんが、お前とどう関係してくるんだか」真崎が丸椅子に座りながら呟いた。
「あれが、幽霊の正体」
「はあ?」
「やっぱり、怒っとる?」俺たちは小声で会話を続ける。
「べつに怒ってるわけじゃねえけど」真崎はそこで、腰を伸ばして躰を起こし、少し顔を背けた。「なんか、腹立つというかさ⋯⋯、オレに言えねえことを近衛さんには言えるのかよって思ったら、ちょっと悔しいだけっていうか」
「俺、あいつにはなんも言うてへん」
「え?」
「近衛が勝手に知っとっただけや。今から話すこと、俺はまだ、誰かに自分から話したことない」真崎から目を逸らして俯いたあと、再び顔を上げると、近衛が視界に入った。「近衛の名前、知っとったんやな」
「お前が知らなさすぎるんだよ」
「自分が記憶力良すぎるだけやと思う」
「褒めたって、機嫌は直してやらねえぞ」真崎が少しだけ口を尖らせたのが見えた。「ほんと、お前は昔から、顔と名前覚えるの苦手だよな」
「ああ、うん⋯⋯、というか、今からの話が、それに関係してくるっていうか。体調のことも、近衛のことも、実は全部同じ話というか⋯⋯」
「ふぅん」
 そこで一度、会話が途切れた。
 話すことなどひとつしかないのに、なにから話せばいいのかわからない。切り出し方を考えようとすればするほど、時計の秒針の音が妙に気になってしまい、結局なにも思いつかない。
「そんで⋯⋯、どっか悪いのか?」俺の様子を見かねたのか、真崎がそんな問いを投げかけてきた。
「いや、病気とかではない。そこは大丈夫。ただ⋯⋯」近衛の姿を盗み見る。「俺はずっと、頭の病気かなって思ってたけど」
「頭?」
 彼女は横を向いたままだったが、少しだけ口角を釣り上げたのが見えた。
「俺、な」渇いた喉ではうまく唾を飲み込めなかった。「お前の顔、わからんねん」
 一瞬の沈黙。
「それって、目が悪くなった、とかじゃなくてか?」
「視力の問題じゃない。そうじゃなくて⋯⋯、お前の躰全部がよくわからんねん。人間も動物も、生きてるモン全部が、こう、ぐにょぐにょして見えるというか。渦巻いてたり、波打ってたりして、原型を留めてなくて⋯⋯、その上、ゆらゆら揺れてたりする」
「え、なに、⋯⋯いつから?」
「中三。ほら、ちょうど、俺が開かずの蔵開けた頃」
「そういえばあったな、そんなこと。普通に開く蔵になっちまったじゃんとか言って⋯⋯」真崎が突然、弾かれたように動いた。「おい、あの頃って、お前がずっと吐いてた時期じゃ」
「うん。視界がぐにょぐにょしたり不規則に揺れたりするせいで、乗り物に酔ったみたいな感じで、ずっと気分悪くて」
 俺の説明に真崎は気の抜けた返事をひとつ寄越したきり、なにも喋らなくなってしまった。
 やはり話さないほうが良かったのでは、と後悔を覚え始めた頃、近衛が此方に向かって歩いてきた。自分の向かいのベッドに腰かけると、真崎を見て笑みを浮かべる。
「御機嫌よう」わざとらしいまでに綺麗な発声だった。「こうしてお話するのは初めてね、名護くん」
「あ、はい。そうっすね。あの、ところで⋯⋯」
「私と彼の関係が気になるのね? ええ、もちろん、それは当然の疑問です」
 近衛と真崎が会話している、というのは不思議な感じがした。近衛は誰に対してもこういう喋り方なのだと、改めて思う。
 彼女は足を組むと、その微笑みを此方に向けた。彼女が説明してくれるわけではなさそうだった。彼女が俺をどう評するのか、気にならないわけではなかったのだが、仕方がないので素直に事情を伝える。
「なんでか判らんねんけど、こいつだけは歪まへんねん」
「えっと⋯⋯、それってつまり、近衛さんのことだけはちゃんと人型に見えてる、ってことか?」
「そう」
「オレのことは、人型に見えてない、んだよな」
「ごめん」
「狭霧が謝ることじゃねえだろ。なあ、そういや、お前自身は?」
「いや⋯⋯」首を振った。「なんなら、いちばん酷い」
「なるほどな。うん⋯⋯、正直、まったく意味わかんねえけど、でも、やっと納得できた気がする」
「ね?」近衛が僅かに首を傾げて、俺に声をかけた。「言ったでしょう。大丈夫よ、って」
「いや、だって、こんなすんなり受け入れてくれるなんて思わへんやん⋯⋯」
 眼鏡を外し、目を瞑って眉間の辺りを親指で押していると、左手から眼鏡が抜き取られた。目を開けてみると、真崎が眼鏡を持っている。
「じゃあ、この伊達眼鏡は?」どうやら眼鏡をかけているらしい。
「眼鏡と前髪で、目の邪魔したら、できるだけ直視せんようにできるかなと思って」
「道理で、いつもお前と微妙に目が合わないわけだ」
「真崎とは、頑張って目ェ合わせとるつもりやったんやけど⋯⋯」
「だからオレ、ゲームのしすぎで急激に目が悪くなったのかと思ってたんだよな」真崎は眼鏡を外すと、俺の左手に乗せた。「でも、それだといきなり無口になった説明がつかねえし」
「喋らんかったら、他人と向き合わずに済むやろ。大体、方言とか、むっちゃ目立つやん。目立ったりして、良くも悪くも他人と関わると、俺としては視界が最悪なことになるから⋯⋯」
「できるだけ直視しないために、できるだけ他人との関わりを断とうとしていた、というわけね」
 言葉の続きを拾い取った近衛に、俺は無言で頷いた。
「なんで近衛さんだけ歪まねえの?」
「それは、俺が知りたい」近衛を見た。「ほんまに何者なん、お前」
 俺も真崎も、彼女のほうに躰を向けた。
 近衛は軽く目を閉じる。しかし、すぐに目を開き、此方を射抜いた。
「私が何者であるか、それを私自身が定義することはできないわ。私は私であって、貴方は貴方。貴方が私を幽霊だと位置づけるのであれば私は幽霊なのだし、貴方が私を不審な女だと位置づけるのなら、貴方にとって私は不審な女でしかない。私の立場がどうであろうと、貴方の立場がどうであろうと、ただそれだけのことだと思うけれど」
「つまり?」
「私自身は何者でもありません」近衛は悪びれもなく微笑んだ。「私がなにかを決めるのは、私以外の存在よ」
 曖昧な返事をすれば、彼女もまた、曖昧に首を傾げた。細い毛先が宙で緩やかに揺れ動く。
「でもさ、これ、原因も理屈もわかってねえんだよな」真崎が話を切り換えた。「家も知らねえのか?」
「なんもわからんし、誰にも言うてない」
「原因の心当たりは?」
「正直、いつ歪んだんか、あんまりよく覚えてないねんよな。気づいたら目の前が歪んでて、気分悪くなって吐き出したことは覚えとるんやけど」
「オレも、中学生の頃に、お前が吐きまくって病院沙汰になったことは覚えてるんだけどな」真崎が腕を組んで唸る。「まさか生き物アレルギーだったとは」
 たしかに、生き物を見ると気分が悪くなるのだから、その表現はあながち間違っていないのかもしれない。
「お前も、その頃から変わったよな」
「え? ごめん、聞いてなかった。なんて?」
「なんでもない」俺は首を振った。
「それじゃあ、私はそろそろお暇するわ」近衛は音もなくその場に立つと、俺と真崎の間を歩いて通り抜け、此方に背を向けた。
 一瞬、なにかが香ったような気がしたが、それもまた、音もなく遠ざかってしまう。
「せっかくだし、もう少しサボっていったらどうすか?」真崎が言った。
「ありがたいお誘いだけれど⋯⋯」近衛は一度振り返った。「あとは貴方たちお二人で、赤裸々に親睦を深めてちょうだいな」
 彼女が保健室を出ていくと、突然静かになった。しかし、先ほどよりも居心地の悪さはない。真崎の躰も、もう揺れてはいなかった。完全に静止している。この視界の中で、それは歪まない彼女の次に異常なことだった。
「ところで⋯⋯、その」揺れていないことを根拠に、俺は口を開く。「機嫌は、直ったり⋯⋯」
「まだちょっと直ってねえ」いつもより低い声で真崎が即答した。
「いや、信じてくれただけでも俺は嬉しいねんけど、できれば、やっぱり、機嫌も直してほしいな、とか⋯⋯」
 真崎はしばらく黙ったまま、どうやら此方を睨んでいたようだが、不意に顔が逸らされたかと思うと、脱力しながら大きく息を吐き出した。
「仕方ねえな。ま、お前にも事情があった、って判ったし⋯⋯、オレもちょっと苛ついちまって悪かった。直してやるよ」真崎は突然立ち上がると、俺の額を指で弾いた。「百円のコーラでな」